8話
その日の夜は葵とふたりでごはんを食べてゆっくり過ごした。慣れない環境はやはり疲れるらしく、食事の後は燃料が切れた機械のように身体が動かなくなった。葵にされるがままお風呂に入れられ、記憶がないうちにベッドで横になっていた。髪もドライヤーで乾かしてくれたようだ。
意識が一瞬浮上しても眠たくてすぐに意識が落ちる。そのなかでうつらうつら考えていた。そういえば、今日は変なハプニングは起こらなかった。たまたまなのか、それとも葵のお守りがきいたのかはわからないが、お店に迷惑をかけずにすんだことに胸をなでおろした。
ぎしりとマットが沈む感覚で、夢うつつにも葵がとなりに来たことを感じる。彼ももう休むのだろう。もしかして触れてくるだろうかと思ったが、葵はなにもしてこなかった。ただふたり寄り添って眠る。その時に感じた満ち足りた気持ちはここちよくて、ああ、しあわせってこれなのかな、と考えながら、すすきは深い眠りに落ちていった。
◇
次の日もパン屋の仕事だ。おいしい朝ごはんをできるだけ食べてから、葵の事務所の掃除をする。お世話になっているのでこれくらいはさせてくれと頼んだからだ。葵はなかなかうんと言わなかったが、最終的には折れてくれた。
時間が迫ってきたので、パン屋に向かうべく扉に手をかける。
「葵さん、いってきます」
「いってらっしゃい」
挨拶をする相手がいることが気恥ずかしいけど、嬉しくもある。
「あれ、お別れのキスはいらない?」
「なくて大丈夫です」
「まあまあ遠慮しないで」
葵はすすきのそばまで行くと、おでこに軽く口づけをした。
「がんばってね」
「……はい」
胸がどきどきする。笑顔で見送られ、階段をおりていくすすきの顔は赤かった。意味もなく駆け足で店に向かい、通り過ぎる景色は流れるまま目に入らない。ちょっとずつ、葵の存在が大きくなってきているようで落ち着かなかった。
パン屋に顔を出すと、理加子はすでにきびきびと働いていた。商品棚は焼き立てのパンが並び、いい匂いが店中に広がっている。
今日は店の表に『食パンの日』と張り出してある。今日はそれを目当てに買い物する客が多そうだ。改めて見るとずっしりとした四角い食パンは迫力がある。すでにスライスしてある状態でしか買ったことがなかったので、すすきはほーっと見惚れてしまった。
「最近はありがたいことに、高級な食パンがちょっとしたブームなのよ。専門店があちこち出るくらいね。うちも普段の生地とは材料を変えて、特別な仕上がりにしているの」
「すごいです」
「少し値段は高いけど、そのぶんとってもおいしいわ」
そう言って笑う理加子はすごく魅力的だった。エネルギーが全身に満ちていて、はつらつとしたオーラをまとっている。太陽がよく似合う人だなと思った。
開店すると客がぽつぽつと現れて商品を買っていく。すすきは接客をし、値段を間違えないように必死にレジをうつ。
「まずはそのまま召し上がってみてください。できれば手で割って、ちぎって。ふんわりした生地と甘味が感じられてすごく美味しいですよ」
理加子が客に食パンの説明をしていた。
その表情はきらきらしていて、女のすすきでも魅入ってしまいそうだった。
◇
午後三時ごろ、昼のピークも過ぎて商品棚には少しずつ隙間ができていた。
「あらタツくんじゃない。いらっしゃい」
「……っす」
見ると、オールバックの髪に険しい表情、黒いスーツ姿の男性がいた。その風貌には見覚えがある。以前、事務所の前にいた葵のクライアントだ。
神谷はトレーとトングを持つと、次から次へとパンを乗せていく。その光景は一種異様さをはらんでいた。見た目インテリヤクザの男が山盛りのパンを買おうとしている。
「相変わらず怖い顔しちゃって。その眉間のしわとってニコっと笑えば女の子にもてると思うんだけどな。すすきちゃんもそう思わない?」
返事をしたつもりだが、なんと答えたか自分でも分からない。それほど圧倒されていた。神谷は最後に食パンを二斤とると、レジへ持ってくる。
「……きみ、葛葉と一緒にいた子だな。ここで働いているのか」
「は、はい。ピンチヒッターですが」
「そうか」
袋は大きいものが四つ、会計は五千円を超えていた。神谷は長財布から一万円札をぴらりと出したので、おつりを間違えないように念入りに確認する。
「ありがとうございました」
両手に買いもの袋をもった神谷はすぐさま踵をかえすが、入り口付近にいた里加子に近寄ると、少しだけ言葉を交わして店を出る。
理加子も神谷を知っているようだったが、どういう知り合いなのだろう。すすきはぼんやりと考えていたのだが、突如目に入った光景に衝撃を受けた。
店の外にはスーツ姿の男がいた。短く刈り込んだ髪に柔道家のように太い体つき、荒くれたゴリラのような顔。しかも頬に走る一本の傷跡が物騒な雰囲気に拍車をかけていた。神谷がインテリヤクザなら、あの男は武闘派ヤクザだ。その男は店から出てきた神谷の荷物を預かると、その後ろをついていった。
「タツくんね、この店を開けたときからよく買いに来てくれるのよ。しかも今みたいにたくさん。昔からよく知ってる子なんだけど、義理堅いわよね」
「タツって、神谷さんのお名前ですか?」
「そうよ。神谷辰巳で、タツくん」
そう言った里加子は懐かしそうに神谷が去っていた方向を見る。理加子とすすきの持つイメージはだいぶかけ離れているようだ。
「すいません、予約していた間宮ですけど」
大学生くらいの男性に声をかけられて、慌ててすすきは仕事をした。神谷のことばかり気にしてもいられない。
帰り際になると葵が迎えにきた。にこやかに手をふって、店の外で待っている。驚くすすきの後ろから理加子が冷やかした。
「葛葉くんったらデレデレじゃない。よっぽどすすきちゃんがかわいいのね」
そういうと理加子は持ち場へと戻って行ってしまった。すすきは勤務時間が終わったのでエプロンをはずしてバックヤードから荷物をとり、待っている葵のもとへ向かう。
だがそこで信じられないものが目に飛び込んできた。
店の外にいる葵に、誰かが抱き着いているのだ。思わず息をのみ、その場で固まってしまう。相手は黒髪を背にたらした若い女性だった。葵の腰に腕をまわして体をぎゅっと密着させている。
すすきはその場から動くことができなかった。




