第30話 離れていく日常※日和視点
「……行ってきます」
まだ母が眠る寝室のドアに小さく声をかけて、日和は玄関の鍵を回した。朝の五時半。外はようやく空が白み始めた頃で、冷えた空気が頬を撫でた。
廊下に出ると、アパートの朝はまだ眠りの中にあった。住人たちの部屋からは物音ひとつしない。この時間に起きているのは、この建物では日和くらいのものだった。
階段を降りて、一階の共用スペースを通り過ぎる。
管理人室の前を歩くとき、日和の足が一瞬だけ――ほんの一瞬だけ遅くなった。
ドアは閉まっている。灯りもない。起きている気配もない。
当然だった。こんな早朝に管理人が起きているはずがない。日和は何事もなかったように歩き続け、アパートの玄関を出た。
最近、師匠と顔を合わせていない。
お互い生活のリズムが違うのだから仕方ない。日和は早朝に出て夜遅くに帰ってくる。師匠はいつも通り、管理人としての日々を送っている。ただそれだけのことだ。
会わないことが、日常になっていた。
駅へ向かう道を歩きながら、日和はその考えを頭の隅に追いやった。考えても仕方のないことだ。今日もやることは山ほどある。
***
二年生になった日和の毎日は、忙しい時間が流れていた。
学校の授業、実技訓練、後輩指導、パーティーでの連携訓練。それに加えて、外部からの任務依頼への対応まで。一日のスケジュールは朝から晩までぎっしりと詰まっていて、ぼんやりする暇などどこにもなかった。
「朝倉先輩、この構えで合ってますか?」
学校にある訓練場で、一年生の女子生徒が真剣な目でこちらを見ていた。剣の構えがわずかに外側に開いている。日和自身も師匠から指摘されたことのある、よくある癖だ。
「もう少し内側。肘を身体に寄せて、脇を締める感じで」
「はい!」
日和は自分の剣で実演しながら説明した。生徒は何度か素振りを繰り返し、少しずつ形が整っていく。その様子を見ながら、さらに細かく修正点を伝えた。
「あっ、なんか今のしっくりきました!」
「うん、それ。その感覚を忘れないで」
嬉しそうに頷く後輩を見て、日和は小さく笑った。自分もこうやって教わったのだと、ふと懐かしく思う。
――ただし、私が教わった人は、もっと容赦がなかったけれど。
「足が遅い」「判断が甘い」「もう一回」
短い言葉と、圧倒的な実演の繰り返しを長時間続ける。理屈よりも先に身体で覚えさせるやり方。最初は必死についていくだけで精一杯だったのに、いつの間にか自分から「もう一回」と言うようになっていたな。日和は、過去の訓練の様子を思い出す。
訓練の後の食事。師匠が作る料理は、いつだって驚くほど美味しくて、疲れ切った身体に沁み渡った。メニューはいつも質素なのに、とても美味しかった。
何でもない師匠との会話。今日の訓練の反省、学校であった出来事、楽しく会話を続けた。透は基本的に聞き役で、日和の話に時おり短く感想を返してくれる。
――あの時間は、とても楽しかった。
瞬きひとつの間に、幾つもの場面が蘇って、消える。日和は静かに息を吐いて、目の前の後輩に意識を戻した。今は、感傷に浸っている場合じゃない。
「じゃあ次は、その構えからの踏み込み。足の運びを意識してね」
「はいっ!」
元気のいい返事に押されるように、日和は指導に集中する。
***
昼休み。食堂で美月と向かい合って昼食を取っていた。
「日和、最近ちゃんと寝てる?」
味噌汁を啜りながら、美月がさらりと切り出した。何気ない口調だが、その目はしっかりとこちらを観察していた。
「寝てるよ。なんで?」
「目の下、ちょっとクマっぽいなって思って」
今朝、鏡で自分の顔は確認してきたはずだった。でも、美月の目はごまかせない。人の変化を見逃さない。
「うーん、最近ちょっと自主練増やしてるから。その分かも」
「そっか。無理しすぎないようにね」
一応の忠告。それ以上は踏み込んでこない。そういう距離感の取り方が、美月は上手い。
――クマが出るほど無理をしているつもりは、なかった。ただ最近、眠りが浅いだけだ。日和はそう思い込んで、箸を動かす手を止めなかった。
「そういえば、来週の出張任務の件。蓮がルート案まとめてくれたって」
「ありがとう、後で確認するね」
話題が実務に移り、日和は小さく息をついた。神崎蓮が組み立ててくれたルート案ならば、問題はないだろう。確認もすぐに終わるはずだ。彼らと出会ってから、もうそろそろ一年が過ぎようとしている。仲間たちとの信頼関係も、着実に築けていた。
出張任務。二年生になってからは、遠方にあるダンジョンへの遠征も増えていた。日和たちのパーティーは実績を重ね、学生としては破格の信頼を得ている。後輩たちからは憧れの目で見られ、指導教官たちからも一目置かれる存在になっていた。
日和は順調だった。間違いなく、滞りなく進んでいる。
チーム全体の成長も目覚ましかった。葉山すずなの剣筋は鋭さを増し、実戦で迷いがなくなった。伊吹颯太は無鉄砲さが影を潜め、頼もしい前衛に変わりつつある。東郷誠一の全体指揮は安定感そのもので、神崎蓮の情報分析はさらに精度を上げ続けている。桐谷美月の索敵と罠察知も、範囲が広がった。
チームワークはバッチリ。全員が、着実に前に進んでいる。日和自身もまた、一年前とは比べものにならないほど強くなった。
――なのに。
日和は、箸を持つ手を止めた。
成長が鈍ってきている。それは実感として、はっきりと自覚していた。
一年生の頃は、一日ごとに変わっていく自分を感じられた。身体の動き方が違う。見える範囲が広がる。反応が速くなる。毎日が発見の連続だった。
今は、一週間をかけて、ようやく少しだけ前に進めたと感じる程度だ。成長していけば、どんどん伸びは鈍くなる。そんなことは分かっている。
だが、本当の理由は別のところにあった。
訓練場で師匠とトレーニングをしていない。
師匠が用意してくれた、あの異空間。時間の流れが現実とは異なる、特別な場所。あそこでの一分は、外の一日分に相当する。そこで師匠に指導してもらいながら身体を限界まで追い込み、回復し、また追い込む。あの環境があったからこそ、日和は短期間で常識外れの成長を遂げることができた。
今はそれがない。学校での自主練と、通常のダンジョンだけ。時間は誰にでも平等に二十四時間しか与えられていなくて、一日が恐ろしく短く感じた。
あの異空間にある訓練場、そしてなにより師匠がいないと、自分はここまでかもしれない。
その思考が頭をよぎった瞬間、日和は強く否定した。
――それじゃダメだ。
師匠に頼り続けることはできない。そう決めたのは、自分自身だ。
***
あの日のことを、日和は鮮明に覚えている。
師匠と距離を置くと決めた日。手紙を書いた、あの夜のことを。
師匠は、静かに暮らしたい人だ。
凪原透という人間は、長い間、誰にも知られずに生きていた。今はアパートの管理人として穏やかな日常を守り続けている。それが師匠の選んだ生き方で、師匠にとっての「普通の暮らし」だ。
その「普通」を壊すかもしれないのが、日和自身だった。
田村との一件以降、日和への注目は明らかに増していた。いろいろな大人たちが動いているという噂も耳に入る。監視の目が強まっていることは、肌で感じ取れた。以前からそうだったが、より多くの視線が増えている。
このまま師匠のもとに通い続ければ、いずれ繋がりを辿られる。あの訓練場の存在が露見する。師匠の本当の力が、世界に知られてしまう。
師匠なら、隠し通せるだろう。
けれど――と、日和は思う。
世の中には、師匠ですら知らない技術や力があるかもしれない。自分では気づけない痕跡が残って、それを辿られたら。師匠でも防げない何かが、起きてしまったら。
そう考えると、身体の奥が冷たくなった。
日和自身が、師匠にとってのリスクなのだ。
成績も実績も目立ちすぎている。何をしても誰かの視界に入る。そんな状態で師匠の元に通うのは、物静かに暮らしたいと願う人の隣で花火を上げるようなものだ。
師匠の静かな日常が壊れたら。
そんな未来は、考えたくもなかった。
そうなったら、私は師匠から嫌われてしまうかもしれない。
嫌われたくなかった。
迷惑を、かけたくなかった。
理屈をいくつ並べたところで、結局はそこに行き着く。師匠は怒らないだろう。何も言わないかもしれない。けれど、もし自分のせいで師匠の日常が失われたとき――あの穏やかな人がどんな顔をするのか。
それを目にしたくないから、離れたほうがいい。
状況が落ち着くまで、離れたほうがいい。
だから日和は、そうすると決めた。
***
放課後。日和は一人で剣を振っていた。
素振りを繰り返す。百回、二百回。身体に染み込んだ動きを、さらに研ぎ澄ますように。腕が重くなっても、足が痺れても、止めなかった。
こうして日和は、訓練量を大幅に引き上げていた。朝の自主練。授業中の集中力。放課後の居残り訓練。帰宅後の素振り。加えて、戦闘の記憶を反芻し、改善点を洗い出す時間も増やした。仲間たちと新しい連携パターンも試した。工夫できることは、全部やった。
できることを、全部。
「日和、そろそろ上がらない? もう二時間も経ってるよ」
訓練場の入口から声がした。すずなだった。こちらを見つめる目には、隠しきれない心配の色がある。
「すずな、あと少しだけ、やらせて」
「また『あと少し』って言う。日和さんは、いつもそう。ちょっと、頑張りすぎだと思う」
「……」
すずなは小さくため息をついた。けれど、それ以上は何も言わない。代わりに訓練場の中へ歩いてきて、腰の刀に手をかけた。
「付き合う」
「いいの?」
「日和さんだけ頑張ってるの、なんか見ていたくないし」
すずなはそう言って、日和の隣に並んだ。静かに刀を抜き、構える。その剣筋には迷いがなかった。一年前、おどおどしながら刀を握っていた頃とは別人のように堂々としている。
日和は少しだけ口元を緩めた。
一人じゃない。仲間がいる。そう思えることが、今の自分にとって何よりも心強かった。
だが、同時に理解していた。
どれだけ訓練を積み重ねても、あの領域には届きそうにない。
師匠の動き。あの速さ。あの判断。何もかもを見通しているような、圧倒的な存在感。日和がどれだけ頑張ったとしても、あの背中は遠い。遥か、遠い。
師匠から離れて、自力で成長する道を選んだことは、間違っていないと思う。
――ただ、どれだけ努力を続けてもたどり着けるかどうか、それは別の話だった。
***
夜。アパートに帰り着いたのは、九時を回った頃だった。
玄関の鍵を開けて、静かな廊下を歩く。今朝と同じように、建物の中は穏やかな空気に満ちていた。
管理人室の前を通る。
通路側にある窓から、かすかに灯りが漏れていた。
あの人が起きている。
ほんの一瞬、足を止めたくなった。ドアをノックして、「こんばんは」と言えたら、どれだけ楽だろうと思った。
けれど、日和はそのまま前を向いて歩き続けた。自分の部屋へ向かう足取りは、いつも通りに見えるよう努めた。私と師匠の関係は、アパートの住人と管理人というものだけ。いつもと違う動きをすれば、周りにいる誰かに不審がられるかもしれない。
「おかえりなさい、日和」
「ただいま、お母さん」
母親が出迎えてくれた。部屋に入り、荷物を下ろす。シャワーを浴びて着替えて、母の用意してくれた夕食を食べる。
母の煮物は美味しい。それは間違いない。
けれど、ふとした瞬間に別の味を思い出してしまう。訓練の後に食べた、あの料理。疲れ切った身体に沁み渡る、温かくて優しい味。なんてことのない献立なのに、一口ごとに力が戻ってくるような、そんな特別な師匠の料理。
何気ない瞬間に、記憶が蘇ってしまう。訓練場での時間。師匠との他愛ない会話。少しだけ困ったような、あの笑い方。日和が上手くできたとき、わずかに緩むあの目元。
全部、覚えている。
日和は静かに箸を置いた。
今の生活は充実している。目標に向かって確実に進んでいる。仲間にも恵まれている。成績は学年トップ。実績も申し分ない。探索士としての将来は滞りなく、一年前に思い描いていた以上の場所まで来ていた。
何も問題はない。
何ひとつ、不足しているものなんてないはずだった。
なのに――何か足りない。
その「何か」の正体を、日和は分かっていた。分かっていて、名前をつけないようにしていた。名前をつけてしまったら、今の自分の決断が揺らいでしまう。離れると決めた理由が、全部嘘みたいに軽くなってしまう。
ごちそうさまと言って、自分の使った食器を洗い、部屋に戻った。ベッドに腰掛けて、天井を見上げる。
今は、これでいい。
状況が落ち着けば、また戻れるはずだ。仲間たちの活躍と、後輩たちの著しい成長で自分に対する注目が薄れていって、誰も気にしなくなったとき。そうしたらまた、あの場所に行けるはず。
師匠と一緒に訓練して。
師匠と一緒にご飯を食べて。
楽しいお話をして。
また、あの時間が戻ってくる。
――そのはずだ。
日和は自分に言い聞かせるように頷いて、布団に潜り込んだ。目を閉じる。明日も朝が早い。今日のことは今日で終わり。明日はまた、新しい一日が始まる。
けれど。
暗闇の中で、日和はそっと目を開けた。
本当に、戻れるのだろうか。会わないことが当たり前になって、この距離が日常になって。そうやって過ぎていく時間は、本当にいつか取り戻せるものなのだろうか。
その問いに、答えは出なかった。
日和はぎゅっと目を瞑り、布団を引き寄せた。
大丈夫。きっと大丈夫。
眠りに落ちる直前、胸の奥で小さな痛みが走った。それが何なのか確かめる前に、日和の意識は静かに闇の中へと沈んでいった。




