第24話 帰還と、探索士の椅子※日和視点
「……ふぅ、到着」
ダンジョンの入口から外へ抜けた瞬間、張り詰めていた糸が一本、音もなく切れたような気がした。空は夕暮れ近くに傾いていて、見慣れたはずの光がやけに眩しい。日和はほんの一瞬だけ足を止め、その光を顔いっぱいに浴びた。
背後に、しっかりと仲間たちの気配があった。五人分、ちゃんとある。けが人もいなくて、全員無事に帰還した。
「いやー、マジでしんどかったー」
伊吹がその場に膝から崩れるように座り込む。装備の金具がかちゃりと鳴って、誰かが小さく噴き出した。
「颯太ってば、途中まで凄く元気だったじゃない」
「途中まではね。最後のほう、体力を使い果たして膝が全然言うこと聞かなくて」
「おい、ペースを考えろ。最初に飛ばすから、そうなるんだぞ。ダンジョン内で体力が底をつくなんて、本当に危ない」
東郷の指摘に、美月が肩をすくめる。いつも通りの軽口のはずなのに、声の端にはうっすらと湿り気があった。彼らもきっと、今、ようやく安堵している。
すずなは黙ったまま、刀の鞘を握り直していた。さっきまで戦場にいた手のままだった。けれどその指先から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。視線がこちらを向いて、ほんの小さく頷いた。
――無事です、と。
日和も同じように、そっと頷き返した。
神崎蓮は、いつも通り斜に構えた顔で空を見上げていた。
「……無事に戻ってこられた。報酬も期待できるし、大成功だろう」
満足だ、というようにつぶやく声。
誰も欠けていない。
日和は改めてそのコトを胸の中で確かめ、肩の力をそっと抜いた。自分に言い聞かせた言葉が、ゆっくりと蘇ってくる。
――全員で、無事に、帰ること。
達成できた。その事実だけで、今日はもう充分だったと思う。
ようやく、息を一つ、深く吐く。
攻略の間、日和は普段よりもずっと気を張り詰めていた。
事前の準備は万全のつもりでいた。モンスターの傾向、地形、撤退ライン。想定できるものは、すべて頭に入れて挑んだ。それでも、ダンジョンというのは何が起きるか分からない場所だ。一枚めくれば想定外、もう一枚めくればさらに想定外。
今までは致命的な失敗は起きていない。だけど、もしかしたら今回それが起きるかもしれない。もしもの場合、師匠が助けてくれるかもしれない。胸のペンダントを握ると、それを感じられた。だけど、間に合わなかったりしたら。
それに、師匠に手助けを求める場面は作りたくない。自分でどうにか対処したいという気持ちがある。
失敗しないようにする。そのために、師匠なら、こういう時、どうするだろうか。それをイメージして動いてみた。
日和が頭の中に思い浮かべていたのは、師匠である透の姿だった。
何でもない顔で、けれど決して見落としをしない人。慌てない。焦らない。必要な瞬間にだけ必要な量の力を使い、それ以外の時間は、ただ静かに過ごしている。あの頼りがいのある大人の背中。ピンチでもきっと、あの人は表情を一つも変えないまま、いちばん正しい手をすっと差し出してくる気がした。
――だから、私も、そうでありたい。
そう言い聞かせながら、日和は最奥まで戦いながら指示を出し続けた。仲間たちの前では、不安な顔は一つも見せないように。指示は短く、判断は早く、迷った時ほど声のトーンを落として。
自分が揺れれば、チーム全体の足元が揺れる。それだけは、避けたかった。
けれど今、ダンジョンの外に出て、仲間たちの無事を確かめ終えて、――その芯が、ゆっくりと、必要のない力みへと変わっていく。
肩の強張りが解けて、背中のどこかが、ふっと軽くなった。
「あ」
不意に、斜め前からくすりと笑う声がした。
美月だった。頬杖をついたまま、面白いものでも見つけたみたいに、にっこりと日和を見ている。
「いつもの日和だね」
「……え?」
「今回のダンジョンの攻略の準備から、日和、ちょっとだけ雰囲気が違ってた」
「そう?」
「うん」
「落ち着いてるのはいつも通りなんだけど、もう一段、こう……『何があっても大丈夫だよ』って感じで、正直すごく安心したよ」
「うん。それなら、よかった。実は、私の尊敬している人を真似てみたの」
日和は今回を振り返りながら、自分が考えていたことを言葉にした。
「難しい場面で、どう振る舞うのがいちばんいいのか、自分だけだとまだ判断に自信が持てなくて。だから、『あの人ならこうするだろうな』って、ずっと頭の中でイメージしてた」
「へえ……」
「……変、だったかな」
ぽつりと付け加えると、美月はきょとんとしたあと、ぶんぶんと首を横に振った。
「全然。ぜんっぜん。むしろ、すごく頼りになった」
「ほんと?」
「ほんとほんと。私たち、日和の背中を見て動いてたんだからね? 頼りにならないリーダーだったら、そもそもあの階層まで辿り着いてないってば」
美月はそう言って、軽く日和の背中を叩いた。
その手のひらの温度が、妙にくすぐったい。
***
日和たちが帰還報告のために向かったのは、ダンジョンから歩いて十分もかからない場所に建つ、そこそこ立派な建物だった。
ダンジョンの管理をしている事務所。ここで帰還の報告や回収品の査定が行われている。全国の主要なダンジョンの付近には、必ず一つ、この手の建物が置かれていた。
自動ドアをくぐると、ロビーは思ったよりも静かだった。
高い天井と、磨かれた床。壁際には番号札を抱えた人がぽつぽつと座っていて、ガラス張りのカウンターが一列に並んでいる。蛍光灯の白い光が、どこまでも事務的にその光景を照らし出していた。
「なんだか、役所みたいだね」
美月がぽつりと呟く。
「そりゃそうだろ。国の管轄なんだから」
神崎が肩をすくめた。それでも、彼自身もどこか勝手のわからない顔をしている。
日和は受付カウンターの一つに歩み寄り、手元の端末に探索士の仮資格と生徒証をかざした。
「朝倉日和、パーティー六名、帰還の報告です。回収品の査定も、併せてお願いします」
「――承りました。少々お待ちください」
受付の女性が落ち着いた手つきで端末を操作し、内線でどこかに連絡を取る。その応対は確かに、美月の言う通り役所そのものだった。感情を挟まない、けれどきっちりとした手順。
ほどなくして、奥から職員の男性が一人、姿を見せた。
「お疲れさまでした。例の件のお話も伺っております。査定のお部屋へご案内しますので、こちらへどうぞ」
例の件、って。そうだった、先輩探索士との実力対決だよね。一瞬、そのことを忘れて、普通にダンジョン攻略に挑んでいた日和。
***
案内されたのは、ロビー奥の廊下を折れた先にある小部屋だった。
中央に広いテーブル。周囲にはきっちりと椅子が並べられ、壁際には白い棚と、計量用らしき機器がいくつか据え置かれている。役所の会議室と応接室のちょうど中間のような空間だった。
そして、日和が思わず足を止めたのはそのテーブルの上だった。
六人ぶん、ちょうど人数分の湯呑みとペットボトルが、きっちりと等間隔に並べられている。冷たい麦茶と温かい緑茶の二種類。それぞれの横には、小さな菓子皿まで添えられていた。上品な焼き菓子と、個包装の和菓子。どう見ても、「ちょっとした休憩用」などという素っ気ないものではない。
「お飲み物は、温かいものと冷たいものと、両方ご用意しております。お好きな方をどうぞ。お茶請けも、よろしければ」
案内してくれた男性職員が、ごく当たり前のことのようにそう言って、軽く頭を下げた。
日和たちが案内された側の椅子に腰を下ろして間もなく、反対側のドアからさらに数名の職員が静かに入ってきた。
先ほどの男性の他に、白衣を羽織った女性職員、書類の束を抱えた若い男性、それから全体を見渡すような立場らしい年配の職員。合計四人が、向かい側の席に無駄のない所作で並ぶ。
「それでは、回収品をお預かりいたします。テーブルの上に、一点ずつ、お出しください」
年配の職員が落ち着いた声で、そう促した。
日和たちは持っていたバッグから、回収してきた魔石と素材を取り出し、テーブルの上に一つずつ並べていく。青みを帯びた結晶、灰色の角、折れた爪。どれもが重い戦闘の痕跡そのもので、見ているだけで手のひらにまだ熱が残っているような気がした。
白衣の女性職員が、手慣れた様子で一点ずつを確認していく。数を数え、専用の計器で性質を測り、若い職員がそれを書類に書き留めていく。手順は淀みなく、けれど決して雑ではない。
「――お預かりする品目、すべて確認できました。詳細な査定まで、少々お時間をいただきます。しばらくお待ちください」
年配の職員が丁寧に頭を下げ、他の職員と共に、回収品を慎重に運び出していく。静かにドアが閉まり、部屋には日和たち六人だけが残された。
広いテーブルと、壁の白さと、エアコンの低い駆動音。
話をする元気も、かといって黙り込む空気でもなく、それぞれが疲労と安堵を噛みしめるような緩やかな雰囲気で時間が流れた。
美月が小さく欠伸をして、すずなが律儀に姿勢を正して座る。伊吹は椅子の背にぐったりと体を預け、すっかり目を閉じていた。神崎は手に持った端末のダンジョンに関する情報に目を向けつつ、指はほとんど動いていない。東郷も姿勢を崩さず、まっすぐ前を向いている。
ふと、美月が開けたペットボトルを両手で包み込むようにして持ちながら、小さく首を傾げた。
「……ねえ、ちょっと思ったんだけどさ」
「ん?」
伊吹が片目だけ開ける。日和も、話し始めた美月に視線を向けた。
「私たち、えらく丁寧に扱われてない? その、なんか……重要なお客様って感じで」
いつもは学校に帰って、そこで報告と回収品を提出していた。だが今回は初めて、プロの探索士と同じ手順である事務所での報告になる。
受付の落ち着いた応対。すぐに案内された個室。並べられた飲み物とお茶請け。運び出される時の、回収品への慎重な手つき。職員一人ひとりの、言葉の選び方と頭の下げ方。
その全部が、「学生相手」のそれではなかった。
どこからどう見ても新米そのものの日和たちに対して、事務所のスタッフは一度も「子供扱い」をしていない。
「正直、受付の人が普通に敬語で応対してきた時点でちょっと戸惑った。『学生さんですね、指導官同伴じゃなくて大丈夫ですか?』くらいのテンションを勝手に想像してたな」
「あー、分かる。そんな感じで言われるかと思ってたけど」
神崎の言葉に、美月がうんうんと頷く。
「でも、そういう感じじゃなかったよね。……なんていうか、普通に、一人前の探索士として見られてる」
美月の感じた印象に対して、東郷が腕を組みながら真面目な声で付け加えた。
「仮とはいえ、国家資格を持っている以上、俺達をそう扱うのが正しいんじゃないか。ただ実際にその場に立ってみると、想像していたより、ずいぶん落ち着かないものだな」
「落ち着かないって言えば落ち着かないけど、悪い気分ではないだろ」
東郷の几帳面な言い方と伊吹の言葉。それを聞いた日和は、自分の湯呑みをそっと手で包む。温かさが指先にじわりと染みてきて、その感触を確かめながら考えた。
プロとして扱われる。
それは、ずっと「そうなりたい」と思ってきたはずの姿だ。母のために早く稼ぎたくて、目指してきた場所だ。なのに、いざその扱いを受けてみると、背中のどこかがむず痒くて、どこに座っていても椅子の高さが微妙にズレているような気がしてしまう。
――慣れていかないと、いけないのかな。
そう思って、日和はぽつりと思ったことを口に出した。
「……こういう扱いにも、いずれ慣れないと、ダメなのかな」
「え、慣れていくんじゃない、普通に」
美月が即答する。
「こういうのって、意識して慣れるっていうより、知らないうちに当たり前になっていくもんじゃないのかな? 何回も経験してるうちに、ね」
「まあ、そんなもんだろうな」
神崎も頷いた。
「あんなふうな対応をされて緊張するのは、要するに数をこなしてないからだ。数をこなせばこなすほど、勝手に身体が馴染んでいく。……たぶん」
「たぶんって」
「俺も初めてだからな。知らんもんは知らんよ」
日和がちらりとすずなのほうを見ると、彼女は湯呑みを両手で抱えたまま、少しだけ肩を縮こめていた。視線は湯呑みの中の緑茶に落ちていて、お茶請けの和菓子にも、まだ手をつけていない。
「……すずなは私と一緒で、慣れるまで大変そうだね」
日和がそう言うと、すずなはぴくりと肩を震わせ、おずおずと顔を上げた。
「そ、そんなこと……いえ、あります。正直、とてもあります……」
正直なことだった。
「部屋に入った瞬間から、なんだか場違いな感じがしていて……出してもらったお茶も、飲んでいいのか、迷っていました」
「飲んでいいよ。というか、冷めちゃうよ」
「は、はい……いただきます」
美月の言葉に、すずなは両手で湯呑みを持ち上げ、ちょこんと一口だけ緑茶を啜って、それからようやく、ほっとしたように小さく息を吐いた。
その笑みは、ようやく肩の力が抜けた証みたいに、やわらかかった。




