第三話「家出をした僕の事」
現在、僕は三番島の東側に行こうとしている。まだ日が昇らないうちに家を抜け出し、始発の列車に乗って。
列車がトンネルをくぐっている所なので、鼓膜がおかしくなかった感じがする。
三番島の西側で二週間くらい過ごしたけど、あまりにも雨が降りすぎて、すっかり疲れてしまったのだ。
今回ばかりは僕も無責任に成るしかない。何故なら、低気圧に続く低気圧の連続で、頭痛がものすごくなってきて、仕事の執筆が出来ないのだ。
何も書けないのに、着々と締め切りは近づいてくる。
その圧迫感に耐え切れなくなって、僕は家出をした。
「一週間家出する。後は任せた」と言う、置手紙を残して。
誰に何を任せると言うかは、アナントの面倒はキリクスに任せて、キリクスの面倒はヴィノ氏に任せたつもりだ。
そこまで細かく記しては置けなかったけど、残った人々の間で話し合ってくれと言う事を、心の中で唱えておいた。
朝、新しいソファベッドで瞼を開けたキリクスは、フライパンでベーコンと卵を焼き、それを皿に取ってから、執筆家を起こそうと寝室に行った。
「せんせーい! 朝ですよー!」と、まずドアの外から声をかける。しかし返事がないので、「先生! 開けますよ!」と声をかけ、ドアを押した。
鍵はかかって居ない。
薄暗い部屋を見回したが、其処にあるベッドには、誰も居なかった。
キリクスは、念のためにバスルームも確認したが、居ない。
首を傾げながら、ベーコンエッグの香りが漂うリビングをうろうろいていると、テーブルの下に落ちている走り書きのメモを見つけた。
「一週間家出する。後は任せた……」と、キリクスは読み上げる。
朝食の匂いで朝に気付いたアナントは、猫ベッドから起き上がって、キリクスに「なーん」と鳴いて見せる。
キリクスは、暫くアナントと猫の皿を交互に見ていたけど、「任せた」と言う事が、アナントの世話を任せたと言う意味だと理解し、キャットフードを仕舞っている戸棚を開けた。
トンネルの東側の出口が見えてくる。僕は自分の望んでいた「晴天が広がり、涼しい風の吹く車窓」を見渡した。
暖かい季節なので、日光の彩度も高い。晴れ渡る空には白い雲が浮かび、ココヤシに似た木の葉が、大きく揺れている。
僕はついつい列車の窓を開けそうになったけど、「やめて下さい!」と、近くの席の男性から声をかけられた。「虫や、土埃が入ってくるから!」と。
「すいません」と、僕は口だけ謝って、そう悪いと思っていない行動をやめた。
三番島の東側は、なんとも美しい場所だった。
この陸塊に到着した日は気づかなかったけど、空は瑠璃色で、大地は農作物の実りも良い。
山地を越え、平原を越え、カラフルな果物が生っている果樹園を通り越し、列車は最終駅に着いた。
地図と地名を確かめると、三番島の東側でも、海に近い町だった。港があるわけではなく、自然の砂浜が広がっている。
その砂浜には、木を削って作ったカヌーとオールが点在していた。
せっかく作った朝食を、どうしようかとキリクスは悩んだ。
顎に手を当てて考えてから、ベーコンと目玉焼きなら、アナントが食べられるかもしれないと思いついた。
「ねぇ、アナント」と声をかけて、手をグルーミングして顔を洗っている猫氏の前に、ベーコンエッグを差し出した。
僕は飛び込み客を受け入れてくれる民宿で、一晩の宿を取った。
昼に、町の中のマーケットで色んな果物と、焼いた魚と焼いた串肉を食べた。
色の明るい屋根が並ぶ街並みを見回し、写真もたくさん撮った。
嘴の大きなカラフルな鳥、ココヤシ並木、青く塗られた石畳が続くマーケットの通り、笑顔を向けて来てくれる街の人達。
低気圧と退屈から逃れた僕は、「この町を舞台に短編を書いてみよう」と思い付いた。
宿に戻ってから、持ってきていたノートにメモを書いた。
光の眩しさ、風の匂い、波音の心地好さ、食事の味。
最初は、町の様子を書いていたけど、そのうちに「家に残して来たアナントとキリクス」の事が思い浮かぶようになって、それもメモした。
どうやら、僕のセンサーに、アナント達の事が引っかかっているらしい。
僕の「追跡能力」は、アナントが与えてくれている霊感みたいなものだから、力の根源の事が頭をかすめるのは仕方ない。
僕は自分の書いたメモから、キリクスがベーコンエッグをアナントに食べさせたことを知った。
お腹壊さないかなぁと思ったけど、危機感は湧かない。危機感も、「感情」に因って発生する事象なのだろうか。
この民宿では、ハンモックで眠る様子だった。
ふわふわと揺れるベッドの中で、僕は心地好い眠りに就いてた。
頭の中に、イメージが湧いてくる。見えてきたのは、アナント達の事ではない。何時もの、黒い森や灰色の町や白い空間でもない。
今日歩き回った町の中で、人の形をした不思議な影が、僕の手を引いて行く。
背丈からして、その影は子供のようだった。
町を抜けて、タウンバスに乗って、浜辺の傍らの通りに行き、ある大きな家に入り込んだ。
外の壁に、色んな肌の色の人々が、手を繋いで並んでいる壁画が描かれている。
その家の中には、数名の旅行客と、チョコレート色の肌の夫婦がいた。夫婦は、旅行客のための食事を用意している。
どうやら、移住してきた四番島の人々が経営している民宿のようだ。
僕の手を引いて来た影が、チョコレート色の肌の少女の姿に成った。青いワンピースを着て、髪に花を飾っている。
その女の子は僕をホールのような大きな部屋に招くと、手を放した。彼女は、用意された食事を摂っている旅行客の前で、歌を歌い、踊り始めた。
愛らしい少女の舞い踊る姿を見て、旅行者は拍手を送る。
夢の中の僕も、すっかりその少女に見惚れたまま、パチパチと手を叩いていた。
目を覚ますと、ハンモックの中だった。窓の外では、広い軒の向こうで明るい日差しが注いでいる。
夢の中で見た道筋は、はっきり覚えている。僕は素泊まりの宿を離れて、マーケットに行った。そこで朝食の果物を購入し、ベンチで食べてからタウンバスのバス停に向かった。
アナントは、やっぱりお腹を壊した。
食べたベーコンエッグを吐くんだったら、まだよかったかもしれないけど、彼は気持ち悪そうな顔をしたまま嘔吐を我慢してしまい、遂にお腹を下したのだ。
その様子を見て、キリクスはすっかり慌ててしまった。
ヴィノ氏に相談しようにも、彼は僕が家出をした前日に隠れ家を訪れていたので、二日後に来るとは限らない。
その時の隠れ家には、まだ電話帳が無かった。
キリクスはアナントをキャリーバッグに詰め込むと、カプセル型のキャリーバッグを抱えたまま、町の中に出て行ってしまった。
どうやら、動物病院を探そうとしているようだった。
タウンバスは、夢で見た通りの浜辺に到着した。僕は浜の横を通っているストリートを歩きながら、目的地である民宿を見つけた。
壁画の様子も、夢の中で見たのとすっかり同じ。
僕は期待を込めて宿の受付を覗き、受付に顔を出した女性に、その民宿に泊まれないかと交渉した。
幸い、三日の宿を取る事が出来た。
「キノ。お客さんを部屋に案内して」と、受付に居た女性が言う。
「分かった」と答えたのは、昨日の夢の中に出てきた、チョコレート色の肌の女の子だった。
その女の子は、黒い宝石のような瞳で僕を見返してきて、「貴方、何処かで……」と呟いた。
僕はにっこりと笑むと、「初めまして、キノ。僕はアランと言います」と声をかけた。




