第四話「天国と地獄」
夕飯のホールの傍らに、手打ちの太鼓と指ピアノを弾く楽団が居る。
その音色が包む民宿の中で、キノは自由に踊り回った。夕飯の席でダンスを披露する他に、玄関のホールに佇んで、近所の観光地を案内する歌を歌う。
「タムタム鳥が ピンクに光る ご朝食には ナイキマーラで 喉を潤す ラニズフア ウアラフィルドで 早めのランチ おやつは屋台 ココナツジュース」
何だか色んな言葉が混じってるけど、それはそれで異国情緒と言うものだ。
僕はすっかりキノが気に入って、彼女を付け回して話しかけた。
キノは何歳か。歌と踊りは、何時から習っているのか。歌の中に出てくるもの以外で、何か名物はないか、なんかを。
彼女は現在十一歳で、踊りと歌は六歳の頃から習っている。歌の中に出て来ない名物なんて無いくらい、歌の種類を作っている。
「毎日、違う歌をお客さんに歌ってあげるの。今日の歌は、南ビーチに近い所の案内なんだ。昨日の夕食の時に、南ビーチに行くって言ってたお客さんが居たから」
「僕のリクエストに答えてくれる歌もあるの?」
「たぶんね。アランは、何処に行く予定?」
僕は少し考えた。それから、「特別な秘密のビーチに行きたい」と、無理なお願いを言ってみた。
キノは面白そうに笑ってから、「海岸沿いの 岩場を歩き 膝まで水に 浸かってみなさい 真珠のように 美しい 白い浜辺は エメラルド色」と歌った。
僕は、その歌が「特別な秘密のビーチ」へのヒントなのだと察し、黙って頷いた。
海岸沿いを探すと、長い砂浜の向こうの方に、波に浸食されつつある凸凹の黒い岩場を見つけた。
踏み込むと、足首辺りまで水に浸った。ビーチサンダルを履いて居なかったら、僕の足の裏はズタズタに成っていただろう。
この水深が、膝までくる場所に、「特別な秘密のビーチ」への手がかりがある。
僕は、足を滑らせて深みに落っこちないように、慎重に爪先で足元を探った。
昼の日差しが容赦なく照り付ける。喉の渇きを覚え、持ってきていた瓶入りのレモネードを少し飲んだ。レモンの香りの水は爽やかだ。
ボトルをザックの中に戻し、岩壁を見上げる。足首までの水深の辺りは、ほとんど歩き尽くした。
探していない所となると、この岩壁に開いている洞穴のような場所だけだ。
岩壁に手をつきながら、数歩進む。途端に、足先の感触が無くなった。右足で探っても左足で探っても、これ以上先は「足首まで濡れる程度」の水深じゃないようだ。
残している足に重心をかけ、ゆっくりと片足を前に差し出す。膝まで沈む辺りで、爪先が岩場を踏んだ。
キノの歌は、この洞窟を進めと言う意味だったんだ。
所々で、天井が陥没して日光が注いでいる洞穴を、バシャバシャと水音を立てながら進む。
段々と、足元が隆起して、ビーチサンダル越しに、砂の感触がしてくるようになった。
雨の中に走り出したキリクスは、アナントの入ったキャリーバッグを両手で持ったまま、あてもなく「動物病院」の看板を探していた。
だけど、異国の文字が混じる看板に目がちかちかして、何がどんな施設なのか、店舗なのかも分からなかった。
アナントは、気持ち悪い上にケースごと揺すられて、なんとも不機嫌な表情をしている。
キリクスは、アナントの状態がどんどん悪くなっているような気がして、無茶苦茶に雨の中を走り回った。
「キリクス」と、大人の声がした。
全然知らない国で、彼の名前を知っている大人と言うのは、勿論ヴィノ氏だった。
「何か、あったのかい?」と、傘をさした彼は聞いてくる。
キリクスは、アナントに人間の食事を摂らせてしまった事と、それからアナントがお腹を下して、げっそりしてしまっていると訴えた。
「分かった。まず、落ち着いて」と、ヴィノ氏は、雨粒の滴っていたキリクスの前髪を、頭の後ろの方に避けてあげた。「僕の家に行こう。このままじゃ、君も風邪をひいてしまう」
「はい」と、答えて、キリクスは額と頬の水滴を拭った。
ヴィノ氏の隠れ家に連れて行かれたキリクスは、温かいシャワーを浴びて、大きなバスタオルに包まった。
彼の服はランドリーの中で回っている。
「これを飲んで」と言って、ヴィノ氏はレモンの香りがする蜂蜜茶を、キリクスに与えた。
「ありがとうございます」と返して、キリクスはお茶を口にする。「あったかい……」と、彼は呟いた。実際に、頬に赤みが差す。
ヴィノ氏はキリクスの額の熱を触診し、「うん。君の方の具合は良さそうだ」と判断した。
それから、キャリーバッグの中から取り出されて、ソファの上でぐったりしている猫氏を見る。
「問題は、アナントの方だね」
「ええ……」と、キリクス。「この国の『動物病院』って、何処にあるんでしょう?」
「この国では、『動物病院』って呼ばないみたいだね」と、ヴィノ氏は電話帳を見ながら答える。
「正確には、病院を兼ねている猫や犬の保護施設がある。此処の最寄りは、『サニーサイドアップ動物保護院』って言う所がある」
「目玉焼き……」と復唱して、キリクスは変な顔をしていた。「変わった名前ですね」
「何だか、卵や、卵料理に関した名前の『動物施設』が多いみたいだね。『エッグタルト』って言う名前のトリミングサロンや、『ビッグオムレツ』って言う名前のペットホテルもある」
「何が何だか」と、キリクスは片手で頭を掻いた。
複雑な表情を浮かべる少年を、ヴィノ氏は励ます。
「まぁ、馴染みのない文化だけど、少しずつ覚えて行こう。とりあえず、僕はアナントを保護院で診てもらってくるよ。キリクスは、暫く留守番をしていて」
「はい。お願いします」と、少年は答えた。
サニーサイドアップ動物保護院は、名前がふざけているだけで、施設としてはちゃんとした動物病院だった。
ヴィノ氏から、アナントの様子を聞いた医師は、「ああ。たぶん、脂負けですね」と答えた。
「ベーコンの脂でお腹を下したんでしょう。薬を処方しますので、しばらくお待ちください」
そう医師が言うと、二名の看護師達がアナントを座らせた姿勢でバスタオルに包み、口を開けさせた。
猫氏は、自分の体を良いように扱われるのが嫌らしく、無理矢理開けさせられた口を閉じようとした。
その一瞬の隙に、看護師の一方が、ゼリー状の薬液をアナントの口に注入した。
奇しくも、アナントは自分の口に異物が入った瞬間に口を閉じる事になり、やむなく「美味しくない薬」を飲みこむ事になった。
猫氏は納得が行かないと言う顔をしていたが、処置は上手く行ったわけだ。
脱水を起こしているかも知れないので、一晩保護院で様子を見ようと言う事になり、アナントは保護院のケージの中に入れられた。
慣れない空間に入れられても、弱り切っている猫氏は暴れる余裕もないようだった。
「明日には迎えに来るからね」と、ヴィノ氏はアナント声をかけた。
アナントは、息も絶え絶えと言う風に、細く呼吸しているだけで、ぐったりしたまま返事もしなかった。
返事の代わりに、尻尾の先をちょっとだけ動かしていた。
僕の目の前に、白い粒子の細かい砂浜と、エメラルドグリーンの海が見えた。
砂浜は複雑な形で広がっており、その浜辺の各所に、三日月湖状の海水が入り込んでいる。
「おお。すごい」と、僕は一人で声を上げた。
これは確かに、特別な秘密のビーチと言っても良いだろう。
ザックからカメラを取り出して、浜辺の写真を数枚撮った。
この時の僕は、山脈で分け隔てられた向こう側で起こって居る事を、思い浮かべる事も無かったのだ。




