第38話 トラウマを乗り越えて
透は探索士の資格を取得したことを日和に伝える前に、両親にも報告していた。
今まで普通に暮らしてきた透は、そのことを話すかどうか迷ったのだが、黙っておくことはできないと考えて、話すことにした。
電話に出た母親に向けて簡潔に、そのことを話した。『探索士の資格を取った』と言ったあと、しばらく向こうから声が返ってこなかった。
受話器の向こうで、母親が何かを呑み込んだような、小さな息の音がした。
覚悟はしていた。探索士の資格を取得するなんて、普通からは逸脱している。今までならやってこなかったこと。どうして急に。無茶じゃないかと心配されるとか。「危ないことはやめて」と止められることも懸念していた。
返ってきたのは、そのどれでもなかった。
『おめでとう』と言われた。純粋に祝福された。
一瞬、返す言葉を失った。
その後は父に電話を代わって、『お前のやりたいことなら、やればいい』と言われた。それだけだった。
透は拍子抜けした。
電話越しに聞こえてきた二人の声には、迷いも、戸惑いも、ほとんど含まれていなかった。ただ、息子が何かを自分で決めたという事実を、そのまま受け止めている声だった。
思い返してみれば、身近にいた人たちから『普通でいろ』なんて、一度も言われたことはなかった。『普通でいるべきだ』というルールを自分に課して、それを三十年近く守り続けてきただけだった。
ずっと、その通りに生きてきた。
長いあいだ無意識に上げ続けていた透の肩が、その時に初めて自然な位置に戻ったような感覚だった。
両親に報告して、彼らの反応で透は理解した。自分の人生を縛っていた檻は、最初から鍵がかかっていなかった。鍵がないどころか、扉なんて、そもそもなかったかもしれない。
自分で引いた線の内側に立ち続けていただけなんだと。
***
カップの中で、冷めきったコーヒーが小さく揺れていた。いったん落ち着いた雰囲気の部屋。
透は日和に、今後の方針を共有していった。
「もう、無理に隠さなくていい」
その言葉を聞いた瞬間、日和の肩がわずかに揺れた。ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩んだようだった。
透が言った言葉の意味を、日和はゆっくり頭のなかで反芻しているようだった。
「俺がただのアパートの管理人じゃないってこと。君が誰に師事しているのか。訓練のこと。その経緯。――そういうことを、これからは君ひとりで隠そうとしなくていいんだ」
「……」
「俺はもう、隠すのをやめた。表に名前を出した。探索士の試験に挑戦して、試験官の目の前で力の一部を見せた。これまでのように、君がバラしたら終わるなんてことはもうない」
日和が黙ったまま話を聞いているのを確認しながら、透は続けた。
「学校などで、誰かに『師匠は誰か』って聞かれたのなら、君の判断で答えていい。話したくなければ話さなくていいし、信頼できる相手なら、率先して話してくれても構わない。どっちを選んでも、君が責任を取らなくていいように、こちらの側で先に動いておく」
これからは、隠れるつもりもない。
アパートの管理人は続けながら、日本各地にあるダンジョンでも回ってみようと考えている。そこで、どんどん成果も出していくつもりだった。
そう遠くないうちに、探索士として名前も広まるはずだ。だから、もう隠す必要はない。
もしかしたら、こちらの世界のダンジョンで、自分の知っているダンジョンと関わりのある何かを見つけられるかもしれない。そんなものを発見できる可能性は限りなく低い。そう思いながらも、動く理由にはなる。
「周りの監視を変に気にする必要も、もうない」
「わかりました」
ようやく受け入れて、息をつく日和。予想外な展開ではあったけれど、彼女の抱えていた罪悪感も取り除けたはずだと、透も一息ついた。
そして、もう一つ。伝えておきたい、二人にとって大事なこと。
「あっちの、訓練場でのトレーニングも再開しよう」
「いいんですか?」
それを聞いた日和の頬が、ほんの少しだけ、内側から色を帯びた。やる気十分。
「ああ、もちろん。隠すために控えていた理由は、もうないから。君さえ良ければ、また一緒にトレーニングに励もう」
言葉にならない感情を、いったん、そこで抱えながら日和は言葉にする。
「……強く、なりたいから、だけじゃないんです」
彼女はぽつりと、そう呟いた。
ほとんど、独り言のような声だった。
透に説明している、というよりも、日和が自分自身に確かめるように――そういう言い方だった。
「強くなれるから、嬉しいって、それだけじゃないんです」
「ああ」
日和の言葉を聞いた透は、頷いた。
「わかるよ」
「……」
「君が、何を大事にしてくれていたかは、この前に語ってくれたから。よくわかっているつもりだ。俺にとっても、あの訓練場で過ごした時間は、ただ強くなるためだけの時間じゃなかった」
日和が、ようやく笑った。
透が久しぶりに見る、心からの笑顔だった。いろいろな問題が解決して、解放された――そういう表情だった。
日和は慌てたように、ぱっと両手で頬を覆った。自分が思った以上に喜びを顔に出してしまったことに、彼女自身も気づいたのだろう。
「すみません」
「いや」
そんな彼女の仕草を見て透は、首を軽く振った。大丈夫だと。
「謝らないでくれ」
「……はい」
日和は、両手で頬を覆ったまま、軽く頭を下げた。しばらく恥ずかしそうにして。
「改めて、お願いします」
落ち着きを取り戻したあと。両手を膝の上に置いて彼女は姿勢よく、深く丁寧に、頭を下げた。
「また――師匠の隣で、訓練させてください」
その「お願いします」は、最初の弟子入りのときの真剣さと、これまで一緒に過ごしてきた時間の重みと、今ここで取り戻したばかりの確信とが、すべて重なった声だった。
「ああ」
透は短く、けれど、確かに応えた。
「こちらこそ、よろしく頼む」
***
「……話したいことも伝えたし。お昼は、どうする?」
「お言葉に甘えても、いいですか」
「もちろん、すぐ用意しよう」
透は席から立ち上がると冷蔵庫を開けて、手早く材料を確かめた。ありあわせで何か作れるだろうと見当をつけて、コンロに手を伸ばす。
「……訓練場、いつから、行きますか?」
そう問いかけてくる日和の声は弾んでいた。自分で気づいたのか、そのあとで「あ」と小さく言って、少し照れたようにこんなことを言う。
「いえ、その、急がなくて、いいんですけど」
「ああ、急がない。でも、時間に余裕があるのなら昼食後に行くか?」
「はい!」
約束通りに昼食を済ませた後、二人は久しぶりに揃って別空間に用意された訓練場に向かった。
訓練用の装備を整えた日和が、剣を構える。その動きは、透が最後に見たときよりも洗練されていた。学校で、実戦で、仲間と過ごした時間のぶん、しっかりと彼女の剣は鋭くなっていた。
それから日和は、透としばらく離れていた期間の学校や実戦で学んできたことを、一つずつぶつけていく。透はその一つ一つを受け止め、細かな癖を指摘し、新しい動きを加えていった。
時間も忘れて、たっぷりと。
以前と同じ訓練場。以前と同じ師弟の構図。けれど、雰囲気はもう以前とは違っていた。解放されて、生き生きとして、自分たちがやりたいように。
二人がそれぞれ、自分の意思で選び直した時間だった。
その時間は、もう簡単には失われないものへと変わっていた。




