7話
お試し結婚生活二日目の朝。自分の住んでいたアパートが火事になった夢をみたのだが、残念ながらそれは現実であった。すすきは目覚めてすぐ辺りを見回したが、葵の姿はどこにもなかった。気配も感じられない。
ひとまず身支度を整えようと起き上がると、ダイニングテーブルに何か置いてあることに気づく。それはワンプレートにまとめられた朝ごはんと置き手紙だった。
『すすきちゃんへ。朝ごはんを食べたらあとで二階の事務所に降りてきてほしいです』
盛られているのはひと口サイズのサンドイッチだった。ハムやチーズもあれば苺ジャムが挟んであるのもある。ありがたく頂いてから、すすきは葵の待つ事務所へと顔をだした。
ビルの二階にある事務所は入ってすぐに応接用のソファとローテーブルがあって、パーテーションの奥に葵のデスクがある。大きな観葉植物もあって、いかにもオフィスといった雰囲気だ。そして今どきの人にしては珍しいというと偏見かもしれないが、大きな神棚も備え付けられていた。榊は瑞々しく、マメに取り替えてあるようである。
扉に手をかけると鈴がからんからんと鳴り、すぐに葵が顔をだした。今日はパリッとしたスーツを着ていて、いかにもビジネスマンの装いだ。カジュアルな服のイメージがあったのでこれには面くらってしまった。
「おはよ」
「おはようございます」
かつかつと革靴をならしてすすきに近寄ると、その頬を両手を包んだ。親指でするりと肌をなでられる。
「ゆっくり休めた?」
「はい」
ただ思い出すと恥ずかしくて、正面から葵の顔を見れない。すると葵はすすきの頭をぎゅーっと抱いた。
「ああもう俺の奥さんかわいい。やだ。離したくない」
まだ奥さんじゃないです、と言うのは野暮だろうか。しばらくすると腕の力がゆるみ、葵は大きなため息をついた。
「現場行きたくない。すすきちゃんとデートしたい」
「お仕事ですか?」
「そう。危ないからすすきちゃんは連れていけないの」
葵の仕事はいったいなんなのか。事務所を構えてはいるが、他の人間は見かけたことはないので葵がひとりでやっているのだろう。じゃあ業務内容は? 税理士や弁護士とは違う気がする。しいていえば探偵が一番しっくりきた。
「昨日いらしてた神谷さんの依頼ですか?」
「まあね。守秘義務があるから詳しくは言えないんだけど」
あの恐ろしい男が持ってくる依頼とはなんだろう。いろいろ想像してみたがどうしてもヤクザのイメージが抜けず、抗争相手の弱みをさぐってこいみたいなものしか浮かばない。それか誰それを始末してこい系の暗殺依頼。どちらもまっとうな仕事ではない。
「……葵さんはどういうお仕事をしているんですか」
勇気をふりしぼって聞いてみた。葵は困ったように笑う。
「んー、どっちかっていったらアングラだね。じきに話したいと思ってるけど」
アングラと言われても即座にピンとこない。しかし、言葉を噛み砕くとアンダーグラウンドのことかと合点がいく。あまり大きな声では言えない職業のようだ。じきに話したいということは、今は詳しく教えてくれないのだろう。すすき自身は葵に心を開きつつあるが、まだ正体がわからずに怖い部分はある。もし、葵が裏稼業と呼ばれる職種の人だったら。その懸念をいつまでも振り払えない。
葵はぱっと笑顔を浮かべて別の話題をふった。
「あ、そうだ、渡したいものがあるんだった」
葵がポケットから取り出したのは、神社のお守りのような平たくて小さな袋だった。しかし表面はつるっとしていて、よく見る家内安全や商売繁盛みたいな刺繍はない。
「これは……」
受けとってまじまじと観察する。巾着にしては小さいが、中になにか入っている。
「お守りだよ。すすきちゃんを守ってくれるから肌身離さず持って。首から下げてお風呂入る時もしてほしいくらい。でもそれはさすがにイヤだろうから、できるだけでいい。バッグとかポケットとか、できるだけ身体に近いところにね」
袋の口を縛っているヒモは長かった。細いが作りはしっかりしていて、葵の言うように首から下げても大丈夫そうだ。
「ありがとうございます」
「中身を出しちゃダメだよ」
「わかりました」
束ねてあるヒモを解くと、首からかけて巾着部分をを服の下にいれる。こうしておけば外からは見えないし、葵がいうように肌身離さずという状態に近いだろう。
「うそ、ネックレスでもないのに首からかけてくれた。なんかすごい感動してる俺」
葵は口を押えて喜びをかみしめている。ただすすきが頓着していないだけだろうが、素直にいうことを聞く彼女の純粋さが新鮮なのだろう。
「ごめんね、こんな不格好なのしか用意できなくて。今度おそろいのアクセ買いにいこうね」
「あまりそういうのはしないから大丈夫ですよ」
「いや。買うの」
あまり色々してもらっても困ってしまう、というのがすすきの本音だ。でも葵にはそれ以上断りの文句は言えなかった。
「そうそう、大事な用件が残ってた。すすきちゃんに紹介したい仕事があるんだ」
どうしてか水商売の単語が一瞬あたまを過ぎった。
◇
連れていかれたのはビルから三軒となりのパン屋さんだった。リヴァーベーカリーと看板がかかっている。
「店長の大川理加子です。よろしくね」
「秋乃井すすきです。よろしくお願いします」
聞くとバイトの子が体調を崩してしばらく復帰できそうにないらしく、ピンチヒッターが必要なのだそうだ。葵はぼちぼちすすきに事務所の手伝いを頼む予定だったのだが、顔見知りの理加子が困って電話してきた。すすきも働きたがっていたので話をしてみたところ、「やります」と興奮気味に即決された。
引き合わせが終わると、葵は仕事があるからと申し訳なさそうに去って行った。
「急な話でごめんなさいね、助かるわ」
理加子は三十六歳で、五年前にこの店を始めたという。世間話をしながら仕事内容を教えてもらうが、すすきは理加子の人柄に好感を持っていた。伝えたいことは丁寧に、でもはっきりと口にして、堂々とした雰囲気は安心感を与えてくれる。どこかに勤めていたとしてもばりばり仕事をこなしていそうで、すすきとは正反対だと思った。
「うちのレジは基本的に手打ちなの。だからまずパンの値段を覚えることからね」
渡された店員用のエプロンをつけて店の中を見渡す。いろんな種類のパンはどれもおいしそうだ。覚えるのは大変そうだが、今はわくわくした気持ちが買っていた。
「がんばります」
「不安なことはなんでも聞いてね」
「はい」
それからあっという間に時間は過ぎて、気づけばもう午後の三時。悪戦苦闘しながらも、なんとか初日の仕事を終えたすすきであった。




