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第29話 普通のアパートの管理人

 箒の先が、乾いた音を立てて落ち葉を掃き寄せた。


 凪原透は、いつも通りの朝を、いつも通りアパートを管理するための作業で始めていた。


 落ち葉を一箇所に集め、ちりとりですくい、端に寄せたゴミ袋の口を片手で手繰り寄せる。


「おはようございます、管理人さん」


 仕事に出かけるスーツ姿のアパートの住人が、足を少しだけ止めて会釈した。


「おはようございます。今朝は冷えますね」


 透は、柔らかな笑みをごく自然に返し、ゴミ袋の口を両手で縛り直した。相手の靴音が遠ざかるのを耳の端で確認してから、ふっ、と小さく息を吐いた。


 箒を立てかけ、軍手を外す。共用灯の切れを確認して、階段の踊り場に落ちた埃を指でつまんで拾う。動きに迷いはなかった。何度も繰り返してきた手順で、何も考えずに動くこともできるくらい身体の奥に刻まれている。


 だからこそ、作業の最中でも頭の片隅に、余計な考えが浮かぶ余裕は生まれてしまう。


 朝倉日和。


 ここ最近、彼女と顔を合わせていない。かなり忙しいみたいだ。昨日も、一昨日も朝早くに出かけて、夜遅くに帰ってくる。タイミングが合わない。訓練場に来る余裕もないのだろうか。


 透は、その思考をそこで軽く畳んだ。畳むべきだと、自分に言い聞かせた。師匠と慕ってくれる少女だけど、彼女にも優先するべき予定がある。弟子になったからと言って、絶対に訓練場に来てトレーニングを行わないといけないわけじゃない。


 彼女と会えない最近の状況について、自分を納得させる理屈を考える。けれども、ほんの小さなモヤモヤした気持ちが、透の胸の底に音もなく沈んだ。


――それから、もう一つ気になること。


 透は、箒で掃く作業を続けながら、視線を地面に向けつつ、意識は頭上へ向けた。


 住宅街の屋根の連なり、そのさらに遥か上空――鳥の影すら目に入らない高さに、薄く、しかし確かに、こちらを「見ている」感触がひとつ、存在していた。


 遠視系のスキルというものなのだろう。離れた地点から術者の視界を空越しに飛ばし、対象を静かに観察するための代物だと思われる。発動の痕跡は丁寧に押し殺されており、並の探索士なら欠片も気付けないだろう。使う側も、当然、看破されないことを前提に動いているようだった。


 三十年以上、自分以外の誰もいない別世界を毎晩歩き続けてきた男の感覚は、その薄められた痕跡の奥に確かに息づいている「視線の重さ」を、平然と拾い上げていた。なにしろ、存在を消すことに関しては、自分自身が誰よりも長くそれを訓練してきた人間なのだ。同じ作法で隠された視線が、見えないわけがない。


 以前から監視はあったが、それに加えて、更に厳しい監視の目が増えていた。


 ターゲットは自分ではなく、おそらく、このアパートで暮らしている、あの少女の周辺。なにか起きたら対処できるように。それも変わらず。敵意はない。殺意もない。今すぐどうこうという話ではない。


 透は、静かに受け流した。踏み込めば、監視者が誰なのか探ることはできる。けれど、踏み込んだ分だけ「普通」から遠ざかる。コレは、俺の領分ではない。今回もまた、普通の人間でいるためになんの行動もしない。


 そう決めた男の手は、箒を握り直し、何事もなかったように朝の掃き掃除を続けた。



***



 午後、日課を終えた透は気配を消し、誰にも見られずにアパートの物置になっている部屋へ入った。


 無人の部屋で薄い銀の指輪を嵌める。


 空気が、ほんの一瞬たわんだ。次の瞬間には、空き部屋の床に、静かな歪みのような口がひとつ開いていた。透が「訓練場」と呼んでいる場所――時間と空間のねじれた、自分だけの小さな箱庭への入り口。


 迷いのない足取りで、透はその歪みの中へ降りた。


 空間の中央に建つ、休憩や軽い食事のために用意した石造りの建物。その前にある広場で軽く屈伸をしながら、外側の入り口から駆け込んでくる弟子を待つ。「遅れましたっ」と頭を下げる日和に、透が「急がなくていい」と肩をすくめる。そんな午後の光景が、当たり前にあった。


 けれど、ここ最近はそうではなかった。


 日和は、気付けば先に来ているようになっていた。基礎の振りを黙々と繰り返しているところへ透が合流し、「もう始めてたのか」と苦笑する。それが、最近の流れになっていた。透は、弟子の熱心さを静かに頼もしいと思っていた。


 だから、その日も、空気の止まった訓練場の地面に靴底をつけたとき、透は当然のように日和の姿を探した。


――やっぱり、いないか。


 いつもの位置に、木刀が一本、建物の壁に立てかけられたまま動かされていなかった。


 学校から帰ってくるのが遅くなって、その時間に訓練場に来れないのは理解できる。けれど、夜にも訓練場には入ってきていない様子だった。


 最初は、気にしなかった。まだ来ていないだけだ。透は自分のトレーニングを一人で始めた。


 時計の針が、外の世界とはまるで違う速度で、内側だけを静かに進んでいった。かなりの時間を使って、トレーニングに励んだ。だが、それでも彼女は現れなかった。


 今日もまた、弟子の日和は訓練しないのか。


 もちろん、決めていたわけではない。必ず訓練するという約束はしていなかった。彼女は強さを求め、透はそのための方法を授けていた。それだけの関係だ。


 透は、軽く息を吐いて、建物の扉を押した。水でも一杯、口に含んで休もうと思った。


 扉が、軋む。


 そして、透の動きが止まった。


 建物の中央に置かれた、小さな木のテーブル。その天板の真ん中に、白い紙が一枚、丁寧に三つ折りにして置かれていた。誰かに必ず気付いてもらえるようにと、わざわざ一番目立つ場所を選んで置いた、というのが一目で分かる置き方だった。


 透はゆっくりとテーブルへ歩み寄り、その紙を拾い上げた。折り目は、几帳面だった。日和らしい、と思った。これだけ置きにきて、帰っていったのだろうか。


 紙を広げる。


  しばらく、師匠との訓練をお休みさせてください。


  周りに、知らない大人の気配が増えてきました。


  師匠のこと、師匠の強さを、バレないようにするためです。


  師匠なら、それでも隠し通せるとは思うのですが、何があるかわかりません。


  距離を取ることが、今の私にできる、一番の対策だと思います。


  だから今は、少しだけお別れです。


  それでは、また。


 ――ああ、そういうことか。


 短い納得が、頭のどこかで転がるように落ちた。


 日和の選択は、正しかった。正しすぎるほどに。透の正体を、立場を、そして「普通でいる」と決めている在り方を、誰よりも理解してくれている。だからこそ、彼女は自分の側から身を引くことを選んでくれた。師匠を守るため、という形で。


 理屈は、通った。驚くほど綺麗に、通った。


 けれど、何かが、引っかかっていた。


 納得しているのに、胸の奥のほんの小さな一点に、不快な感触が残っていた。


 ――なんだろうな、これは。


 透は、手紙を丁寧にたたみ直した。指先が、いつもよりほんの少しだけ、ゆっくり動いていた。たたんだ紙を、胸の内ポケットへ滑り込ませる。落とさないようにと、上から軽く一度、押さえていた。


 それから、建物の扉をそっと押し開け、誰もいない訓練場の中央へ、ゆっくり歩み出た。


 日和の気配。日和の声。木刀の風を切る音。建物のテーブルに広げた握り飯の包み。焼き鮭の握り飯を頬張りながら、「師匠、ここの味付け、お母さんより濃いですよ」と笑った声。ふとした二人だけの日常。


 ――それが、今日はない。


 そこにあるはずのものが、綺麗に、消えていた。


 静寂。


 一人になった透は、その静寂の中心に、身じろぎもせず立っていた。



***



 夜。


 目を閉じれば、透の意識はいつもの場所へ飛ぶ。毎晩、毎晩、三十年以上続けてきた、別世界のダンジョン。


 今夜も変わらず、透はそこにいた。


 石の階段を降り、見慣れた階層へ足を踏み入れる。岩壁の向こうから、鈍い咆哮。モンスターが一体、こちらへ向かってくる。


 剣を振るう。


 モンスターの首が、落ちる。


 次の一体。振るう。肩口から斜めに、地面へ。倒れる。


 次。振るう。


 それだけだった。


 戦闘というよりは、作業に近かった。透は、淡々と、音もなく、一体ずつ処理していった。派手な踏み込みも、光る軌跡もない。必要最低限の動きが、正確な速度で繰り返されていくだけ。


 いつも以上に、いつもと同じだった。


 ――振る。


 瞬きのような一瞬、木刀の柄を握り直す日和の横顔が、視界の端を掠めた気がした。


 ――振る。


 握り飯を頬張る頬と、味付けが濃いと笑う声。


 ――振る。


 「師匠っ、見てましたか今の!」と得意げに振り返る影。


 透は、手を止めなかった。


 けれども、振り下ろす透の手の動きは、いつもよりほんの僅か、鋭さが欠けていた。


 中層の奥まで進み、モンスターの一団を一つの呼吸で片付けたあと、透はふと足を止めた。


 周囲に、動くものはなかった。魔石が、地面に静かに散らばっていた。


 透は、それを見下ろした。落ちている魔石のいくつかを、無意識に「日和に良さそうな物」と「自分用」とに振り分けようとしている自分に、気付いた。


 ――そうか。


 心のどこかで、小さな音がした。鍵が、静かに外れたような音だった。


 俺は、思っていた以上に、弟子である日和との時間を楽しんでいたみたいだ。


 弟子を取るつもりなんて、なかった。誰かに教えるような柄でも、なかった。面倒事を抱え込む気もなかった。それなのに、気付けば日和の存在は、透の日常の端に、驚くほど柔らかく嵌まり込んでいた。


 昨日教えた一つを、翌日にはバッチリ習得して自信満々に見せてくれる弟子の顔。あの真っ直ぐな成長を眺めていることが、自分でも不思議になるほど、楽しかった。「師匠」と頼られるたびに、面映いような気恥ずかしさの裏側で、胸の奥のもっと奥の方で、温かいものが小さく揺れていた。


 それから――もっと、奥の方。


 三十年以上、自分の中に押し込めてきた力。


 誰にも知られないように、誰にも見せず、隠してきた。ずっと「普通の男」という皮の内側に閉じ込めてきた、本当の自分。


 それを、他の誰かに知ってもらえているということ。


 コレが、自分でも信じられないほど、嬉しかったのだ。


 透に自覚は、なかった。気付こうともしていなかった。けれど、剣の振り方を見せるたび、技の機微を弟子の前で動いてみせるたび、何十年も押し殺してきた何かが、ほんの数センチだけ、息をしていた。抑え込んできたものの蓋を、自分の手で、誰にも見えない角度でそっと持ち上げる――あの時間は、透にとって、そういう密かな解放の時間でもあった。


 二人の訓練。


 空腹を満たす握り飯。


 訓練後の短い雑談。


 それは、透にとってかけがえのないものだった。


 それを自覚しないまま、大事にしていた。


 そして、同じ瞬間に、もう一つのことを透は理解した。


 ――あの時間は、もう戻らないかもしれないな。


 日和の選択は、正しいまま、二人を静かに引き離していくのだろう。彼女に対する注目は緩まないだろう。緩まないどころか、これから先、もっと増えていくだろう。日和が透の事情を考えるたびにもう一歩、もう一歩、どんどん離れていくことになる。


 そして、明日からまた、透は一人でこの世界に立つ。


 今までと、同じように。


 けれど――同じ「一人」のはずなのに、その重さは、明らかに違っていた。当たり前のように背負ってきたはずの孤独は、誰かと過ごす時間を一度知ってしまったあとでは、どうしようもなく、深く、暗い色に染まっていた。


 透は、膝を折り、散らばった魔石を拾い上げ、腰のポーチへ流し込んだ。


 彼女を追うことは、できた。


 彼女の隣に立って一緒にいることも、できた。


 本当の実力を明かし、力で全てを捻じ伏せ、周囲の視線を黙らせて、新たな日常に立つことも、透にとっては難しい話ではなかった。なにしろ、透にはそれができるだけの実力があった。


 けれど。


 それは、透という男の選んだ生き方ではなかった。


 幼い日に、医者に笑い混じりに一蹴された記憶。両親が申し訳なさそうに頭を下げた、あの姿。あの日から、ずっと決めていた。


 ――普通でいよう。


 ――枠の中に、ちゃんと収まって生きていこう。


 たとえ、指の隙間から、零れ落ちていくものがあったとしても。


 透は、長く、静かに、誰にも届かない息を吐いた。そして、剣を持ち直した。


 次のモンスターが、奥から姿を現す。


 透は、何も変わらない顔で剣を振った。


 それが、自分の選んだ生き方だったからだ。



***



 朝が来れば、またいつも通り、アパートの管理人としての一日が始まるだろう。落ち葉を掃き、ゴミ袋を束ね、住人へ柔らかい笑みを返す。誰も来ない訓練場の隅では、日和の木刀が、誰の手にも触れられないまま、ただ静かに壁にもたれ続けているのかもしれない。


 けれど透は、それでも、箒を握る。


 それでいい。


 それで、いいはずだった。


 胸の底の小さな違和感は、確かにそこにあった。


 透は、それに気付かないフリを、続けた。

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