第31話 現実的な問題※日和視点
早朝に家を出て、夜遅くに帰る。その繰り返しが、日和の日常として定着していた。
管理人室の前で一瞬足を止めてしまう癖も、いつしか身体の一部になっている。明かりが漏れていても、消えていても、結局は通り過ぎる。そうやって、均衡は今日も保たれていた。
***
玄関の鍵を回した瞬間、廊下の奥からやわらかい光と、美味しそうなカレーの匂いが流れてきた。
「お帰りなさい、日和」
エプロン姿の母が顔を出す。
「ただいま、お母さん」
こうして帰宅を出迎えてもらえる夜が、最近は当たり前のように増えている。
「ごはん、もうできてるから。先に手を洗いなさい」
「わかった」
手洗いうがいを済ませ、制服から部屋着に着替える。ダイニングテーブルの上には、きちんと湯気の立った二人分の食事が並んでいた。
カレーだ。それを見て、可愛らしくお腹が鳴る日和。
「今日も遅かったわね」
母が向かいの席に座りながら、労うように言った。
「ちゃんと食べてる? 外でも、ごはん抜いたりしてないでしょうね」
「してないよ。学校でも、ちゃんと食べてるよ」
「ならいいけど……。ねえ日和、少しは休みなさいよ。お母さん、最近のあなた、ちょっと心配なの」
母は小さく息をついた。
「いくらお仕事が順調でも、身体壊したら元も子もないんだから。まだ学生なのに、働きすぎじゃない?」
「大丈夫だよ。自分のペースで、無理せずやってるから。仲間もいるし」
笑って答えながら、日和は少しだけ不思議な気持ちになった。
昔は逆だった。忙しいのは母のほうで、無理を重ねる姿を見て、早く楽にさせてあげたい、と思いつづけてきた。それが今は、こうして心配される側にまわっている。位置が、そっと入れ替わっている。
あの時の自分を思い出すと、心配させないように、気をつけないといけない。そう心に刻む日和。
友人の美月にも、眠れてないんじゃないかと心配されていたし。本当に、気をつけないといけないなぁ。
「ねえ、お母さん」
母の美味しいカレーを食べ進めながら、日和はできるだけ軽い調子で切り出した。
「あのね、報告しておきたいことがあって」
「なに? あらたまって」
母がきょとんとした顔でこちらを見る。
「お金、結構貯まってきてるんだ」
ほんのわずかに言い淀んでから、日和は続けた。
「その、探索士のお仕事のほうで。前に伝えた金額よりも、更に増えてる」
「まあ、そんなに。凄いじゃない」
本当に、心の底から嬉しそうな顔だった。驚きよりも先に、喜びが来る。我が子の頑張りを素直に誇らしく思える、そういう顔。
「頑張ってるものね、日和は。お母さん、ちゃんと見てるわよ」
「……うん」
日和はうつむきそうになって、慌ててスプーンでカレーをすくう。嬉しくて熱くなる頬を誤魔化すように。褒めてもらえると、やっぱり嬉しい。
母はスプーンを置いて、少しだけ姿勢を正した。そうやって向き直るときの仕草は、日和が子供のころから変わらない。大切な話をするときの、母の癖である。
「でもね、日和」
「うん」
「そのお金、大事にしなさい」
大事な話をしてくれる母の顔を、日和も真剣な表情で見つめて話に集中する。
「前にも何度か話したことがあるけれど、いっぱい稼いだからって、気を抜くと、あっという間に無くなっちゃうのよ。お母さん、そういう人、これまで何人か見てきたから」
軽く笑った。自分の言い方が説教くさく聞こえないように、わざと肩の力を抜いているのがわかる。
「日和はしっかりしてるから、大丈夫だと思うけどね。でも、一応ね。言っておきたかったの」
「うん。わかった。気をつける」
日和は素直に頷いた。
反発する気持ちは、ほんの少しも湧かなかった。こういうときの母は、娘を縛るためでも、見栄を張るためでもなく、ただまっすぐに日和の将来を心配して言葉を選んでいる。そのことが、声の温度で伝わってくる。
だから、何も言い返さずに聞いていたかった。
「ありがとう、お母さん」
「なによ、あらたまって」
母は照れ臭そうに笑って、またスプーンを取った。
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大事にする、とは言っても、現実はなかなか大変だった。
確定申告。
言葉は聞いたことがあった。ただ、それがこんなにも早く自分ごとになるとは、探索士の学校に入学した当初は正直ほとんど考えていなかった。
探索士の収入には、税金がかかる。当たり前の話ではあるが、実際に数字を突きつけられると、その「当たり前」はあっさりと崩れ去る。税金を支払うのは当然なんだけれど、その額が、とにかく凄かった。日和がそれを思い知ったのは、二年生になる少し前のことである。
税理士を紹介してもらったのは、一年生の冬が終わりかけたころだ。学校の担当者に「これだけ稼いでいると、専門家に頼んだほうがいい」と言われたときに、日和はまだどこか他人事のように受け取っていた。
けれど、紹介してもらった事務所の打ち合わせ室で、税理士の先生が淡々と数字を並べ始めた瞬間、その呑気さはきれいに吹き飛んだ。
――こんなに、持っていかれるんだなぁ。
書類に書き込まれた納税額を目にして、日和はしばらく、次の言葉が出てこなかった。稼いだ実感はあった。でも、そこから支払わないといけない金額もまた、想像を遥かに超えていた。
税理士の先生はそんな反応をする探索士を見慣れているのだろうか、「初めてだと驚きますよね」と淡々と言い、申告の手順をひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
***
そして、季節は巡る。二年生になり、活動の規模はさらに広がった。
依頼の難易度も、報酬の水準も、半年前とは別物になっている。チームでの大型依頼、単独での高難度攻略、ドロップ品の市場価値が跳ね上がるような発見も、何度かあった。数字は積み上がり続けた。
その結果が、今月の税理士との打ち合わせで、改めて言語化されることになった。
「来年の申告ですが」
先生は資料を広げながら、いつもと同じ落ち着いたトーンで話し始めた。
「これまでの収入実績をもとに試算すると、かなりの金額になると思います。ざっと見ても、昨年の倍以上は見ておいていただいたほうがいいですね」
「……倍。そんなにですか」
「ええ。場合によってはそれ以上になる可能性も高いです。朝倉様の活動の実績を見ると、学生とはいえプロの探索士と遜色ないです。なので、いまのうちから納税の準備を進めておくことをおすすめします」
日和は資料から目を上げ、先生に向かって小さく頷いた。
「わかりました。そのように準備しておきます」
言葉は大人のものだった。気持ちも、おおむね追いついていた。
ただ、帰り道、ひとりで歩きながら、ため息のひとつくらいはこぼれていた。
***
翌週、日和は学校の教官に呼び出された。また新たな仕事の話だろうか。
そう思いながら案内されたのは、進路指導室に隣接した小さな応接室だった。向かいには担当の指導官と、事務方らしい中年の女性が座っていた。
「朝倉さん、今日はちょっと、住居のことでお話ししたくて」
指導官が話し始めて、その後を継いで女性の方が話を進める。
「最近の活動実績、学校側でも把握しています。正直、予想以上のペースで実績を積み上げていただいていて、嬉しい誤算というか……ただ、それだけに、ひとつ気になっていることがありまして」
「……住居、ですか」
「ええ。今、一般のアパートにお住まいでしたよね」
日和は小さく頷いた。
「朝倉さんのような、実績ある探索士の場合、セキュリティ面での懸念が出てくることがあるんです。様々な方面から接触を試みられたり、居場所が調べられたりというケースが、過去にも何件かありまして」
声は事務的で、責めているわけでも脅しているわけでもない。ただ淡々と、リスクを並べている。女性は膝の上に置いていたバインダーを日和の前に広げ、補足した。
「それで、いくつかご提案があるんですが」
こういうのはどうでしょうか、と続ける。
「まず、学校の寮を使っていただく選択肢があります。管理体制もありますし、同学年の仲間も多い。何かあったときに対応しやすい環境です。もうひとつは、学校の近隣に、セキュリティのしっかりした物件をいくつか紹介できます。そちらへの入居を検討していただくという形ですね」
住居を変えるのはどうか、と。
「ご家族と離れたくないというお気持ちもあると思います。その場合には、近隣のセキュリティ付き物件に親子で入居という形も、調整できなくはないです。費用面について、学校側でも一部サポートの仕組みがありますよ」
提案の内容は、丁寧だった。押しつけがましくもなかった。
ただ、日和の中では、返事はすでに決まっていた。
――あのアパートより安全な場所なんて、たぶんこの世界に存在しない。
師匠が管理している建物だ。日和は知っている。あの場所に、どれほど人知れない手が入っているか。
もちろん、その真実を口にすることはできない。
「ご提案、ありがとうございます」
日和は微笑んだ。穏やかに、ゆっくりと。
「少し、考えさせていただいていいですか。今の住居については、引っ越しが難しい事情もありまして」
「難しい、というのは?」
「家族の都合ですね。母も今の場所での生活に慣れているので、急に変えると負担をかけてしまいそうで」
「ご家族も一緒に、という選択肢もあると申し上げましたが」
「そうですね、それも含めて相談してみます」
そう言いながらも、頭の中ではすでに答えは出ていた。
明確に断ると角が立つし、相手も引き下がりにくくなる。こういうときは、濁してやわらかく、時間を稼ぐほうがいい。
指導官と女性が、わずかに顔を見合わせた。再び、日和に視線を向ける。
「……そうですか。では、一度持ち帰って、お考えください」
「はい、そうします」
応接室を出て、廊下をひとり歩きながら、心の中ではきっぱりと結論を出していた。
あのアパートを離れる気は、最初からまったくない。これからも、ない。
師匠から離れると決めたけれど、そこまで離れたくはない。もしもあのアパートを離れてしまえば、本当にもう彼との接点がすべて断たれてしまう。それは嫌だった。
提案はまた来るかもしれない。そのたびに、同じように穏やかにかわせばいい。でも、どこまで断り続けられるだろうか。
ため息をひとつ落として、日和は次の授業へ向かった。
ふと、師匠に会いたいと思った。




