第33話 伝えられたこと
休日の午前、凪原透はアパートの廊下を点検して回っていた。
休日であっても、それは彼にとっていつもの仕事だった。
共用部の電球の具合を確かめ、排水口の詰まりを点検し、郵便受けに不要なものが溜まっていないか目視で確認する。
部屋に戻って、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。窓から見える空は薄曇りで、雨が降るほどでもなく、晴れるほどでもなかった。
ひとりで飲んでいると、インターホンが鳴った。
来客の予定はない。宅配便を頼んだ記憶もなかった。なんだろうか。
疑問に思いつつ透は立ち上がり、玄関に向かった。ドアを開けた瞬間、思考がわずかに止まった。
「お久しぶりです」
朝倉日和が微笑みながら、そこに立っていた。
制服ではなく、落ち着いた私服姿だった。上は白いシャツで、手には何も持っていない。薄く笑っていた。声のトーンも、表面上はいつもと大きく変わらなかった。
わざわざ部屋を訪ねてくるなんて。今まで接触しないように避けてきたのに、どうして。そう思いながら、透は気づいたこともある。
何かが、いつもと違うな。
笑顔はある。言葉も丁寧だ。ただ、目の奥に何か固いものが宿っている。感情ではなく、意志、と呼ぶほうが近い何かが。あるいは——覚悟、か。
「ああ、久しぶりだね日和。上がっていくか?」
「はい。すみません、連絡もなく来てしまって」
「大丈夫だ、構わない」
***
リビングに招き入れて、透はキッチンに向かった。
再び湯を沸かし、マグカップをもう一つ用意する。日和はソファに腰を下ろして、静かに待っていた。透の顔をじっと見つめながら。
「コーヒーでいいか」
「はい」
「砂糖は」
「いただきます」
短いやり取りだった。慣れた手つきで用意していく。少し前にも、こういう会話をしていた。訓練の合間、日和が先に来ていたときに、透が飲み物を作りながら交わした、何でもない言葉たち。
マグカップを二つテーブルに置いて、透は向かいの椅子に座った。
「久しぶりだな」
「はい」
そう日和は言って、少し笑った。
「透さんと会えて、嬉しいです」
ああ、と透は思った。
変わっていない。声も、表情も、こちらを見るときの目の真っ直ぐさも。一瞬だけ時間が戻ったような気がした。訓練場の空気が、ほんの少しだけ部屋に漂い始める。
「最近はどうだ」
「順調です」
日和は答える。
「仕事も増えてきて……チームの連携も、だいぶ噛み合ってきました」
「そうか」
「はい。仲間の東郷くんが指揮を引き受けてくれるようになって、私は動きやすくなって。伊吹くんは仲間との連携を重視するようになってくれたし、神崎くんは情報収集の能力がどんどん磨かれていっている。美月の状況把握能力の高さにはいつも助けられていて、すずなも最近は積極的に意見を言ってくれるようになって」
話しながら、日和の表情がわずかに柔らかくなった。仲間の名前を出すときには、落ち着いた表情を浮かべる。信頼している相手の話をするときの顔。
「うまくやっているのなら、良かった」
「透さんは」
日和は聞いた。
「変わりありませんか?」
「うん。変わらない」
「そうですか」
日和は小さく頷いて、コーヒーに視線を落とした。
表面上は、理想的な時間だった。穏やかで、双方とも落ち着いている。近況を話し、相手の言葉を受け取り、コーヒーを飲む。普通の、何でもない再会の風景だった。
それなのに。
透は日和の顔を見ながら、どこかで引っかかり続けていた。
言葉が、少しだけ短い。いつもなら続くはずの話が、ある時点で止まってしまう。選んでいる、という間がある。本題に入ろうとして、少しためらっている様子。
透はコーヒーを一口飲んで、言わなかった。
聞かなかった。
日和が話す気になれば、話してくれるだろう。ここで急かすのは違う、と直感していた。
ただ——これがただの近況報告でないことは、最初から理解していた。
***
沈黙が長く続いた。
五秒か、十秒か。部屋の外で、風が低く鳴った。
日和はテーブルに視線を落としたまま、口を開きかけて、止めた。もう一度息を吸って、また止めた。透はその様子を見ながら、何も言わなかった。
とても悩んでいる。
言おうとしている。言葉の形を探している。だけど、それを口に出せない。そんな彼女を見ていると、そんなに無理しなくてもいいと思ってしまう。見ていられない。我慢できずに、透が口を開いた。
「……日和、無理に言わなくていい」
透が口を開いたのは、日和が三度目に息を止めたときだった。
「言えば楽になるなら言えばいい。けれど、そうでなければ今日でなくてもいい」
日和が顔を上げた。
透と目が合った。
そう思ったから、そう言った。自分の気持ちに素直に従うように。日和が、何かを吐き出したがっているように見えたから、言えばいい。でも無理なら、それでもいいから。
日和の表情が変わった。ほんの一瞬、何かが揺れた気がした。それからすっと整って、日和は真っ直ぐに透を見た。
「いえ、今日絶対に透さんに伝えます」
静かな、しかし揺るぎのない声だった。
透はその声を聞いて、黙った。それ以上、何も言えなかった。
覚悟の言葉だった。だけど、その覚悟が何に向けられているのかが、まだわからなかった。
***
日和は一度、ゆっくりと息を吐いた。
それから、話し始めた。
「訓練場での日々のことを、ずっと考えていました」
透は黙って聞いている。
「訓練場に行って、透さんが来るのを待って、一緒に動いて、鍛えて、強くなって、二人だけの時間を過ごして帰る。毎日そうでした」
日和の声は落ち着いていた。丁寧に言葉を選びながら、溢れそうになる感情を抑えつつ冷静に。
「楽しかったです。本当に」
透は、じっと聞いていた。
「強くなるとか、技術を教えてもらうとか、成長を実感できるのが楽しかった。でも、……あの場所にいること自体が、大好きでした。あの時間が」
日和の視線が、少しだけ遠くなった。その瞬間を思い出すように。
「ずっと続けばいいと思っていました。終わらなければいいと、思っていました」
透は日和の顔を見ながら、胸の奥で何かが動いた。
同じだ、と思った。訓練場で過ごした日々。終わってから食事を作った夜。何でもない時間に交わした、何でもない会話。
それらが消えたとき、透はしばらく、自分でも気づかないまま、どこかで静かに欠けていた。
俺も、そう思っていた。
言葉は、口の手前で止まった。なぜ止まったのかは、分からなかった。探してみたが、理由は見つからなかった。ただ、そのまま飲み込んだ。
「……そうか」
透が言えたのは、それだけだった。
日和は頷いた。責めるでも、確かめるでもなく、ただ続けた。
「距離を置いたのは、私です。透さんに迷惑をかけたくなかったから、そうしました。それは間違っていなかったと、今でも思っています」
透は黙っていた。
「でも——」
日和は言って、少し止まった。
「後悔もしています。あの時間を手放したことを」
***
しばらく、沈黙があった。
透は何かを言おうとして、何も見つからなかった。
日和の言葉は正しかった。監視が強まったあの時期に距離を置く判断は、合理的だった。迷惑をかけたくないからという動機も、透には理解できた。自分の普通の生活を守るために透も受け入れた。透に日和を否定する言葉はない。
「……透さん」
日和が言った。
「ん?」
「私は、透さんの横に並び立ちたかった」
透は、微かに目を細めた。
「弟子として、追いつきたかった。背中を見ているだけじゃなくて、隣に立てるくらいに、なりたかった。だから——今も、努力しています。それだけは、変わっていません」
言い切った声に、揺らぎはなかった。
透は日和を見た。
私を鍛えてくださいと言ってきた日和を、記憶の端に思い浮かべた。まだぎこちなくて、だけど母親を楽させるために強くなりたいという立派な目をしていた。
今の日和は、あのころとはまた違った目をしている。濁りのない、穏やかな熱を持った目だ。
横に並び立つ、という言葉が、透の中で静かに浸透していく。今まで一人だった自分の隣に、誰かが立ってくれる。それは、とても嬉しいことだと透は思った。
「……立てるさ」
透は言った。
「もう十分、立てるだけの実力はある」
出会った頃と比べて、本当に実力をつけた。日和と一緒にダンジョンを攻略する様子を思い浮かべても、上手くいくというイメージもできるぐらい。透に認められて、日和は小さく笑った。
「ありがとうございます」
そう言って、また黙った。
何かが、まだ続く。伝えたいことが、まだ。
透はそれを感じながら、黙って待った。
***
日和は一度、膝の上に視線を落とした。
それから、顔を上げた。
透を、まっすぐに見た。
「でも、それだけじゃないんです」
「それだけじゃない、とは?」
「好きです」
まっすぐと目を見て、顔を赤らめた彼女が告げた言葉。
それを言われた透の思考が、止まった。
言葉が空気に溶けて消えるまで、しばらくかかった。消えてからも、透はその言葉が何を意味するのかを、真正面から受け取れていなかった。
好き。
その言葉の意味は、わかる。だが——それが今、この文脈で、自分に向かって発せられたという事実が、どうしても正しく処理できなかった。
今まで透は、異性からそんなストレートな言葉に晒されたことがなかった。普通で生きるために、避けてきた。人と深く交わることを。
日和の顔は、赤くなっていた。だけど、透から目は逸らさなかった。照れながら、覚悟している、という表情。
透は言葉を探したが、見つからなかった。
頭の中で、何かがぐるぐると回った。
これは——弟子としての感情ではないのか。師に対する敬意や、信頼や、そういった感情が、言葉を選ぶ過程で「好き」という形になっただけではないか。
違う、と何かが言った。
あの目は、そういう目ではなかった。
透は日和の顔から目を離せなかった。そのとき、ほんの一瞬——胸の奥に、名前のつけられない感覚が灯った。暖かい、とも違う。嬉しい、という言葉が一番近かったが、それも正確ではなかった。
すぐに打ち消した。
打ち消しながら、透は口を開いた。言葉を探すより先に、口が動いた。
「……君と俺とでは、立場が、違う」
日和は黙っていた。
「アパートの普通な管理人と、探索士という国のために貢献する立派な人。年齢も、違う。俺はもう三十を超えている。君はまだ——」
「透さん」
日和が、遮った。だが、透は止まらず言葉を続けた。
「他に、もっと良い相手がいるはずだ。君と近い年齢で、同じ世界にいる人間とか。探索士なら他に——」
「透さんが、いいんです」
「……」
透の言葉が、止まった。
日和は表情を変えなかった。声を荒げなかった。ただ、落ち着いて、完全に言い切った。
「透さんが、いいんです」
もう一度、そんな言葉が部屋に放り込まれた。
透は何も言えなかった。
立場、という言い訳を持っていた。年齢、という言い訳も突きつけた。だけど今、それらをもう一度並べることが、できなかった。ただ日和の目を見ていた。揺れていない。迷っていない。完全な意志だった。
沈黙が、落ちた。
重くはない沈黙だった。深い沈黙だった。それがかえって、透には耐えがたかった。
何かを言わなければならない。返さなければならない。だが——何を言えばいいのかが、わからなかった。透の頭は動いているのに、言葉が出てこなかった。思考が、どこかで詰まっていた。
日和は待っていた。
急かさなかった。責めなかった。ただ、透の言葉を息を殺して待ち続けていた。
透は口を開いた。
言葉が何も出てこなかった。
閉じた。
沈黙だけが、続いた。




