第十話「猫達の猫的な諸事情」
エリスは自宅にしているマンションの一室で、キッチンカウンターに肘をかけて、物思いに耽っていた。
アナントから読み取った結果を、どう扱おうか迷っていたのだ。
主に、調査チームに拡散してしまって良いのだろうかと言う所だ。
アナントは「秘密裏に進めたい事なんだよね」と述べていたし、猫達が彼等の世界で留めておこうとしている情報を、人間達に流布して、「暴かれやすい状態」にしても良いのかと。
アナント達が召喚した者は、「天使い」ではなかった。
ある種の「影」であり、レンカ達が「負」と読んでいるものに近かった。それは、真っ黒な羽をもった巨大な蝶のような姿で、アナント達の前に現れた。
名をつけるなら、「影羽」と言う所であろうか。
意思の疎通が取れる「負」を呼び出し、猫達は「湾庵に居る、少女の持って居る桐の箱」を調べてくれと申し込んだのだ。
その代償として、いずれ、その桐の箱に封印されて居るはずの、「影」の一部を譲渡すると述べて。
アランの追跡を逃れようとしたのは、アナントなりに「自分勝手」をやっていると言う自覚があったからだろう。
エリスは手持無沙汰にお湯を沸かし、陶器のポットに茶葉を入れた。
お湯を注いで、茶葉がジャンピングするのを待つ。
カップに紅色の茶を注いでから、スーッとゆっくり息を吸い、「どうするかね」と呟いた。
そこまで答は分かっても、猫達に「負」の存在を任せてしまって、良いものだろうか。
「僕だけで何とかするには、少し荷が重いな」と、独り言ちた。
お茶を一口啜ってから、受話器を取り、暗号番号にかけた。
「そっちの町に居る猫達の先を『読めば』良いのね?」と、受話器の向こうでマリアの声が聞こえる。
「その通り。セシリアの調子は?」
「彼女も絶好調よ」
「それは良かった。それじゃぁ、頼んだ」
「任せておいて」
マリアは受話器を置いてから、自分の足元に擦り寄っている白いペルシャ猫を抱き上げた。
「セシリア。貴女の出番よ」
マリアの目の高さまで持ち上げられた猫は、「ミュオン」と元気良く返事をした。
眠る準備をして、セシリアと一緒にベッドに入ったマリアは、ゆっくりと呼吸をしながら、半入眠の状態になるのを待った。
彼女の頭の中に、様々なイメージが行き交う。
遊覧船、湖、深い湖底、眠る猫と、それを抱えている赤い着物姿の少年。彼は瞬かない視線で、腕の中の猫を見つめて居る。
夢のようなイメージを掻き分けて行くと、やがて一番島の南端の町が見えた。家に使われている特徴的な瓦屋根から、そう判断できた。
さっき見た、赤い着物の少年によく似た少女と、その子と手を繋いでいる別の少年が見える。
六、七歳の小さな二人。季節の到来が四周訪れ、やがて二人は十歳程まで成長した。
数十匹の猫達が集まる広場の真ん中で、少女は、小さな桐の箱を持って居る。紐で括られている其れから、一枚の紙を引き抜き、紐を解いた。
静かに蓋を開ける時、少女の手元から、圧縮されたガスの様に黒い「影」が吹き出した。
桐の箱は粉々になって朽ち果て、溢れ出した「影」は少女の周りをグルグルと旋回する。
少女は、自分の身に纏いつこうとする「影」を少しずつ吸い取りながら、誰かの名を呼んだ。
其処に存在しないはずの少年が、「別の空間」から干渉してくる。
少年は「黒い大きな猫の霊体」に見えている其れに触れ、自分の両腕の中に抑え込んだ。
猫の霊体は何度も「ガスの噴出」を繰り返し、猫達はその「影」を、召喚した黒い蝶の方に流し込んでいる。
やがて、黒い猫の霊体は小さくなり、子猫のような姿に成った。まだ目の開いていない、幼い猫。
少女はその子猫に声をかけた。
「イシロ。辛かったね。もう、楽になって良いんだよ。此処にはもう、貴方を縛るものは無い。もう、貴方は、『未来』に来たんだ」
子猫の、青い目が開く。
イシロがミヒナの元を離れた理由。彼は、旅を続けながら、「束縛する、恐ろしいものの存在しない未来」を探していたのだ。
ミヒナから向けられていた「愛情」さえも、彼には、自分を縛り付けるものにしか感じられなかったのだろう。
しかし、彼はようやく、「未来」を見つめる目を手に入れられたのだ。
「初めまして。イシロ」と、少年も、両腕の中の子猫に声をかける。「それじゃぁ……。お休みなさい」
拙い言葉であったが、イシロにとっては、悪夢を恐れずに眠って良いと許可されたような、安心感を与える声だった。
分解された猫の「影」は、小さな鳴き声と共に、掻き消えた。
マリアは翌日、エリスの暗号番号に電話を掛けた。
「貴方が心配する事はないわ。猫達のするままに任せて。四年後には『桐の箱』の事件は、解決する」と、マリアは語った。
その答えを聞いて、エリスは相手に礼を返すと、ふぅっと息を吐いた。
先が分かってしまった以上、エリスはこの件に関わるわけにはいかないだろう。
後は、四年後の猫達とレンカがどうするかを、確認するだけで良い。
締め切り明けのアランは、記録用のノートブックを開いて、頭に思い浮かんだことを適当に記述していた。
「最近膝の調子が悪い。椅子に座りっぱなしだからだろうか。少しは運動をしなければ」
その手元を覗き込んでいたアナントが、「君の日常は平和なんだね」と、皮肉を零した。
「うち猫が『君は平和なんだね』と言う事を述べて来るので、きっと僕の日常は平和なのだろう。『影』は大分操れるようになったけど、一体この能力は、日常の中の何に活用できるんだろう」
アナントは黙ったまま、確かに「影」を操る事は、日常生活向けの能力じゃないよなぁと考えた。
星の対流に潜ったり、「負」の力が強い「影」を、「正」の力の方向に変換したりは出来るだろう。
元々彼の持って居た「追跡能力」や「予見能力」と組み合わせれば、「この惑星単位の状況の正確な追跡」だってできるかもしれない。
アラン本人は、まだまだその可能性に気付いていないらしい。
気づかないなら、何時かエリスやミラが助言するだろうし。僕の語る範疇じゃないな。
猫氏はそのように納得して、先端をちょいちょいと動かしていた尻尾を、自分の周りに纏めた。
三日月が空にかかっている。
猫達は公園の噴水を囲んで舞い踊り、また別の「影羽」を呼び出していた。
影羽は指令を得て、ひらりひらりと飛んで行く。
その日の召喚の儀式を終えてから、猫達は解散し、夫々の家に戻って行った。
アナントも、家に帰ろうとすると、またエリスがドアの前に立ちふさがっていた。
アナントはエリスに近づかないまま目を座らせる。
「門番さん。今日も『痴漢』をするまで退かないつもり?」と、アナントは嫌味を言う。
「いや、今日は謝ろうと思ってね」と、エリスは言う。「余計な詮索をして悪かった。何でもかんでも、大人が介入すれば解決するわけじゃないって分かったよ」
「へー」と、アナントは全然信用してない風に返す。それから、こう聞いた。「マイクロチップに関しては、どうなった?」
「無事にバーナードの首から摘出されて、動物病院とは別の場所に運ばれてから、分解された」と、エリス。
「じゃぁ、アクスメディナからの追跡は……」
アナントがそう言いかけた時、エリスは遮った。
「解除できたと言いたいけどね。何せ、レンカが向かったのが『一番島の南側』である事は分かってしまっている。そろそろ、次の引っ越しが必要かな」
アナントは、また何時間もトイレを我慢しながら、船に揺られるのか、と、項垂れた。




