6話
太陽がだいぶ傾いてから事務所へ戻ってくると、階段の入り口に一人の男性が立っていた。シックな黒のスーツ姿に神経質そうな痩せ型。たばこをくわえた姿が妙に様になっている。うしろに流した髪は黒く、葵を見つけると鋭い目つきを不愉快そうに細めた。普通のサラリーマンではないと思う。玄関先にこんな営業マンが現れたらすすきは怖くて泣いてしまうだろう。
「よお、遅いじゃねえか」
「これはこれは、神谷さんじゃないですか」
神谷と呼ばれた男は三十代の半ばだろうか。風貌と同じくらい声も冷ややかだが、態度はいささか横柄なようだ。対する葵は笑顔を浮かべているが、営業用であるのがすすきにもわかった。
「すすきちゃん、ちょっと怖いお客さんが来たから潤のところで待っててくれない? あとで迎えにいくよ」
「おい、聞こえてんだよ」
文句をいう神谷は声を荒げたわけではないのに迫力があった。恫喝したらさぞ恐ろしいだろう。ヤクザの取り立てと言われたほうがしっくりくるぐらいだ。警戒心から神谷を見ていると目があう。相手はにこりともせずにじっとすすきを見つめてくる。やっぱり怖い。
「ちょっと神谷さん、うちのすすきちゃんが怖がるからやめて下さい。——ほら行こう。潤が勝手に出してくるだろうから、ごはんも先に食べてて」
葵に肩を抱かれて喫茶店へとうながされる。ショッピングセンターで買った荷物一式は葵が持って行ってしまって、すすきの持ち物をははショルダーバッグひとつだけだ。突然のことに戸惑いながらも扉をくぐると、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。潤はちょうどお客さんの会計をしていてすすきを見るなり「いらっしゃい」と笑顔を浮かべる。
「もしかして葵にここで待ってるように言われた? さっき神谷さんきてたもんね」
「はい。……いつもすみません」
店内はさほど広くなく、落ち着いた音楽が流れている。ゆったりした空間だ。潤がテーブルを片付けながら言葉を交わす。
「あ、お腹減ってない? ナンとインドカレー作ったんだ」
ここは喫茶店だったはず、と思わずにはいられない。聞くとインドぶらり旅の特集を見ていたら作りたくなったらしい。朝のピクニックセットといい、潤のおちゃめな動機がおもしろい。
案内されてカウンター席のいちばん隅にちょこんと座ると、しばらくして料理がならべられた。小さなサラダ、お皿からはみ出した大きなナン、こぶりなチキンがいくつも入った赤いカレーはバターチキンカレーというらしい。市販のルーから作った普通のカレーしか食べたことないすすきにはとても新鮮にみえた。どれから食べようか迷って、まずはナンに手を伸ばしてみた。ナンはまだ熱く、指先でつまんで引っ張るとふわふわもちもちなのがよく分かった。所どころある焦げ目は香ばしくて、口にいれると小麦のうまみと甘みが広がる。ナンだけでも美味しくてぺろりと食べられそうだ。
「インドの屋台料理は圧巻だよ。衛生面とかそういう常識が覆されるんだけど、人を惹きつける魅力があるんだよね」
潤のインド話を聞きながら、おそるおそるカレーを口に入れてみた。見た目よりも辛くないけれど、いろんなスパイスが舌を刺激した。ころころしたチキンは口の中でほろりと崩れて、トマトの酸味やバターのコクがあと引くうまみになっている。
「からい、けど、おいしいです」
「よかった」
唇はひりひりするが、カレーを食べる手は止まらなかった。合間に食べるサラダやスープにほっとしながらも、気付けばまたカレーを口に運んでいる。刺激的なカレーにはほんのりと甘いナンがよく合っていて、みるみるうちに食べ進めていた。
ふと葵の顔が浮かぶ。葵はまだあの怖い客の相手をしているのだろうか。
◇
「ごめんね、遅くなっちゃった」
食べ終わってから十五分も経つと葵が喫茶店にやってきた。ぼーっとしていたので待つのは苦にならなかったが、それでも葵の顔をみると少し安心してしまう。すすきが夕飯を済ませたと知ると、葵は自分も食べようとぱらりと近くにあったメニューを開いた。
「あ、煮魚たべたいなあ」
喫茶店にそんなメニューがあるはずもなく、葵が思うがまま言っただけだ。しかし二十分後にしっかり煮魚定食が出てくるからさすがというべきか。潤の腕の良さはもちろんのことだが、彼の冷蔵庫の中身が気になってしょうがないすすきであった。
葵が食べ終わるのを待ってから、ビルの三階にある葵の部屋へ一緒に向かった。玄関の扉がぱたんと閉まると緊張してしまう。まだこの部屋に慣れていないし、なにより葵だ。
広いワンルームは壁に大きな書棚があって、ゆったり本が読めるよう近くにはクッションやローテーブルがあった。敷いてあるラグは薄いブラウンで毛足はやわらかい。葵がそのラグの上に座り込むので、すすきもならって隣に座る。まだ自由に闊歩するような気概はない。
「アパートのことは大変だったね」
ミネラルウォーターのペットボトルを差し出しながら葵は言った。
「……はい。まさか、こんなことになるなんて」
住まいも、家財一切もなくしてしまった。折り合いが悪い母を頼るにはかなりの気合が必要だろう。頼れるのは心許ない貯金と、すすきを理解してくれている友人。それから——
「俺がいるから安心してね」
葵は心を見透かすように言った。
しかしその好意を丸々受け取るわけにはいかない。負担だって大きいだろうし、足を引っぱったり、仕事の邪魔をしてしまいそうだ。葵の気持ちはありがたいが、それ以上に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。そもそもどうして自分なのか、いまだにわからない。本当に結婚をするつもりなんだろうか。
「葵さんにこれ以上迷惑をかけるのがしのびないです」
「俺の負担にはなってないから安心して。すすきちゃんを養うくらいの甲斐性はあるよ」
頭をなでる葵の手は優しい。
「……でも、わたしは運が悪いので、一緒にいて葵さんを巻き込んでしまわないか不安です」
最近はヒヤッとすることが多くなった。アパートの火災はその最たるものだ。じゃんけんに負けたりクジでハズレを引くのならなんてことはないが、ものがぶつかったり、変なことに巻き込まれたりは場合によっては命に関わるだろう。その時にもし葵が一緒にたら、彼も被害を被るかもしれない。
「たまに思うんです。不運にのまれて、そのうち死んじゃうんじゃないかって」
あり得ると思う。例えば階段で足を踏み外したり、車が突っ込んで来たり、頭上からなにから落ちてきたり。もしその場に葵が一緒にいたらどうなるだろう。自分の死にざまを見せてしまうか、それとも……
そんなことを考えていると、腕を引っぱられて葵の胸に倒れ込んだ。両腕に包まれ、苦しいくらいだ。
「葵さん?」
正面から強く抱かれているので顔は見えない。
「すすきちゃんの運の悪さって小さい頃から?」
「そう、ですね」
些細なことから規模の大きなものまで。数えていくときりがない。そんなことよりも葵の様子のほうが気になった。声がどこかつらそうだ。なにか声をかけないと、と思って必死に言葉をさがす。こういうときに気の利いた言葉をかけられたらいいのだが、あいにくすすきには難しい。
「……前世でなにか悪いことをしちゃったのかもしれません」
本気でそう思っているわけじゃない。運が悪いなんて誰のせいでもない。ただ、そうだったら説明がつくなと感じただけだ。しかし。
「ちがう。それはちがうよ、俺が——」
葵は強い眼差しをむけ、そこで言葉は途切れた。そして憤りのまますすきをラグの上に押し倒す。ひどく悲しそうな瞳がすすきを床に縫いつける。
なにが違うというのだろう。葵はなにか言いたげだが、それ以上語られることはなかった。どこかかみ合っていない言葉に、すすきも口を閉じる。
葵の眼差しを見ていると胸が痛い。それはすすきの中にあるなにかが泣いて訴えているような感覚だった。せめて葵の激情を受け止めねばと思った。彼の悲しみが癒えることを願いながら。




