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第37話 伝えたいこと

 大事な話があると伝えた、約束の日。


 午前中のうちに管理人としての仕事を一通り片づけた透は、自室に戻り準備を進める。湯を沸かし、食器棚からコップを二つ取り出して、テーブルの上に並べた。前回は日和のほうから来てくれて、透は事前の用意をできていなかった。


 今回は迎える側として。


 透は壁の時計に目をやった。約束の時間まで、まだ十分以上ある。それでも、扉の向こうに気配を感じた。立ち上がって戸を開けると、廊下に日和が立っていた。


「こんにちは」


「ああ。来てくれて、ありがとう」


 短い挨拶のあと、お互いに少しだけ視線が泳いだ。探り合うような間があった。


「上がってくれ」


 促すと、日和はぺこりと小さく頭を下げて、靴を脱ぎ、部屋に上がった。


 透はコーヒーを注ぎ、座ってくれと声をかけた。日和は前回と同じ場所に、腰を下ろした。テーブルを挟んで向かいの席に、透も座った。前回と同じ配置で、けれど、立場は入れ替わっていた。


 日和はちらりとコップに目をやって、軽く会釈した。手は伸ばさなかった。まずは話を聞かせてほしい、ということだろう。


 管理人室の中が、しんとなる。


 管理人室の中が、しんと静まり返った。アパートの近くの道路を車が一台、通り過ぎていく音が聞こえるぐらい。


「わざわざ休日に呼び出して、悪かった」


「いえ……」


 透は、息をひとつ吐いた。それから、まっすぐに日和を見た。今回は目をそらさないようにと、自分に言い聞かせながら。


 日和の視線が、透のそれを受け止めて、わずかに揺れた。けれど、彼女もそらさなかった。


「日和ちゃん」


 彼女の名前を呼んだ。


「聞いてほしいことがあるんだ」


 日和は、こくりとひとつ、頷いた。聞き逃すまい、という強ばった頷きだった。



***



 どう切り出すかは、決めていなかった。


 あれこれ言葉を並べるよりも、結論を先に置いたほうが、日和には伝わる気がした。そう考えて、透は話を始めた。


「先日、探索士の資格を取った」


「……っ!」


 それを聞いた日和の肩が、一瞬、跳ねた。


 目がわずかに見開かれている。けれど、すぐには何の反応も返ってこなかった。口を開きかけて、けれど言葉が見つからず、また閉じる。


「……資格、ですか」


 しばらく黙ったままの透に対して、ようやく声が返ってきた。


「ああ。特別探索士の試験を受けて、合格した」


「探索士……」


 日和は、その単語を口の中で、もう一度繰り返した。


 ゆっくりと、日和の視線がテーブルの縁のあたりへ落ちていった。そこで止まる。それから彼女の指先が、無意識に膝の上のスカートを握るように動いた。


「……いつ、ですか」


 声は、平らだった。


 平らにしようとして、しきれていなかった。透は気にせず、日和に聞かれたことを即答する。


「先週だ」


「……そう、ですか」


 日和は、また視線を落とした。コップの縁を見つめたままで、しばらく黙り込む。やがて、ゆっくりと言葉を絞り出すように口を開いた。後悔を飲み込むような声で。


「師匠が、表に出ることになったの。……私の、せい、ですよね」


「日和」


 透は、うつむいたままの日和の名前を呼んだ。ちゃん付けしている場合じゃない。そう考えて真剣な声で。


「顔を、上げてくれ」


「……」


 だけど日和は黙ったまま、しばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと、ほんの少しだけ顔を上げた。前髪の隙間から、こちらをうかがうような視線がのぞいた。


 透は、ひとつだけ、はっきり言う。


「君のせいじゃない」


「……」


「君のせいじゃ、ないんだ」


 二度、繰り返した。だが、その声が届いていないのか、やはり日和は、なかなか顔を上げなかった。


「……透さんに私の気持ちを伝えたあと、ずっと、考えていました」


 日和の声は、低く、ゆっくりだった。


「透さんは、本当は、表に出るのが嫌だったんだって。……普通の生活を、続けたかったんだって。それを知っていたのに、私」


「……」


「アパートの管理人として、住人の方と挨拶して、お料理して、夜になったら静かに眠る。たぶん、そういう暮らしを、ずっと続けたかったんだろうなって」


 本当に後悔している、というような声。


「だから、誰にも気づかれないようにしてきたんですよね。何年も、何十年も。ぜんぶ、ひとりで」


「……日和」


「最後まで、隠しきるつもりだったんですよね」


「……それなのに、私が」


 日和の声が、わずかに揺れた。


 泣くのを耐えている、というよりは、自分の言葉で自分を傷つけるのがわかっていて、それでも止めずに進もうとしている――そういう揺れ方だった。


「私が、無理やり踏み込んじゃったんです」


「……」


「ネックレスのことを話してもらったとき。透さんが助けてくれたあと。私、引き下がらなかった。透さんが隠していたかったこと、ぜんぶ話を聞き出して、それで……」


 日和は、ようやく顔を上げて言う。


「『弟子にしてください』って、言ってしまった。その後の、告白も」


 その一言を口にした瞬間に、日和の表情が、ぐしゃっと崩れた。涙が出たわけではない。声が震えたわけでもない。自分の口で、過去の罪のように扱った――その重さが顔に、濃い影を落としていた。


「日和」


「師匠は、まだ、誰にも知られないままで、いられたはずなんです。それなのに、探索士の資格を取ることになってしまった……」


「……」


「アパートの管理人さんのままで、ずっと。静かな暮らしを続けられていたのに」


 透は、日和の後悔の話を聞いた。


 日和の言葉は、責めの色をまったく帯びていなかった。


 恨み言ではない。怒りでもない。


 ただ過去の事実を一つひとつ並べて、そのすべての矢印が自分自身に向いている。それを、淡々と確認しているだけだった。


 その淡々とした口ぶりこそが、いちばん重かった。心の底から後悔している。


「私が踏み込んでしまったから、師匠は、表に出ないといけなくなった」


「日和」


「私が傍に近寄ったから、師匠の正体が、いつかバレるかもしれない。だから、表に出てこなくちゃいけなくなった」


 日和の声は、いつまでも止まらなかった。


「ぜんぶ、私が原因です。だから――」


 いちばん言いたくないことを、いちばん最後に置こうとして、それでも、置かなければならないと決めているような声だった。


 彼女が、こんなに苦悩していたなんて。だけど、それを知れて良かった。知らないままでいたら、透は後悔していた。


「日和」


「っ!」


 強く意識を込めて、透が日和の名前を呼んだ。ようやく、透の声が届いた。


 いま自分がしなければならないのは、彼女の罪悪感を撫でて鎮めることではなくて、その筋道そのものが、根本のところで間違っていると示すことだった。


 そのためには――まず、自分の本当の気持ちから話さなければならない。透は、そう決めた。


「少し、聞いてくれるか」


「……はい」


「これは、君を慰めるために言うんじゃない。俺自身の話だ」


 日和は、わずかに姿勢を直した。透が真っ直ぐ見つめる。


「俺は、自分が『隠し通せる』と思っていた」


 自分の根本の部分。誰にも話してこなかった想いを、日和に示す。


「いや、もっと正確に言えば、隠し通せると、思いたかった。三十二年も眠るたびにダンジョンに行って、能力がどんどん人間離れしていって、それでも、表面だけ普通に振る舞っていれば、きっと辻褄が合うんじゃないかって、ずっと、そう思おうとしていた」


「……」


「自我が芽生えるよりも前の、ずっと幼い頃。それを両親に話してしまって、医者に妄想だと言われた。その時からずっと、『普通でいる』ということが、自分の最低限の責任みたいに感じていたんだ。これ以上、誰にも迷惑をかけないようにするため、目立たないでいなきゃいけない、って」


 日和が、何か言いかけたように唇を動かした。けれど、それを呑み込んで、透の話を最後まで聞くほうを選んだようだった。膝の上で、指先だけがわずかに動いた。


「でも、よく考えれば、それは大きく矛盾していたんだ」


「……矛盾、ですか」


「ああ。本当に隠し通したいなら――最初から誰とも、深く関わるべきじゃなかった」


 透は口に出してみて初めて、その言葉に輪郭がついた気がした。三十二年分の自分自身を、たった一文でくくってしまったような感触だった。


「アパートの管理人なんて、他人の生活のすぐそばにいる仕事だ。それを、無意識で選んだ。住人の様子を見て、困っていたら手を貸して、夕食を一緒に食べて、子供の進路の相談に乗って。……そういうことを、ずっとやってきた。でも、本気で隠したいなら、本来そういうことはやっちゃいけないことだった」


「……」


「やりたかったことと、隠したかったこと。その二つを、両立させようとして、その重さを君にも押しつけてしまっていた。巻き込んでしまった」


 透は普通の生活を守りたいと言いながら、その事情を日和に話してしまった。その時点で、彼女にも「隠す責任」を背負わせるような形になってしまった。


 始まりは、透だった。


 日和の指が、また、シャツの裾を握った。こちらの言葉を受け止めようとして、無意識に力が入った、という握り方だった。


「君にネックレスをプレゼントしたときも、本当はそうだった」


 透は、言葉を選びながら続けた。


「君が危ないと感じたから、駆けつけた。ぜんぶ片付けた。そこまでは、いい。問題はそのあとだ。俺は、君に正体を打ち明けた」


「……はい」


「あれは、君に頼まれたから話した、わけじゃない。俺自身が、話すと決めて、話したんだ」


 日和が目を、はっきりと開いた。


 彼女のなかでは、きっとあの夜は「ぜんぶ自分が問い詰めた結果」として記憶されていたのだろう。けれど透の側から見れば、選んで口を開いたのは、誰でもなく自分自身だった。


「君が『弟子にしてください』と言ったとき、俺はそれを受けるか、受けないか、選べる立場にいた。受けないという選択肢も、ちゃんとあった。……でも俺は、受けた」


「……」


「君が頭を下げたから、断れなかったわけじゃない。あのときの俺は、たぶん、嬉しかったんだと思う」


 言葉に出してみて、透自身、初めて、その感情の輪郭が見えた気がした。


 口にしてから、ほんの一瞬、自分の言葉にたじろいだ。三十二年、誰にも言わずに抱えてきた部分を、いま、声に出してしまった――そういう感覚だった。


「これまでの人生では誰とも共有できなかったものを、隣で見てくれる人が現れた。それが、嬉しかった。そう感じておきながら、『仕方なく引き受けた』みたいな顔をしていた。卑怯だったよ」


「……師匠」


「だから、君が踏み込んだから俺が表に出ることになった、というのは、違う」


 透は強く断言した。


「踏み込んだのは、俺がそうしたかったから」


 日和は、何も言わなかった。


 ただ、透の言葉をひとつずつ、丁寧に呑み込んでいるのが分かった。否定しようとはしていなかった。否定する材料を、いま彼女の中で探して、見つからない――そういう静かな揺れが、伏せられたまつげのあたりに滲んでいた。


「特別探索士の試験を受けに行ったのも、自分の意志だ」


 透は続けた。


「君が探索士として活動を続けていく以上、俺の存在はいつまでも、君の側のリスクになる。それを、君ひとりに背負わせ続けたくなかった。だから、俺も表に出る準備をしておくことにしただけなんだ」


「……」


「これは、君のせいで仕方なくやったことじゃない。間違いなく俺が、自分の意思で決めたことだ」


 言い切ってから、透は、ひとつの実感を持った。


 誰にも言わずに溜めてきた弱さを、いまようやく、声に出せた――そう思った。


「俺は、ずっと逃げていた」


「一人でも大丈夫だなんて、得意になっていた。けれど、自分の生き方の矛盾と向き合うことを先送りにしていた。そのきっかけを、日和がくれたんだ」


 日和の前髪の奥に隠れていた瞳が、今度はまっすぐに透を捉えていた。何かを言いかけて、言葉にならず、口が小さく開いたまま、また閉じる。目の縁が、わずかに赤い。


 透は、もう一度、まっすぐに彼女を見た。


 前と違って今度は、視線を逸らさないことが苦ではなかった。


「だから、もう一度言う」


「……はい」


「君のせいじゃない」


 管理人室の中に、その一言が、静かに落ちた。


 窓のほうから、午後の柔らかい光が、ゆっくりと畳の上を移動していた。


 管理人室の中に流れる沈黙は、前より少しだけ、苦しくなかった。

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