第34話 今までの生き方
静けさが、部屋を満たしていた。
透は座ったまま動けずにいた。
視線の先、テーブルを挟んだ向かい側に朝倉日和がいる。うつむきがちに、しかしまっすぐ背筋を伸ばして。両手を膝の上で軽く握っている。その指先がわずかに震えているのが、透の目にははっきりと映った。
「好きだから」と。「透さんがいい」と。
告げられた言葉が、まだ耳の奥で響いている。それに返せる言葉を、透はまだ持っていない。
何かを言わなければならない、というのはわかっている。この沈黙が彼女を傷つけているということも、わかっている。それなのに、口から出ていくはずの言葉が喉のどこかで詰まったまま動いてくれない。
どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
たぶん、実際にはそれほど長くない。数十秒か、せいぜい一、二分か。それでも、透にとっては息の仕方を忘れてしまいそうなほどの時間だった。
── すっ。日和が、静かに立ち上がった。
その動作に、透の意識が引き戻される。腰を浮かせ、テーブルの脇に立った日和は、透から目を逸らして言った。申し訳なさそうに。
「……すみません」
日和の小さな声。
「迷惑だったと思います。ごめんなさい」
そう言って、日和は深く頭を下げた。丁寧で、きれいな礼だった。だからこそ、透の胸の奥で何かが大きく軋んだ。なんで、謝るんだ。
「迷惑だなんて、そんなことはない」
ほとんど反射のように、透は否定の言葉を返していた。
そんなことはない。迷惑なんかじゃない。謝る必要なんて、どこにもないんだよ。その気持ちは、嘘ではなかった。一片の偽りもなかった。
だが、そこまでだった。
そんなことはない、と言ったあと続けるべき言葉が出てこない。ありがとう、でもない。 君の気持ちは嬉しい、でもない。 応えられない、でもない。 応えたい、でもなかった。
何一つ、選べない。
自分の心を肯定の側にも、拒絶の側にも寄せることができない。中途半端、という言葉が、透の中で静かに形を取っていった。わかっているのに。
日和は頭を上げた。 透と目が合う。その瞳に、涙はなかった。傷ついている色はあった。けれど、揺らいではいなかった。むしろ、ここへ来たときよりも、どこか澄んでいるようにさえ見えた。
覚悟の、澄み方だった。
「……あの」
日和がもう一度、口を開く。声は少し掠れていたけれど、言葉そのものは、はっきりとしていた。
「私の気持ちは、変わりません」
確信している、そんな言葉。
「これからも、ずっと」
短い、それだけの言葉だった。
日和が、かすかに微笑んだ。困ったような、申し訳なさそうな、それでいて少しだけ安堵したような、複雑な形の笑みだった。
その微笑みが、透の胸の奥に小さな棘のように残った。
「……お邪魔しました」
その一言を残して、日和は玄関へ歩き出す。 靴を履く、控えめな気配。ドアノブが回る、小さな金属音。
「──それじゃあ、また」
振り返らないまま、日和がそう言った。いつもと同じような、別れ際の挨拶だった。
── パタン。
ドアが、閉まる。
それでもまだ、透は動けなかった。立ち上がって追いかける、という選択肢が、頭の中に浮かびはした。ほんの一瞬、たしかに浮かんだ。それでも、身体は動かないのだ。
追いかけて、何を言うんだ? 立ち上がったところで、自分は今、彼女に何を返せる? どんな言葉を?
その問いに、答えが出ない。答えが出ない以上、動く根拠もない。そうやって、透は自分を動かさないための理由を、無意識に求めた。
気がつけば、物音ひとつしない。日和が来る前と、同じ静けさのはずだった。一人ぼっちの空間。けれど、同じではなかった。
透はゆっくりと、長く息を吐いた。吐いた息が、どこへも届かないまま部屋の空気に溶けていった。
***
どれくらいの時間、身動きもせずに座ったままだったのか、透にはわからない。
一分だったのかもしれないし、十分だったのかもしれない。時計を見る気にもならなかった。視線を動かすという、たったそれだけの動作にすら、妙な抵抗があった。 身体が重いわけではなかった。疲れているわけでもなかった。ただ、動かす理由が、見つからなかった。
ゆっくりと、透の視線だけが部屋の中を泳いでいく。
向かいの席に、日和が座っていた。その場所。
テーブルの上には、日和のぶんのカップが残っていた。 コーヒーが、まだ半分ほど残っている。
湯気は、もう立っていない。今はもう、ぬるくなっているだろう。
透は、カップからも視線を外した。
今度は、玄関のほうへ、ほんの少し意識が向く。さっきの、ドアの閉まる音。乾いた小さな音。それが、まだ耳の奥に残っていた。何度でも再生される。
──どうすればよかったんだろう。
ようやく、言葉らしい言葉が、思考の中に浮かんだ。けれど、何度考えても答えは出てこなかった。
いや、正確に言えば、いくつも「答えのようなもの」は浮かんだ。ちゃんと応えればよかった、とか。嬉しかった、と一言だけでも伝えればよかった、とか。何でもいいから、答えてあげるべきだった。
そのどれもが、今さら、の一言で片付いてしまう。そして、そのどれもが、本当に正解だったのかは、結局わからない。どれを選んでいたとしても、日和はさっきのような表情で帰っていったかもしれないし、逆に、もっと傷ついていたかもしれない。
──そもそも、自分が何を選びたかったのか。
その問いに、透は答えられなかった。
応えたかったのか。応えたくなかったのか。 受け入れたかったのか。拒否したかったのか。どれも、しっくりこない。
ただ大事な何かを、取りこぼした気がする。
具体的に何を、と聞かれても、言葉にできない。ただ、大事な場面で、大事なものを、指の間から落としてしまった。そういう感覚だけが、確かにそこにある。
取り落としたものは、拾い上げれば元に戻るものではない。転がり落ちて、どこか見えないところに行ってしまった。あるいは、そもそも一度しか差し出されなかったものを、こちらが受け取り損ねた。
── 取り返しがつかないかもしれない。
その言葉が、はっきりと、透の中に形を取った瞬間、玄関のほうへ視線を向けて、すぐに目を逸らす。
じわじわと、焦燥感に似たものが広がっていく。鋭さはない。叫びたくなるような衝動でもない。ただ静かで、重いものだった。
透は、ようやく、背もたれから背中を浮かせた。立ち上がるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ、前かがみの姿勢になって、両手を膝の上で組んだ。その手の、指と指の合間に視線を落として、指を組み直す。
***
──なぜ、自分はあそこで、何も言えなかったのか。
応えるべきだったのか、断るべきだったのか、という話ではない。もっと手前の問題だ。自分という人間は、どうして、ああいう場面でまともに動けないように出来ているのか。
思えば、ずっとそうだった。
「穏やかな性格」だとか「控えめな人柄」だとか、そういう表現で片付けられてきた。周りからも、そう見られていた。透自身も、そう思い込もうとしてきた。普通に生きやすいやり方を。
透の方針だった。 自分の意思で、何十年もかけて守り続けてきたルールだった。
──普通でいること。
きっかけは、もう、ずいぶん昔のこと。それから今まで、ずっとそうやって生きてきた。ずっと隠してきた。踏み出さなかった。
──普通でいれば、誰にも迷惑をかけない。
そう思って生きてきた。それは間違いではない、はずだった。けれど、本当にそうだろうか。透ははじめて、その言葉の内側を疑った。
さっき、日和は部屋から出ていった。自分は普通でいた。いつも通り、波風を立てない言葉を選ぼうとした。肯定もせず、拒絶もせず、穏やかに済ませようと。結局は答えを出さなかった。
自分が「普通」を守ろうとした結果、日和は答えを受け取らずに帰っていった。帰らせてしまった。
誰にも迷惑をかけないはずの生き方が、目の前の一人を、はっきりと傷つけていた。普通でいることが正しいというその等式は、あっさり崩れ去った。
透は、膝の上で組んでいた手をほどいた。片方の掌を、もう片方の手の甲にそっと重ねて、指の骨の硬さをなぞる。それは透のダンジョン内で、よくやる仕草でもある。戦いの前に、自分の手があることを確認するための、癖のような動作。
透自身の手は、ただ冷たかった。
***
冷えた手のひらの感触を、透は、しばらく持て余していた。
──朝倉日和。
透は、改めて、その名前を頭の中でなぞった。
最初は、アパートの住人だった彼女。それから、弟子にした。訓練場で鍛え、技を教え、時に叱り、時に一緒に飯を食った。それだけのはずだった。けれど、「弟子」という一言で、本当に片付いていい関係なのか、と自問してみる。すると、透は答えに詰まった。
今、自分の胸に残っているこの重さは──ただ弟子を帰らせた後の重さか?
違う、と、透は思った。そんなはずがない、と否定できた。
では、なんだ。恋、という言葉を、透は自分の中で、試しに置いてみた。
その言葉の上に、自分の気持ちが、ぴったり重なる感覚があるかどうか。答えは──わからない、だった。
三十二年のあいだ、透は、恋愛というものを、ほとんどまともに経験してこなかった。避けてきた、という方が正しい。普通でいるための慎重さが、人との深い結びつきを、あらかじめ遠ざけてきた。だから、自分の中の「恋」という感情が、具体的にどんな手触りをしているのか、透にはわからなかった。
愛しているのか、と聞かれて、「はい」と即答するだけの確かさは、自分の中に、まだない。
──やっぱり、わからない。
正直に言えば、それが、今の透の答えだった。
けれど、と、透は思う。
愛しているかどうかは、今の自分には、まだ判断がつかない。それでも、たったひとつだけ、確定していることがある。
朝倉日和は、自分にとって大事な人間だ。これだけはもう、疑いようがなかった。
そう言い切れる人間が、自分の人生にどれだけいただろう、と透は考える。 思いつくのは両親だけ。たったそれだけ。
──このまま、失うのか?
このまま何もしないでいれば、どうなるだろう。日和は、気持ちを取り下げる気はない、と言っていた。けれど、それは「気持ちを持ち続ける」という話であって、「今までと同じ距離で付き合い続ける」という話ではない。
想いを抱えたまま近くにいるのは、たぶん限界がある。そういうものだと、透にもわかる。そうやって、少しずつ、少しずつ、彼女は自分の人生から離れていく。
離れていって、どこか遠くで誰か別の人間と新しい関係を結んでいく。
彼女が、他の誰かに向けて笑っている光景を、自分は、平然と見ていられるのか。彼女が悲しんだり泣いたりしている場面で、それを止めに行く資格が、自分にはもう残っていないのか。そのことを、自分は後悔せずに受け入れられるのか。
──絶対に後悔する。
続く言葉も迷いなく、自分の中から出てきた。
日和を失ったら、自分はきっと今日この瞬間のことを何年先まで、何十年先まで、引きずることになる。
この部屋で動けなかった自分。 追いかけなかった自分。普通でいることを選び続けた自分。それを老いていく三十代、四十代、五十代の中で、何度でも思い出すことになる。そのたびに今と同じ重さを、胸の奥で抱え直すことになる。
──そんな人生は嫌だ。
愛しているかどうかは、わからない。それでも、失いたくないという気持ちだけは確かにあった。今の自分に扱える言葉で、もっとも正直なものを選ぶのならば、それだった。
その不完全で不器用な気持ちを、透は自分の中で静かに受け入れた。
***
失いたくない。ならば、どうする。
問いは、自然と、そちらへ進んでいった。
答えは遠いところにはなかった。考え込むまでもなく、ほとんど結論だけがすでに透の中で形を取りはじめていた。
今までの生き方を大きく変える。
それが、今の自分に課された、ただひとつの要請だった。 隠し続ける選択肢は、もう自分の中になかった。
そう考えた理由は、たぶん、とても単純なんだと透は思う。
透は、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先に冷めきったカップがあった。さっきまで直視するのが重かったはずの、そのコーヒーの残量が、今はもう違って見えた。
透は、ひと呼吸おいてから、椅子から立ち上がった。
動きは、最初の一歩だけが重かった。膝を伸ばし、背を起こす。ただそれだけの動作に、いつもの何倍かの意志が必要だった。それでも立ち上がってしまえば、あとは不思議と身体は軽かった。
部屋の隅においてあるパソコンを起動する。OSを立ち上げると、何件か通知が並んでいた。広告、ニュース、投資関係。普段であれば確認して、必要最低限の操作をする。今日は、いつもと違う操作。
ウェブブラウザを立ち上げて、キーワードを入力して検索する。
探索士認定試験。
検索結果をクリックすると、公式サイトへアクセスした。日程、会場、受験区分、合格の基準。
未成年者は学校に通って資格取得のための道を進まなければいけない。だが、大人であれば試験を受けて、それに合格すれば資格を取得できる。透も、存在そのものは前から知っていた。知っていながら、これまで、一度も本気で視線を向けてこなかった、というだけの制度。
透は、画面に表示されたサイトの内容を読み込んでいく。隅から隅まで細かく。
公的な試験で、ひとつの結果を残すこと。
隠さない、と決めたからには、どこかで、その決定を現実に触れさせる必要があった。 頭の中でだけ変わっても意味はない。
──まずは、証明する。
誰に、何を証明するのか。世間に対して、でもない。日和に対して、とも違った。まず、自分に対して証明する。「普通でいる」を手放したという今日の決断を、言葉の中だけで終わらせないこと。
あの数十分前の、日和の前で動けなくなった自分とは違うと、自分自身に知らせておくこと。そのために現実の側で、ひとつ結果を出す。出発点としては、それで十分だった。
受験枠の日程を確認して、予定を組み立てる。準備すべきことは何と何か。必要な段取りを、しっかり確認する。三十二年ぶんのダンジョンでの経験を、はじめて現実の世界で披露する。
透は、肩の力を抜く。
部屋の中に、また静けさが戻る。けれどそれは、さっきまでの動けなかった時間の静けさとは種類の違うものだった。
これから動く人間が、次の一歩のために整える静けさ。




