9話
葵に抱き着いた女性は、若くてかわいらしい顔をしていた。それをパン屋のガラス戸越しに呆然と見つめる。その人は艶やかな黒髪で、みるからに品の良い服を身に着けていた。バッグにさりげなく刻印してあるブランドロゴはうといすすきでも知っているものだ。
すすきは自分を見下ろした。着ている服は安っぽい。化粧も必要最低限で、靴だってきれいにしているものの、くたびれたスニーカーだ。いい服を着ていることが魅力的な人間とイコールになるわけではないが、それでも背景に感じる育ちのよさや経済力の強さは魅力にうつることがあるだろう。すすきの心が委縮する。まるで月とすっぽんだ。葵と似合うのはこういう人なんじゃないかと、つい思ってしまう。
足元がふわふわとしておぼつかないが、どうにか店の外に出た。いつまでも店の中にいたら迷惑になってしまう。扉をあけるとぬるい空気が全身にはりついてきて、足取りがさらに重くなった。
「葛葉さん、わたし、怖くて……」
女性はがっしりと抱き着いたまま離れず、怯えた表情で葵に訴えていた。どうやらお互い知り合いのようだ。葵は相手をつっぱねるわけこともできず、申し訳なさそうな視線をすすきに送った。
すすきは胸が痛んだ。どうしてだろう。自分は何に傷ついているんだろう。
「あの、買いたいものがあるので、このまま出かけてきますね」
極力笑顔で葵に声をかける。せめて自分の気持ちが落ち着くまで離れていようと思った。焦ったように葵が弁明をはじめる。
「この子、依頼先のお嬢さんなんだ。少し気が動転してるみたいだから事務所で話を聞こうと思うんだけど」
名前は鹿見香奈というらしい。
「すすきちゃんが心配することは何もないからね」
「はい」
すすきはそのまま葵の横を通り抜け、駅の方へと向かった。すれ違う瞬間に香る花の匂いは香奈の香水だろう。泣きそうな気持ちになった。少しでもここから離れたい。利用客にまぎれて駅の構内まで歩き、適当なベンチに腰をかけた。みなが目的をもってせかせかと歩く姿をみながら、すすきはそっとため息をつく。なぜこんなにショックを受けているかも不思議だった。
「……他に帰る家はないもんな」
ぽつりとなげく。家と呼べるところはあのビルの三階、葵の部屋だろうが、まだすすきには家という感覚は薄い。居心地はいいのだけど、どうしたって遠慮は抜けない。
突然、上から声がふってきた。
「あれ。お姉さん、さっきパン屋さんにいた人ですよね?」
顔をあげると大学生くらいの男の子がこちらをのぞいている。見たことある顔だ、と思ってすすきはすぐに理解した。さきほど理加子の店にきた買いもの客だ。たしか、予約でやってきた──
「間宮さん?」
「美人なお姉さんに名前覚えてもらえるなんて。ラッキーだなあ。あ、となり座っていいですか」
にこっと笑う姿は少し幼くて、親近感がわいた。葵とは住む世界が違う気がするが、目の前の男はまとう空気が似ている気がする。といってもすすきは異性に対して軽口は言わないし、ベンチのとなりに座ったりもしないのだけど。コミュ力が高い人はこんなふうに気軽に声をかけたり仲良くなるんだろうか、なんて明後日の方向に考えをめぐらせる。葵もなかなかだし、この子もそうだ。
「俺、あそこのパン好きなんですよ。おいしいですよね」
「ありがとうございます」
「お姉さんはいつから働いてるんですか? 前にいった時は見かけなかったと思うんですけど」
「つい最近ですよ」
こんな自分と会話しても楽しくないだろうに。ぽつぽつ言葉を交わしていると目の前を人がどんどん通り過ぎていく。葵はまだあの女の人と一緒だろうか。ふとよぎる考えはすすきの胃の辺りを重くした。
「んじゃまたね、お姉さん。かわいい画像送ってあげる」
気付けば連絡先を交換していた。おいしそうなスイーツやかわいい動物の写真を見せてもらううちに警戒心がゆるんだのだ。相手の巧妙な話術に感心するばかりだが、きっと友だちの芽衣がいたら「このばか!」とこっぴどく叱られていただろう。でも困ったメッセージがきたら無視すればいいのだし、とすすきが考えていると、持っていたスマホがぶるぶると震えだした。
葵からの電話だった。
どうしようかと悩んだすえ、通話ボタンを押す。
『すすきちゃん、今どこ』
焦ったような声。もう香奈の件は大丈夫なのだろうか。
「ちゃんと夜には帰ってきますから、もう少しお買いものさせてください」
さも買いもの中であるかのようにウソをつき、ひとりになる時間をねだる。気持ちの整理がつくまで帰りたくなかった。怒っているわけじゃなくて、情けない気持ちなのだ。葵はしばらくうめくと、ものすごくイヤそうな声で了承した。
『なにかあったらすぐ連絡して、すぐ迎えにくるから。心配だから遠い所には行かないでね。知らない男に声かけられても絶対に無視して』
まだなにか言っていたが、気付かないふりをして通話を切った。あとでしっかり謝ろうと決めて、ベンチから立ち上がる。買いものが必要なのも本当だ。すすきは心を決めて、駅の構内を進んでいった。
◇
「ごめん。本当にごめん」
帰ってきたところを即座に捕獲され、すすきは問答無用で三階の葵の部屋に連れて行かれた。鹿見とは本当になんでもないんだと懇々と説明され、床に額をつける勢いで謝罪をしてくる。食事や風呂もされるがまま世話をやかれてしまった。
すすきも無遠慮に出かけてしまったことを謝ろうと思ったのにタイミングが掴めない。仕方がないので文句を言わずに葵のやることを受け入れることにした。どうしてか、葵には世話をするが楽しそうに見えるのだ。それはペットに対するものと一緒かもしれないし、違うのかもしれない。
ふいに深い口づけを落とされる。苦しくて呼吸もままならない。必死に得た酸素でさえ根こそぎ奪っていくようなキスに、すすきはすがることしかできない。
与えられる快楽はすすきの思考をどろどろに溶かしていった。
「俺のお嫁さんに、なってくれるよね」
夢うつつでなんと返事をしたのかわからない。
しっかりとつながれた手の感触だけがリアルに感じられた。




