第六話「ある種のスランプ」
一週間の旅行の後。気分の重くなる天候の中に戻って来て、僕はしっかりと執筆を済ませた。
「もう、何の相談もなく、出かけないで下さいよ?」と、キリクスには念を押された。
僕は「うん」とだけ嘘を吐いておいたけど、また「もやもやと出かけたくなってしまったら」、再犯するだろうと言う予想はついていた。
ヴィノ氏は僕と顔を合わせた時、笑顔だった。にこにこしていた。凍り付いたような笑みで。
「何をしに行ったんだい?」と聞かれたので、「リフレッシュに」と返すと、「へえ?」と、語尾を上げられた。
「小さない子供と、小さな動物を放り出して、雨と緊張から逃げるための、リフレッシュへ?」と、ヴィノ氏は今までにない、冷え冷えとした声で言う。
僕はこの時、自分では真っ当だと思っている言い訳をした。
「そうしないと、締切に間に合いそうになかったから」
その言葉は、ヴィノ氏の逆鱗に触れたようだった。
一瞬、彼の視線がギラリと光る。それから、また笑顔に戻って、「キリクスを引き取ると言い出したのは、君だよね?」と聞いてくる。
「そうだね」と、僕は数年前の事を思い出した。
ヴィノ氏は淡々と述べる。
「アナントに関しても、君は責任のある立場だよね?」
「そうだね」
「『そうだね』か」と、ヴィノ氏は言って、深々と溜息を吐いた。「君の感覚が、そこまで『無責任』になってるとは思わなかった。僕達は、暫く距離を取ったほうが良いね」
どういう意味だろうと思っていると、ヴィノ氏は、アナントをキャリーバッグに入れ、キリクスには荷物を纏めさせた。
僕はその様子を、ぼんやり見ていた。
すっかり支度が済むと、ヴィノ氏は言う。
「全部を『感情の鈍麻』のせいにしている間は、君に彼等を任せておくわけには行かない。キリクス達は、僕の家に引き取るよ。
ハッピーに成っている頭が覚めるまで、執筆以外の事をよく考えなさい」
ヴィノ氏は少年と猫を彼の家に連れ帰った。
残された僕は、「暫く静かに成るのか」と思った。静かに成るけど、朝食を作ってくれる人が居なくなるんだ、と言う事にも気づいた。
アナントが居なくなると言う事は、僕の霊感は失われるのだろうか。
いや、陸塊の東側に行っても、霊感は失われなかったんだから、きっと大丈夫だろう。
僕はそう高を括っていた。
締め切りをクリアして、次の短編の執筆をし始めた。陸塊の東側で見た、極彩色の鸚鵡に関するおとぎ話を書いた。
執筆を進めて行く内に、「あれ?」と思った。何時も執筆の時は、目の前に世界が広がるような感覚がしていたのに、何も思い浮かばない。
文字だけが目の前にあって、メモを見ながら言葉を手繰り寄せたけど、「目の前に広がる世界を、登場人物が自由に行動する」と言う、何時もの感覚がない。
違和感を覚えながらも、僕は鸚鵡に関する執筆を終えた。
第二の「あれ?」は、眠っても夢を見なくなった事だ。
灰色の町も、黒い森も、白い空間も、星の視点も見えない。
アナント達と会話が出来ないなら、ミラと話そうと思った居たけど、どの世界の夢も見ないのだ。
その代わりに、「僕が学生に戻っていて、とても厳しい教師から、鞭を与えられながら、昔習った数式を解く」と言う夢を見た。
多分、何かの象徴夢だけど、そんな物を見てる場合じゃないんだ。
ヴィノ氏達の方を気にしてみたけど、何時もみたいに「メモする内容として向こうの様子」が分かる事も無かった。
ペンを持っても、何も思い浮かばない。今までの「情報の氾濫」が、完全にストップしたみたいに。
僕はその後、何か思いつく事は無いかと、メモとペンを手に苦悩する事になる。
エリスのもとに引き取られたアナントは、エリスから「アランを甘やかしてはいけない」と言い聞かせられた。
「彼は今、慢心状態なんだろうね。何をしても、自分は絶対的に『安定して居られる』と思い込んで居るんだ」
アナントは聞き返す。
「その慢心から、僕達を放り出したの?」
「そうなる」と、エリス。「何時かに、アランに『一撃』を食らわせた事があっただろう? あんな『一撃』が、今回も必要だね」
「悪い夢を見せれば良いの?」
「いや。むしろ、夢を見せないほうが良い。徹底的に、彼本人が『唯の人間』である事を、知らしめたほうが良いね」
「それって、執筆に影響しませんか?」と、キリクスが口を挟む。
エリスは頷いた。
「影響させるくらいじゃなきゃダメだ。君達の必要性を、再認識させるくらいに」
アナントは暫く考えてから、「力の方向性を変えなくちゃ」と述べた。
「アランの方に注がれている『霊感』を、誰かに移動させるって事なんだけど」
「じゃあ、『宿り手』を、暫くキリクスにすれば良い。ちゃんと、アナントを保護しようって言う気概のある人物だからね」
それを聞いて、キリクスは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「アナントがお腹を下した原因は、僕だけど……」
「大丈夫だよ、そのくらい」と、アナントは言う。「だけど、これからは僕に『人間の食事』を摂らせないでね」
「うん。それじゃぁ、僕はどうすれば良いですか?」
「アナントの面倒をしっかり看てあげて。アナントが、キリクスを『宿り手』として信用できるように」
キリクスは、そんな事で良いのかと言う、少し安心した表情をすると、「はい」と明瞭に答えた。
執筆に悩んだ僕は、雨の降る中に散歩に行った。体を動かせば、何かヒントが思いつくだろうと考えて。
傘を持ち、レインコートを身に着けて、長靴を履いた。外はザンザン降りである。
整地された道路を歩くと、生垣や塀と広い庭がある住宅街が広がる。庭を見て歩くのも、一種の刺激ではある。
カーテンをされた窓の向こうに、外を見ている猫を発見した。
そして再び、異変を感じた。
猫の意識を探ろうと思っても、「何も思い浮かばない」のだ。
今まで、当たり前のように出来た「追跡」が出来ない。
これは、もしかして、アナントに本当に見捨てられたと言う事か? と思ったけど、そんなに重要な事に思えない。
見えないなら仕方ないよね、と思っただけだった。次に会った猫からは、見えるだろうと思っていた。
その期待は、ことごとく裏切られるのであった。
アナント達が出て行ってから、一週間後。僕はすっかり「何も書けない、何も思い浮かばない」状態に陥っていた。
編集さんには、「スランプみたいです」と述べて、次の締切を一週間後まで伸ばしてもらった。
今まで、一回目の締切りで原稿を提出していたので、締切を伸ばしてもらえたのは、其の信頼があったからだろう。
本当の締切りと言うのは、編集さんから「印刷所を待たせてるんですよ」と言われた時だ。その締切りを迎えてしまった作家は、次から仕事を干される。
僕は第二の締め切りまで伸ばしてもらったので、まだ余裕はあるはずなんだ。
何でも良いから、文字を書いて提出しなければ。
僕は、三番島の東側に行った時の記憶を、数倍にも薄めて、少しずつ提出すると言う荒業を使う事にした。
キリクスはそれまで以上に、アナントの面倒を細かく看ていた。
アナントの背中をブラシで掻き、抜け毛を集めてごみ箱に捨てようとした。
其処で思いついたように、キリクスはエリスに声をかける。
「猫の毛って、何かに再利用できませんかね?」
「石鹸で綺麗に洗ってから、擦り合わせると『猫フェルト』って言う毛のボールが作れるよ」と、エリスは教えた。
「猫フェルト」と、キリクスは復唱して、エリスの家の洗面台に向かった。




