第一話「おっかない夢」
今日も、エリス・ヴィノ氏はアラン・ハーディの家を訪れ、記録用ノートブックをじっくりと読みこんだ。
そして気づいた。
「アラン。三日前から日付が停まってるのは、何故?」と、記録係に話しかける。
「うーん。何と言うか、レンカの夢を見るのが難しくなって来てるんだよ」と、アランは答えた。「猫達の船の夢と、三日月湖の夢と、灰色の町の夢は、よく見るんだけど」
「何か原因に心当たりは?」
「それが、さっぱり」
そうやり取りをする二人を交互に見ながら、部屋の隅に身を低くして居たアナントは、椅子から立ち上がったヴィノ氏の方に目を向けた。
ヴィノ氏はノートブックを閉じて、アランに差し出す。
「集中力が切れかかっているなら、多少のリフレッシュは必要だ。だけど、一週間もレンカの後が追えないようだったら、打開策を考えなきゃならない」
「何とか、『レンカの様子を見れるように』って念じながら眠ってみる」
アランはそう答えたが、アナントは、帰ろうとしたヴィノ氏の後について行った。
玄関のドアを閉めようとしたヴィノ氏は、危うくアナントの尻尾を扉に挟む所だった。
「おっと。危ない」と、ヴィノ氏は冗談めかせて言う。「こんな所までお見送りなんて、珍しいね」
アナントは、ちらりと背後を見た。飼い主が書棚の方を向いて――つまりこっちに背中を向けて――ノートブックを整頓しているのを見てから、手の仕草でヴィノ氏に「ドアを閉めろ」と合図する。
ヴィノ氏も勘の良いもので、とりあえずはドアを閉めた。
自分の家の方向に、一歩二歩と足を進めながら、猫の方を見る事もなく、「何か用があるのかい?」と聞いてくる。
アナントは、彼の横を歩きながら、やはり相手を見ることなく「あるんだよねぇ」と、ぼやくように言う。その体毛は、少しボリュームが出るくらいに逆立っていて、長い尾は水平に伸びきっている。
「アランの事だけど」と言って、アナントは傍らの客人を上目遣いに見上げた。「実はここ暫く、『良い夢見たいなぁ』って言う気持ちが強いみたいなんだよ」
それを聞いて、ヴィノ氏は一度瞬いた。
「それは、『レンカの夢を見たい』と思ってないって事?」
アナントは頷き、ボソボソ声で熱心に言う。
「多分、思ってはいるんだろうけど、前みたいに『どうにかして夢をコントロールしなきゃ』って言う気概がないと言うか。
『レンカ』を追うなら、ミラやノワに協力してもらう手もあるはずなのに、夢自体が『楽しい物』に変換されてるせいか、ミラ達が存在出来ない空間での夢が増えて来てるんだ。
例えば、さっき言ってた、猫達の船の夢とか」
「そうかぁ……」と呟いて、白いフード付きトレーナーと黒いズボンの、カジュアルウェア姿のヴィノ氏は、顎に手をかけた。「アナントが『誘導』してあげる事は出来ないくらい?」
「そう。だから、この三日間、『レンカ』の様子を追えていない」
「そうなると、僕が説得しても、ほとんど無駄だねぇ」
その言葉を聞いて、アナントはへなりと尻尾を萎えさせた。同時に、足取りも止まる。
ヴィノ氏はアナントの傍らに屈みこみ、彼の撫で肩の毛を手で整えてあげた。
「アナント。良いかい?」と、ヴィノ氏は励ますように言う。
「今、アランがどんな力を持って居ても、その大元は、君が彼を『宿り手』として認めているから得られた力なんだ。君が、自分の無力を嘆く必要はない。
むしろ、『良い夢見たいなぁ』って浮ついている『宿り手』に、一撃を食らわせてあげなさい。全部を『唯の良い夢』にしてしまうなら、こうなるんだぞ! ってね」
「放任主義を貫いてはいけないのか」と、アナントは意を決した。「ありがとう、エリス。僕なりの『一撃』を、浮ついてる宿り手に食らわせてやるよ」
ヴィノ氏は、「その意気」と声をかけ、アナントの尻尾の付け根を、軽くポンッと叩いた。
その晩、アナントは「自宅」に潜り込んでいた。スリッパをパタパタ言わせて歩く二名の足元を、用心深く観察している。
「それじゃぁ、先生。僕、先に休みますね」
少年の声と共に、その足がスリッパを脱いで、ソファベッドに上る。
「うん。お休み」と、アランの声。彼の方の足も、室内用の楽なスリッパを履いている。「アナント」と声をかけようとして、部屋の中に飼い猫の姿がない事に気付いたようだ。
スリッパを履いた足が近づいてきて、ひょいと「アナントの自宅」を先生様が覗き込む。
アナントと視線が合った瞬間、アランは床に引っ張りつけられるように、脱力した。
「先生?」と、キリクスの驚いて居る声がする。
アナントは、ようやく「自宅」から出て来た。
「キリクス。アランの毛布を持ってきてあげて」と、アナントは半分霊体の少年に声をかける。
「え?」と、キリクスは聞き返した。「起こさないの?」
「うん。アランは今日一晩、此処で眠る必要がある」
その威圧的な猫の言葉に、キリクスは首を傾げた。しかし、言われた通りに毛布を持ってきて、アランの体をどうにか包み込んだ。
アランは、一人で目を覚ました。それは随分前に住んでいた、七番島の一軒家である。
今、すごく複雑な、だけど胸が高鳴るような夢を見て居たぞ、と、アランは思った。
その夢の中で、アランは不思議な友人達と出会い、猫達の騒動を解決し、目標だった児童文学者に成れる。
それから、長い長い旅に出て、様々な事を経験し、最終的には「スウィフトの執筆した旅行記」のような、一大冒険記をしたためるのだ。
アランは、部屋を見回した。誰も居ない、机と椅子と書棚のあるだけの部屋だ。
夢の中のアランは、活動的で愛らしい猫と、何時まで経っても外見が七歳くらいの少年と一緒に暮らしていた。
時々、様子を見に来てくれる青年が居て、彼も何時まで経っても、外見が二十代後半くらいの様子から変わらない。
「年を取って行くのは僕だけか」と思っていたが、ニ十歳が近くなった猫は衰弱し、体が不自由になった。
そして、ある日にアランの膝の上で息を引き取った。
アランは、猫の遺体をペット用の火葬場で焼いて、小さな骨壺だけを受け取ってきた。
思い出せる限りでも、それは素晴らしい「夢」だった。
そして、今の自分には「何にもない」事を思って、少し寒気がした。
あの夢のような日々は、本当に夢だったのかと再認識したのだ。
そしてこれからも、七番島で、芽の出ない作家志望者として、タイプライターを打ち続けるのだろう。
あの猫は、何と言う名前だったっけ。僕と友人を引き合わせてくれた、小さな子猫。
「アナント」と、アランは呼んでみた。「アナント……」
だが、返事はない。
窓の外を見てみる。眩暈がするような夏の光が射している小麦畑は、まだ青かった。
瞼が「バチッ」と音でもするように開いた。
全身から、冷や汗が溢れてくる。毛布一枚に包まったアランは、コンクリートの床に寝そべっていた。
何か、腹の辺りが生ぬるい。見ると、鯖模様の猫が添い寝をしていた。
「男の約束は忘れてないけど」と、猫が喋った。「今日だけは特別だ」
「ア……アナント?」と、アランは呼びかけてくる。
「何?」と、アナントも聞き返してくる。
「何でもない」と、アランは目を瞬きながら、床の上に身を起こした。
アナントも、アランの腹を温める役目を終えて、大欠伸をして猫のポーズを取る。
それから、こう述べた。
「全部が良い夢だった夢は、心地好かった?」
アランはシャツの胸を握りつぶしながら、「いや……」と、だけ呟いた。




