第七話「新たな芽吹き」
キリクスとアナントが僕の家を離れてから、二週間が経過した。
記憶を薄めた文章を書きながら、僕は「一人の家は退屈なのだな」と再確認していた。
退屈とは言え、家事を全部自分でやらなきゃならないので、一日の大半の時間は家事と執筆で消える。
相変わらず、灰色の町も黒い森も白い空間も、夢に出て来ない。
おまけに、今までイメージで溢れていた通常の夢も見なくなった。猫達の意識をさらおうと思っても、勿論何も出来ない。
「不出来なメモだ」と思っていた、先日の「少女と少年の物語」のメモすらも貴重なアイデアとなっている。
ずっと前に聞いていた、メリュー達の物語のメモを読み返し、いずれ再び連載を任されたら、この話を小出しにしながら食いつなごうと考えていた。
締め切りをクリアしてから、僕の中で「イメージを見られないなら実際に出かけてみよう」と言う欲が湧いた。
旅支度をして、家を閉め切り、トランクを持って、またしても僕は、一応の取材旅行に出かけたのだ。
また、陸塊の東側に行ってみた。今回は陸塊の東側から、船で隣の四番島に行ってみようと予定している。
節約のために、三等室を取ってみたけど、予想より労働者が多かった。
話を聞いてみると、三番島に住みあぐねて、四番島に「明るい太陽と豊富な働き口」を求めに行く人達らしい。
「東側に住む事は出来ないね。何せ、仕事がないから」と、彼等は言う。
三番島の東側は、陸地その物の面積が狭い他、果樹園と観光以外の産業があまり発達していないのだと言う。
四番島で、工場に勤務したいと言う女性もいた。
「四番島は、人手不足が続いてるみたいだから。きっと、移民でも職にありつける」と、その女性は希望を述べていた。
三番島の西側で職にあぶれた人の中で、開拓者の人が居た。彼は彼の主人である農場経営者に、四番島で農産物を作るように命を受けて旅に出たそうだ。
「お茶の木を栽培する農場を、任されているんです」と、その人物は語った。
アランが、またしても無責任な旅に出かけてしまって居た頃。
アナントは、キリクスと戦っていた。
主に、「抜け毛とにおいが気になるので、アナントを洗いたい」と言う点で争っている。
アナントも、ここ二週間で、なめた毛を嘔吐する回数が増えていたので、説得されて一度は風呂について行った。
しかし、体中を塗らされて、泡立てたシャンプーを付けられる段階になって、「やっぱりやだぁあああああ!」と叫んで、シャワー室から逃げ出してしまった。
「駄目だよ、アナント! もう、換毛期に入ってるんだから、ちゃんと洗わなきゃ!」と、キリクスは両手にシャンプーの泡をつけたまま、猫を追う。
「嫌だよぉ。全身から雫が切れないって、不快なんだよぉ」と、アナントは全身から雫を零しながら、ぐるにゃぁぐるにゃぁと抗議をする。
寝室の前の廊下で、一人と一匹がドタバタしていると、寝室の中からエリスが顔を出した。
「何かあったのかい?」と聞いてくる。
「エリスさん! 捕まえて!」と、キリクスの声が飛んで来ると同時に、アナントはエリスの足元を潜って、寝室の中に入ってしまった。
アナントの水滴まみれの足跡を見て、エリスは浅い苦笑いを浮かべる。
「あー。これは……。ちょっと、困るなぁ」
そう言いながら、エリスは寝室の中に戻り、ずぶ濡れ状態のアナントがベッドの下に潜るのを確認した。
「ちゃんと捕まえて、そっちに持って行くから、暫くシャワー室で待ってて」
「はい」と答えて、キリクスは言われた場所に戻った。
エリスは、ベッドの下を覗き込み、アナントがカーペットに背をつけて体を拭いているのを見た。
「アナント。埃まみれになるよ」と、声をかけると、「水まみれよりマシだよ」と、猫は寝転がりながら文句を言う。
「何だって、世界には『水で体を洗う習慣』なんてものが存在するんだい? 砂で体を洗われる方が、ずっと快適だよ!」
「此処は砂漠じゃないからねぇ」と、エリスは答えた。
「砂漠のほうが良いよ!」と、アナントはもう訳が分かって居ない。「砂漠に住もうよ! 次に旅に出るなら、砂漠に行こう!」
エリスは、困ったように返事をした。
「生憎、僕も砂漠での生き方は知らないんだ。それに、アナント。最近の君は、魚のにおいがするんだよ」
それを聞いて、猫は目をむいた。
エリスは続ける。
「多分、魚のフレークを食べてるからだと思うけど、体臭が魚のにおいに成ってるんだ。それは何とかしたくないかい?」
アナントは、暫く目を座らせた。それから、自分の手の先や、尻のにおいを嗅ぐ。
それから、「僕には、においは分からない」と述べた。
「自分の体臭は、気づきにくいからね」と言いながら、エリスはベッドの下に手を伸ばし、アナントの前足を掴んだ。そのまま、ずるずると猫を引き出す。「さぁ、シャワー室に行こう」
「嫌だ」と、アナントは口だけは言う。音としては、「ぐがぁご」と言ったように聞こえた。
エリスはアナントの両前足の付け根を掴み、床から抱え上げた。
「これだけずぶ濡れで埃まみれなんだから、もう取り返しはつかないよ」
その言葉を聞いて、アナントはすっかり諦めてしまった。しかし、何とか言い返そうと、ぐがぁごぐがぁごと呻く。
それを人間の言語に訳すと、「なんだってんだ。一体全体、なんでこんな目に遭うんだ!」と言う意味である。
言葉の抵抗もむなしく、エリスとキリクスの二人に押さえつけられるように、猫は首の下から尻尾の先まで洗われる事になった。
シャワー、タオルドライ、ドライヤーでの乾燥と言う、猫にとって「大嫌いのフルコース」を堪能する事になり、アナントの体毛はしっかりと夏毛に変わった。
「雨が降る上に、蒸すほど暑いって言うのはどう言う事なんだ」と、散々ぼやいている。
「熱帯地方だからじゃないの?」と、キリクスは、サラサラになったアナントの毛にコームを通してあげている。
アナント本猫も、自分の手を舐めて、髭の手入れをし始めた。
「ああ、湿っぽい。目の上の髭まで湿っぽい」
アナントがブツブツ言っていると、エリスが苦い顔をしながら寝室から出てきた。
「困った事になった」と、開口一番に述べる。「アランが、またどこかに旅立ったらしい」
それを聞いて、キリクスは「えええ?」と、大げさにリアクションする。「また、僕達を放ったまま?」
「いや、多分、僕が保護してるから、大丈夫だろうと思ったんだろうね」と、エリス。「無責任っぷりに拍車がかかったのは確かだけど」
アナントも意見を言う。
「やっぱり、悪い夢を見せる必要があるんじゃない?」
エリスはこう返した。
「いや、旅先で痛い目に遭うだろうから、僕等の方も、アランの事は暫く放っておこう。それより、キリクスは、『芽吹き』の感覚はある?」
「うーん」と、キリクスは唸った。「今の所、『先生の見ていたような夢』は見ないんですけど、頭の中に知らない風景が見える事はあります」
エリスは頷く。
「そのくらいずつで充分だ。『宿り手』としての能力は、ゆっくり芽吹くものだからね」
「もし、僕にも『灰色の町』が見えるようになったら、猫達の意識の事も分かるんでしょうか?」
「恐らく、外部からの情報を中継したイメージが、あの『灰色の町』だから、キリクスには君なりの『情報の中継拠点』が見えるようになると思うよ?」
そう聞いて、キリクスは鼻の頭を掻いた。
「先生には申し訳ないけど、ちょっと、楽しみです」
その答えに、エリスは微笑んでいた。




