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アイラの実りが揺れる声  作者: 夜霧ランプ
第七章~おはようを告げよう~
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第十話「猫としての彼」

 彼の名は、アナント・ハーディ。猫である。背中の方に、薄灰に黒っぽい縞の入る毛皮を持って居る。腹毛は白く、所々に茶色い模様がある。尻尾は長い。

 体つきは大きい方ではない。彼は喧嘩を好み「俺の島」を愛する雄猫の類ではないので、中性的な社交性で生きて行ける。

 まだ一歳にならない頃、お尻についていた丸い物を早々に手術されてしまってから、彼は「世界を何時か我が物に」と言う情熱を失った。

 雌猫が窓の外で恋鳴きをしていても、「今年のラブソングは、低音域が主流みたいだね」と、飼い主であるハーディ家の執筆家に話しかけたりする。


 アナントを保護し、餌を与え、お尻の丸い物を除去する手術を体験させた、ハーディ家の執筆家は、名をアランと言う。

 その人物は、何処かの大学で、三十代の間を「教授」として生きていた。

 四十代を迎えて、何を思ったのか、「児童文学者に成りたい」と夢を見るようになり、その夢に憑りつかれるように、教授職を辞めてしまった。

 安定した職を自ら手放し、時に貯金を切り崩し、時に短時間労働者として働きながら、執筆に念を込めるようになった、変人である。

 教授職をしながらの方が、安心して執筆活動が出来ただろうに、彼は「文筆とは違う事を考えなきゃならないのが苦痛だったんだよ」と言う些末な理由で、十年以上のキャリアを棒に振った。

 そう言う「入念に準備してから文筆活動をしたい」と言う、青い夢を見る奴は、世の中に沢山いるらしいが、アランはそれが上手く行ってしまったパターンだった。

 話のネタと、時の運に恵まれた彼は、現在ではちゃんと児童文学者として働いている。

 文学者様になったわけではなく、文学者と言う職を得て、日夜執筆と言う労働をしている。

 おまけに、その文筆家は、アナントとの出会いをきっかけに、世界の「おかしな事情」を知る事になった。

 今では、エリス・ヴィノと名乗る青年から無茶ぶられて、何だか良いように扱われている。

 アナントが推定五歳――人間で言うなら、三十六歳くらい――に成った或る日も、ヴィノ氏は「頼んでいた調査はどうなっているか」を聞きに来ていた。


 アナントは、自分の体がより一層の万能感を得ている事を、感じ取っていた。

 棚から棚へと跳躍する時の四肢の筋肉が、もっと高く跳ぼう、もっとしなやかに舞おうと、己の躍動に一喜一憂している。

「いやー」と、アナントは、散々棚の凸凹を駆け巡ってから、呟いた。「体を鍛えるって気持ち良いね」

「うん」と、アランは生返事を返す。何故、猫の呟きに返事をしているのか。それは、この御仁が、猫の言葉が少なからず分かるのだ。

 猫と言う種族は、あんまり言語で話さない。鳴き声でやり取りをする事もあるが、ボディランゲージも多用する。

 アナントが自然に行なっている「鳴き声でのサイン」と「ボディランゲージ」を、丸っと含めて、アランはテレパシーの様に、アナントが何を言ってるのか分かるのだ。

 猫好きにとっては「望んでやまない能力」かも知れないが、アランはアナントと会話できることにより、猫と言う生物が「愚かで愛らしいもの達」ではない事も知っている。


 此処最近のヴィノ氏は、少ならからずの友情を示して来た「友人」である、アランの家を度々訪れて、記録用のノートブックを読んで、難しい顔をして帰って行く。

 アランの持つ「不思議な能力」によって、とある少女の旅路を追い、彼女が今何処に居るかが分かったら保護しようと言う、作戦を練っているようなのだ。

 しかし、特に修行や練習をしたわけではない、アランの「不思議な能力」は、まるで世界中を飛び回るように探っており、あっちに行ったりこっちに行ったり、忙しない。

「狙った場所だけ局地的に観察する」と言うのが、中々に難しいのだ。

 ヴィノ氏達にとっては、「行方不明の少女を保護する」と言うのが一番の任務だとしても、世界事情から考えたら、もっと優先すべき情報と言うのはあるもので。

 どうやら、アランの頭脳は、その「優先すべき情報」をランダムに拾い上げているようなのだ。


 アナントは、その事情をよく心得ていた。

 自分が「猫族」として任せられている、この世界での仕事の一端を、餌をくれるしもべである、アランと共有しているからだ。

 このアイラと言う星の猫族は、自分が共同生活を共有するようになる人間のしもべに、霊感めいた力を与える事になってしまう。

 それは「人間に依存して生きる上」では、どうしても避けられない事態なので、猫達は人間のしもべを「宿り手」と呼んで、敬うようにはしている。

「宿り手」によっては、自分と猫だけの秘密を、他の物に喋ってしまったり、猫と共有する「夢」に憑りつかれて、眠ったきり起きなくなってしまう者も居る。

 そう言う不用心な「宿り手」もいる中で、アランは、実に上手い事やって退けているのだ。

 その上、アランは、アナントにとっては不気味に感じる能力まで手に入れかけている。

 普通の猫で言ったら、その膝で甘えたいしもべが、傍らに何時も掃除機を備えているようになってしまった……と言った種類の、絶望を感じさせる能力だ。

 一度でも、掃除機の吸い取り口を向けられたことのある猫なら、その恐怖が分かるだろう。柔らかい猫の毛皮は、吸い取り口に容易に吸い込まれる。その時の衝撃は、「捕食される側」の恐怖を思わせるのだ。

 聞くによれば、掃除機に吸われて、「食われる!」と思った瞬間、失禁してしまった猫もいるらしい。

 それだけ怖いものが、自分の面倒を看てくれる「宿り手」の近くに、常に存在しているのだ。

 現在のアナントは、アランと一緒に眠らなくなった。食事も、アランが猫用の皿にドライフードを入れて離れてから、ようやく食べに行く。

 アナントが一番リラックスできるのは、アランが執筆に専念している時だ。その時だけは、怖い怖い「掃除機」の気配が遠退くからである。

 その「掃除機」は、アランの夢の中で「影」と呼ばれている存在で、大分前に、アナントは夢の中でその「影」に食われかけた。

 その経験から、アナントは「影」を心底恐れている。

 アランが「影」に魅入られ始めていると聞いた時は、思わずバックジャンプをして、全身の毛を逆立てたくらいだ。

 恐れていた事態は着々と進んでしまい、今やアランの周りには、常に霞のような「影」が纏わりついている。

 アランはその霞を「ミラ」と呼んでいた。夢の中では、「ミラ」は、十歳くらいの少女の姿で現れた。

 彼女は自分を「影の番人」と呼んでおり、「影」そのものとは違うと言う立場を貫いている。

 その点は、アナントも「少しの安心」を得て居たのだが、どっちにしろ、「影」と共存するようになった自分の宿り手は、薄気味悪いものに思われて仕方なかった。


 そんな訳なので、アナントはアランと、「僕と君は、男の友情を保とう」と言う約束を交わした。

「撫でさすらせたり、膝に乗って眠ったりしない。僕の食事と排泄の世話を守って、時々寝床と『自宅』から綿埃を追い出すくらいの掃除をしてくれれば良い。

 夢の中で『影』や『ミラ』『ノワ』と会っていても、特に怒る気はない。むしろ、『影』が僕を食べないように、ちゃんと躾けてほしい。

 それだけ出来れば、僕は執筆中の君になら、大いに話しかけようじゃないか」と言う約束である。

 アランはそれを聞いた日に、ちょっとだけ肩を落としてから、「うん。分かった」と答えた。

 そして現在、その約束を実行中なのである。

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