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第39話 動き始めた管理人

 朝の空気は、まだ少し冷たい。


 凪原透は箒を手に、アパートの外通路をゆっくりと掃いていた。落ち葉と砂埃が重なった隅を一掃きで集め、塵取りに収める。ついでに排水溝の上に詰まった枯れ葉を指先でつまんで取り除き、軽く水で流した。手元の動作はすべて無駄なく、迷いなく。


 サラリーマンを辞めてこのアパートを買い取り、管理人を始めてからずっと続けてきた作業だった。


 大した仕事ではない。けれど、細かな部分まで気を配って丁寧にやろうと思うと、それなりに時間がかかる。


 そういう心配りが、住人の暮らしを少しだけ豊かにしてくれる。回り回って、それは透自身の心地よさにも繋がっていた。


 一旦休憩のために管理人室に戻りながら、透は今日の予定を頭の中で並べ直す。


 午前中は引き続き、管理人の仕事。先月から不調を訴えている部屋の換気扇を、今日のうちに見ておきたい。それと、ベランダの手すり塗装。道具は揃っているので、集中して取り掛かりたい。


 夕方には、日和との訓練の予定が決まっていた。再開した彼女との時間だ。これは最優先で確保する。


「……あとは」


 スケジュールを確認しながら、透はもう一つの予定を思い浮かべる。


『午後。余裕あれば探索士協会の依頼確認』


 最近になって新しく加わった項目だ。資格を取得してから、各種の手続きや登録もすでに済ませてある。いつでもダンジョンに入ることができるようになり、協会から新人向けの仕事が随時紹介される。それを順にこなして実績を積んでいく――それが透の現在の段階だった。


 だが、透の中では、その優先度はあくまで低い。空いた時間にやる仕事。その程度の位置づけだった。


 優先されるのは、日和との訓練と、アパートの管理。その次に、探索士としての仕事。順番ははっきりしている。


 ほとんどの新人は、ダンジョンこそが本業で、生活時間の大半をそこに振り向けているらしい。けれど、透はそうしなかった。住人の暮らしを支える毎日。そこに、ほんの少しだけ新しい仕事が加わった。それで十分だった。


 おそらく、それでも自然と評価は積み上がっていくはずだ。それだけの実力があると、強い自信があった。


 透はキッチンに立ち、湯を沸かして一杯のコーヒーを淹れた。豆を挽く音、湯気の立ち上がる音、注がれる細い音。落ち着ける時間。


 窓の外で、近くの小学生たちが声を上げて通り過ぎていく。郵便配達のバイク音が遠ざかっていく。二階のどこかの部屋で、誰かが洗濯機を回し始めた音がする。


 当たり前の朝。


 コーヒーを飲み干し、洗い物を済ませる。休憩を終えた透は工具箱を肩に担いで、玄関を出た。さて、仕事に取り掛かろう。



***


 午後二時を少し過ぎたころ、透は街の中心部にある探索士協会の支部を訪れていた。駅前の大通りから一本入った場所に建つ、五階建ての落ち着いた建物。出入口の自動ドアの脇には、国家資格である探索士登録証の提示を求める旨が貼られている。


 透はロビーに足を踏み入れるとカード型の登録証を取り出して、スタッフに提示した。すぐに入場を許可された。


 ロビーは、思っていたよりも人がいた。依頼板の前に集まる若い探索士たち。受付に並ぶ列。設置されたテーブルに座って、何やら相談している四人組のパーティー。


 これが、探索士たちの日常なのだろう。透が今まで縁のなかった世界で、それがとても新鮮に感じた。


 四人組のパーティーが、地図らしきものを広げて何やら言い合っている。役割分担の話だろうか。誰かが冗談を言ったらしく、一人が小さく笑った。


 ああいう形があるのか――と、透はぼんやりと思う。


 日和からも、聞いていた話。仲間との連携、信頼、役割分担。透にとっては縁の遠い世界の言葉として聞いてきたものが、こうして目の前で営まれている。


 周囲の様子を観察しながら、透は依頼板の前を通り過ぎ、一番奥の窓口に並んだ。新規の依頼を紹介してくれる窓口だと、入口の案内に書かれていた。


 すぐに順番が来て、カウンターに登録証を差し出す。応対したのは、二十代後半ほどの女性職員だった。


「凪原様、お待たせしました。本日は……ええと」


 彼女は端末の画面に視線を落とし、軽く首を傾げた。


「探索士登録情報、確認しました。本日は依頼の割り当てをご希望でしょうか?」


「はい。お願いします」


 透は穏やかに頷いた。


 職員は手元の端末をしばらく操作してから、少し申し訳なさそうな顔で透のほうに向き直った。


「あの、凪原様。事前にお伝えしておきたいのですが――」


「はい」


「探索士の登録自体は完了しておりますが、当協会で受任された案件の実績がまだございません。学校に通われたという記録もなく、こちらからご紹介できる仕事は、しばらくの間、難易度の低いものに限らせていただく形になります」


 言いにくそうに、彼女は続ける。


「内容としては、初級ダンジョンの巡回。小規模な討伐。それと、素材回収や魔石確保といった、いわゆる『下積み』の業務になります。資格上のランクとは別に、当協会内での評価が積み上がるまでは、どうしても紹介できる案件の幅は限られていて」


「ええ、わかりました」


 透が静かにそう返すと、職員のほうが、かえって戸惑った表情になった。


「あの……ご不満などは」


「特には。最初はそういうものだろうと思っていましたから」


 ごく自然に、透はそう答えた。


 別に、いきなり難易度の高い奥地のダンジョンに行きたいわけでもなかった。協会には協会のルールがあり、新人として登録された以上、その評価枠の中から始めるのは当然だ。仕事として依頼を受けに来た以上、職場の段取りに従うのは当たり前のことでしかない。


 担当の職員は、ほっとしたような顔で表情を緩めた。


「そう仰っていただけると助かります。皆さん、資格を取られた直後はすぐに活動を始めたいとお考えのようで。最初の案件内容に納得されないことも少なくなくて……」


「いえ。むしろ、いきなり大きな仕事を回されるほうが落ち着きません」


 透は控えめに笑った。


 職員は、ほんの一瞬だけ、その笑い方に目を細めた。何か言いかけて、口をつぐむ。それから、慌てたように端末へ向き直ると、依頼の詳細が書かれた書類を用意し始めた。


「では、本日ご紹介できる案件は、こちらの三件になります」


 そして差し出されたのは、いずれも市内近郊にあるという初級ダンジョンに関する案件だった。


「報酬については書類に記載されている通りです。納品物がある場合には、帰還時にあちらの窓口でそのまま査定・買取まで行えます。新人の方の場合、初回はだいたい一件か、頑張って二件をこなして帰られる方が多いですね」


 穏やかに説明する職員の声には、明らかに「無理はなさらないでくださいね」というニュアンスが含まれていた。


 透は書類を順に確認し、軽く頷く。ここから一番近い場所にあるものを見つけて、それに決めた。


「では、こちらの案件でお願いします」


「こちらですね。……はい、手続きを行います」


 端末が操作され、書類にも受任印が押される。 


「初回ですので、念のためにお伝えしておきますが、無理はなさらないでくださいね。今回のご依頼でしたら、途中で取り下げていただいても、こちらではペナルティは設けておりませんから」


 説明を聞き終え、準備は整った。


 書類をカバンにしまい、登録証も忘れずに胸ポケットへ収めて、ロビーを出る。


 外に出ると、午後の陽射しがまだ十分に暖かかった。透は腕時計を確認する。日和と約束した時間までは、もう少しある。少し急いで片付ければ、十分に間に合うはずだった。


 初めての案件ではあったが、透自身、それを「重い仕事」とは捉えていなかった。


「最初は、こういうものだよな」


 軽く呟いて、透はダンジョンへ向かう道を歩き出す。



***



 目的のダンジョンの入口は、住宅街の外れに、ぽつりと佇むようにあった。柵で囲われ管理棟が併設された、ごくありふれた光景。何度も書類で見てきた、初級指定の場所。


 透は脇に建っていた事務所の建物で書類を提示し、立ち入りが許可された。入口の前に立つ。


 試験以来、二度目の現実の地にあるダンジョンへ足を踏み入れる。空気の重さ、足元の感触、薄く流れてくるダンジョンの雰囲気。


 透は特に気にすることもなく、当たり前のように、その一歩を踏み出した。

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