第32話 選びたい相手※日和視点
「現場の声として、率直にお聞きしたいのですが」
穏やかな声が、会議室に静かに響いた。
長机を囲む席には、学校の上層部や政府関係者たちが並んでいる。日和がこの学校に来なければ、関わることのなかった人たちだ。今ではこうして、意見を求められる立場になっている。
カリキュラム見直しのための意見聴取。形式的な場ではあるが、発言は記録されるそうだ。軽く扱うことはできない。
日和の向かいに座っているのは、政府関係の人間だった。年齢は壮年。白髪が混じり始めているが、姿勢は崩れていない。物腰は柔らかいが、目は鋭い。こちらを子供扱いする空気はなく、一人の探索士として話を聞かれているのがわかる。
「今の教育カリキュラムについて、現役の探索士という立場から、何か感じることはありますか」
問われているのは、建前ではない。今後のために必要になるだろう知識や経験。
日和は一瞬だけ思考を整理し、口を開いた。
「実践の比率がもう少し増えれば、現場への適応は早くなると思います。座学も大事ですが、それだけでは判断力は育ちにくいので」
「なるほど。具体的には?」
「ダンジョンでは教科書通りにいかない場面がほとんどです。状況を読む力は、経験の中で磨く必要があると感じています」
男は小さく頷き、手元の資料に書き込む。
同じようなやり取りが続いた。日和だけでなく、仲間たちもそれぞれ答えていく。
美月は相変わらず明るい調子で会話を回していたし、すずなも緊張しつつ、きちんと受け答えをしていた。男子組もそれぞれ落ち着いている。以前なら、こういう場の空気に飲まれていたかもしれない。全員が落ち着いて答えられていた。
「朝倉さんほどの実績があれば、発言にも重みがあります。今後もご協力いただけると助かります」
「……恐縮です」
「いえいえ、お世辞ではありません。報酬に見合う仕事をきちんと果たそうとする。そういう誠実さは信頼に直結します」
そんなふうに言われると、少しだけ居心地が悪い。
褒められるのは嬉しい。けれど、観察されているような感覚もあった。期待されている。頼りになる人材として見られている。それ自体は悪い事ではない。悪い事ではないのだが――少し、疲れる。
「では、公式な意見交換はここまでにしましょう。少しだけ、雑談でも」
相手が空気を和らげるように言って、日和も作った笑みで応じた。意見聴取よりも気軽に答えてほしい、ということなのだろう。
「最近はどうですか。体調の方などは」
「問題ありません。任務の量は増えていますけど、慣れてきました」
「学校生活との両立は可能ですか?」
「忙しいですけど、周りにも支えてもらっています」
「なるほど。頼もしいですね」
日和は差し障りのない情報だけを返した。
だが――
「友人関係の方はどうですか?」
ふいに、話題が変わった。そう思いながら、日和は口元に笑みを作った。
「クラスメイトとは良好ですよ。ダンジョンの攻略について情報交換したり、一緒に訓練などしています」
「異性との距離感などは?」
そこまで聞くのか、と日和は思った。
余計なお世話だろう。正直に言えば、そういう感想しか出てこない。
「普通だと思います」
「普通、ですか」
「はい。訓練や任務が中心なので、あまりそういうことを考える余裕もありません」
相手は小さく頷くと、穏やかな口調のまま言葉を続けた。
「今の立場になると、交友関係もまた大事になります」
日和は笑顔のまま、心の中だけで肩を落とした。
「立場が変われば、関わる相手も変わる。誰と近しくするかで、周囲の見方も変わります。特に、深い関係になる相手については慎重であるべきでしょう」
言い方は柔らかい。だが、内容は十分に踏み込んでいた。
「朝倉さんほどの立場になると、本人だけでなく、周囲も注目されます。安全の問題。情報管理の問題。影響力の問題。善意だけでは済まないこともある」
全部、正論だった。間違っていない。むしろ当然の話ですらある。実力があれば狙われる。近しい人間が利用される可能性もある。この前の住居に関する話にも関わりのあることだろう。
理解しているから、日和は否定できなかった。
「そういう意味では……普通の学生のような恋愛は、少し難しいかもしれませんね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙に静かになった。
ああ、そうなんだろう。
前から、わかっていたつもりだった。けれど、改めて確認させられたような感覚だった。恋愛に全く興味がない訳じゃない。人並み程度にはある。友達とそういう話で盛り上がったことだってある。誰かと付き合って、将来を考えて、そういうことにも当然、憧れたこともあった。
でも、今の自分には無理なのだろう。立場が許さない。今さら嫌だって思うほど幼くもなかった。
「……そうですね」
慣れた調子で返す。柔らかく。角が立たないように。感情を乗せすぎないように。
「理解が早くて助かります」
「自分の立場は理解しているつもりです」
そう答えながらも、胸の奥には小さな棘のようなものが残っていた。
正しい。間違っていない。自分の立場も分かっている。
なのに。
それでいいのかと、どこかが引っかかる。
納得することと、受け入れることは、似ているようで違った。
この人は悪意で言っているのではない、と日和は思う。むしろ親切心からだろう。立場が変われば付き合う相手も変わる。それは社会の仕組みとして普通にある話で、きっと自分も例外ではない。頭では分かっている。
でも、どこかがズレを感じる。まだ私は、そこまで受け入れられないみたい。
人と関わることに、条件なんていらない。信頼できるから近づくのであって、経歴や立場で選別するのとは根本的に違う。そんな付き合い方は、したくなかった。普通でいたかった。ただ、普通に。
相手は日和の反応を確認すると、さらに穏やかな口調で続けた。
「もちろん、制限ばかりを申し上げたい訳ではありません。信頼できる経歴の人物と関係を築くことは、むしろ安定に繋がります」
日和は反射的に、少しだけ眉を動かしそうになったのを堪えた。
「必要であれば、そういった方をご紹介することも可能です。こちらとしても、無理のない形を考えます」
丁寧な提案。だが、その実態はかなり一方的でもあった。
選択肢をくれているようで、実際には最初からレールが敷かれている。信頼できる人物。問題のない家柄。経歴。立場。そういう条件の中から、相応しい相手を当てはめようとしている。
またコレか、と日和は思った。
住居の話でも似たような空気があった。合理的な理由。正しい理屈。反論しづらい提案。全部こちらのためだという顔をしながら、少しずつ生活の形を他の誰かに決められていく。
面倒だ。正直、かなり。
「お気遣い、ありがとうございます」
それでも日和は笑顔を崩さない。
「ですが、そういったことは今のところ考えていません」
やんわりと。けれど、ちゃんと断る。
「もちろん、今すぐという話ではありません。ただ、将来的には無視できない問題になりますよ」
「その時は、その時に考えます」
「……なるほど」
短い沈黙のあと、男はわずかに表情を緩めた。無理に押したらダメそうかな。そう判断したのがわかった。
「とにかく、将来のことについて慎重に考えてください」
「ご助言として、受け取っておきます」
最後まで礼儀正しく返して、ようやく会話は終わった。
形式的な挨拶を交わし、その場を離れる。少し歩いたところで、近くに人がいないことを確認してから、日和は誰にも聞こえないくらい小さく息を吐いた。
疲れた。
それが一番最初に出てきた感想だった。
***
帰りの車は、行きよりも静かだった。
自然と男子組と女子組に分かれる形になっていて、後部座席に並んだ日和の隣では、美月がシートに深く背中を預けていた。すずなはその向かいで、膝の上に荷物を抱えたまま窓の外を眺めている。少し離れた前の席では、伊吹と東郷と神崎が小声で何か話しているのが聞こえた。
車内には緩んだ空気が漂っていた。会議中ずっと張っていたものが、少しずつほどけていくような感じ。誰も積極的に話そうとしないのに、それが仲間内では不自然ではない。こういう沈黙に慣れてきたのも、いつの間にかのことだった。
「日和、大丈夫?」
先に口を開いたのは美月だった。こちらをちらりと見て、探るような目で問いかけてくる。すずなも視線を窓から戻した。二人とも、会議中から気にかけていてくれたらしい。
「うん。大丈夫」
反射的にそう答えてから、日和は少しだけ苦笑した。
「……って言いたいところだけど、ちょっと疲れたかも」
「だよねえ」
美月が苦笑する。
「なんか、えらい人と話すのって、それだけで疲れる……」
「うん、わかる……」
すずなも小さく頷いた。
その反応に少しだけ気が緩んだ日和は、軽い調子で言った。
「でも、さっきのは踏み込んできすぎよね」
美月がぼそりと言う。声のトーンが少し低くなった。
「ちょっと、怖いです」
すずなが静かに続ける。膝の上の荷物をぎゅっと抱え直した。
「でも、なんでだろう」
日和は窓の外に視線を向けながら、ぽつりと言った。
「どうして、私ばかり聞かれたんだろう。やっぱり、パーティーメンバーのリーダーだからかな」
その言葉を口にした瞬間、美月とすずなの空気が少しだけ変わった。ほんの僅かな間。だが、日和にはそれが分かった。
「あれ?」
二人が視線を逸らす。何その反応、と思って見比べると、美月が気まずそうに頬をかいた。
「えっと……その……」
「どうしたの?」
「いや、なんていうか……日和にはまだ言ってなかったなって」
「なにを?」
問い返すと、今度はすずなが肩を小さくすくめた。耳が少し赤い。
「その……わたしと、誠一くん……付き合ってる、から、言われなかったのかも……」
すずなの言葉。一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「で、私は颯太と」
「そ、そうだったの!?」
思わず声が大きくなる日和。美月が慌てて「しーっ」と指を立てた。
「ちょ、ちょっと声大きいってば」
「いや、だって、えっ!? いつから!?」
「つい最近、かな」
「うん。私も、そんなに前じゃないよ」
「えぇぇ。でも、全然気づかなかったんだけど!?」
日和が本気で驚いているのが伝わったのか、美月は困ったように笑い、すずなはますます恥ずかしそうに俯いた。
「ど、どうして付き合うことに……?」
「なんか、その……自然と、かな」
「自然と……?」
「一緒に戦ってきたし。信頼できるし。実力も分かってるし。変に取り繕わなくていいし」
美月が言うと、すずなも小さく続けた。
「一緒にいて、安心できるから……」
その言葉が、妙に胸に残った。 自然に。信頼できて。安心できるから。
特別に誰かから勧められた訳でもない。条件を並べられた訳でもない。ただ、自分たちで相手を選んで、そういう関係になれた。
すごく普通のことのはずなのに、今の日和にはそれが妙に眩しく見えた。
けれど、すぐに胸の中が温かくなった。
東郷誠一も伊吹颯太も、一緒にダンジョンに潜ってきた大切な仲間だった。実力は分かっている。性格も知っている。そしてなにより美月とすずなの二人が選んだ相手なら、間違いない。それだけは、はっきりと言えた。
「よかった」
気づいたら、声に出ていた。
「え?」
美月が少し驚いたように目を丸くする。
「いや、本当に。二人とも、よかったなって思って」
日和は笑った。作った笑顔ではなく、ちゃんと自分の中から溢れ出てきた笑顔だった。
「東郷くんも伊吹くんも、仲間として信頼できる人たちだから。絶対大丈夫だよ」
「……日和」
すずなが少し目を細めた。耳がまた赤くなっている。
「なんだか、日和さんにそう言ってもらえると……嬉しいです」
「私も」
美月も照れくさそうに笑った。
三人の間に、柔らかい沈黙が流れた。
「えっと、じゃあ、神崎くんは?」
パーティーメンバーの中で残っているのは自分と神崎の二人だけ。なんとなく日和が聞くと、美月があっさり答えた。
「神崎は、たぶん幼馴染の女の子とそのうち、くっつくんじゃない?」
「神崎くんと幼馴染さん、とても仲良しみたいです」
すずなも小さく頷く。
「……え」
そうだったのかと、再び衝撃を受ける。何気なく明かされる事実。それも全く知らなかった日和は、面食らった。
気づけば、パーティーの中で何も決まっていないのは自分だけだった。別に、焦る話でもない。みんなが自然にそうなったのだから、それでいい。おかしいことは何もない。
みんな、ちゃんと未来を選んでいるんだな。
そう思ったとき、ふいに先程の大人の言葉が頭をよぎった。普通の学生のような恋愛は難しい。信頼できる相手を紹介できる。穏やかな口調で言われた言葉が、今さらになって妙な重さを持って戻ってくる。
自分だけが何も決めていない。
いや――違う。
自分だけが、選ばされようとしている。
「日和?」
「……ううん。なんでもない」
日和は慌てて笑ってみせた。
その後もしばらく三人で話したが、日和はどこか上の空だった。会話はできる。笑える。相槌も打てる。なのに、心だけが妙に遅れているような感じがする。
美月も、すずなも、ちゃんと自分で選んだ。それが嬉しかったのは本当だ。二人が幸せそうなのも、素直に良かったと思っている。
なのに、どこかに小さな引っかかりが残る。 羨ましい、とは違う。そんなつもりじゃない。ただ、自分だけがまだ何も持っていないような、妙な浮き足立った感覚。上手く言葉にできないまま、車は学校へと向かっていた。
***
一人になってから、その違和感は一気に膨らんだ。
もし、このままだったら。
また今日みたいに、穏やかな顔で提案されるのだろうか。信頼できる相手がいます。紹介できます。将来的には必要です。そうやって、少しずつ断りにくくしていくのだろうか。
断れるのか。ずっと。これから先もずっと。
自信はなかった。理屈を並べられれば、否定しきれない。立場を持ち出されれば、完全には跳ね返せない。自分は一人ではなくて、もう色々なものと繋がってしまっている。
逃げ切れる保証なんて、どこにもなかった。
だったら。
だったら、自分はどうしたいのだろう。
誰でもいい訳じゃない。
嫌な相手がいるということは、逆に言えば、いい相手がいるということだ。
私は、誰ならいいの?
そこまで考えた瞬間、思考は驚くほど自然に一人の人物へ向かっていた。
訓練場で過ごした時間。
一緒に食べた食事。
何気ないやり取り。
教わったこと。怒られたこと。褒められたこと。
当たり前みたいに隣にいた時間。
安心できる場所。
思い出が浮かんでくるのは、全部――透だった。
「……っ」
息が詰まる。
違う、と一度は思った。師匠だ。大切な人だ。特別なのは当然だ。そういう関係じゃない。そういうふうに考えるのは、おかしい。
何度も心の中で否定してみる。
けれど、否定しようとするたびに、余計にはっきりしてしまう。
会いたいと思った相手。
失いたくないと思った相手。
選びたいと思った相手。
それが誰なのか、もう日和にはわかってしまった。
「……私、好き、なんだ」
ぽつりと零れた言葉は、思った以上にはっきりしていた。
その瞬間、胸の奥に積もっていたものが一気に形を持った。
自覚する。最近の、モヤモヤした気持ちの原因。
どうしてあの場所を離れたくなかったのか。
どうして、あの提案をあんなに嫌だと思ったのか。
全部、繋がる。
師匠だからじゃない。それだけじゃない。
透だからだ。
理解した途端に、今度は別の苦しさが押し寄せてきた。
距離を取ったのは自分だ。迷惑をかけたくなかった。静かに暮らしたい師匠の邪魔をしたくなかった。
それなのに、今さらこんな感情を抱くなんて。遅すぎる。気づくのが、あまりにも。
「どうして、今なんだろう……」
答えは出ない。出ないのに、自覚してしまった感情は消えてくれない。もう無視できないところまで来てしまっていた。
どうしようもなく、会いたい。




