4話
朝ごはんはとても贅沢で満ち足りたものだった。こんなに豪勢なものを朝から食べるなんて、と思わずにはいられない。ふわふわのクロワッサンやフルーツは口にしやすくて、気付けばきちんと一人分なくなっていた。葵はそんなすすきを見て満足そうだ。
「ここの三軒となりにパン屋さんがあるんだけど、そこがとってもおいしいんだ。あの潤がいつも買ってるくらいだし」
残っていたチーズとサラミを平らげて、葵はコーヒーに口をつけた。それはドラマのワンシーンのようだった。カッコいい俳優が魅せる日常のひとコマ。そんなもの間近で見てもいいのだろうか。わたしは女優でもスタッフでもないのに。すすきはそう思って両手をきゅっと握りしめた。
「あの、どうしてわたしなんでしょうか。葵さんならいくらでもいい人がいそうなのに。……いくら考えても分からないんです」
面と向かって言うには勇気が足りなくて、下を向いたままそう言った。葵は少し困ったようにほほ笑んで、持っていたコーヒーカップを置く。
「いま正直に言っても信じてもらえないと思う。でも、そうだな。ひとめぼれって言ったらキザだけど、そんな感じ」
葵の手が伸びてすすきの頬をなぞった。それは控えめに、まるでとても大事なものを触るようだった。つられてすすきも顔を上げる。
「すすきちゃんのこと、まだ全然知らない。なにが好きでなにが嫌いか、今までどうして暮してきたとかもわからない。しょうがないよね、だって昨日会ったばっかりだもん」
その目は真っ直ぐにすすきを見つめていた。それは表面だけではなく、すすきの奥深く、あるいはずっとずっと向こう側を見ているようでもある。
「果物はなにが好き? もしかしてコーヒーは苦手? 目の前にきみがいて、コミュニケーションとれるって素敵だよ。いま俺はすごく楽しい」
ほんの少し、寂しそうな顔をした。
「やっと見つけたんだ」
その表情に瞬きするのもためらうほど魅入ってしまう。長いまつ毛の下からのぞく濡れた瞳。光の反射により虹彩がガラスのような透明感を放ち、作り物めいた美しさがあった。その瞳に懐かしさを覚えたのはなぜだろう。
◇
お試し夫婦生活の一日目なのだが、葵の提案によりすすきのアパートに荷物を取りに行くことにした。とてもありがたい話だ。なんなら理由をつけてこのまま葵の元を去ってもいいのではという考えがちらりと過ぎる。
その時すすきのスマホがブーッと震える。着信だ。発信元はアパートの大家さんで、目の前にいる葵に断りを入れて通話ボタンを押す。
「もしもし、秋乃井です。……はい」
大家はだいぶ気が動転しているようだが、どうやらすすきが今どこにいるかを聞いているようだった。思わず葵を見るとばっちり目が合う。
「はい、今は知り合いの家に。……え?」
告げられた言葉に、すすきは頭は真っ白になった。
通話を切ったあと、大慌てで準備をして自宅アパートへ向かった。電車なら乗り継ぎ込みで一時間ほど揺られる必要があったのだが、葵が車を出すと言ってくれたのでありがたく言葉に甘える。
高速も利用してなんとかアパートの近くへ行き着いた。時刻は午後一時過ぎ。車をパーキングに停めて歩いて向かうと、アパートの前には数人の人だかりとパトカー、そして合計三台の消防車があった。火事だ。事前に聞いてはいたが、いざ目の当たりにすると足がすくんでしまいそうだった。
アパートは一部が真っ黒に煤け、水浸しになっている。全焼はしていないが、明らかに寝泊まりできる状況ではない。
「秋乃井さん」
呆然とするすすきによろよろと寄ってきたのは大家の佐藤だった。もう七十近い老婆だが、疲労からかさらに老け込んだようだった。
「よかったわ、いなかったから心配したのよ」
「佐藤さんこそ大丈夫ですか。顔色がすごく悪い」
「ちょっと疲れちゃったけど、大丈夫よ。それよりごめんなさい、アパートが燃えちゃったのよ」
出荷原因の詳細はまだわからないが、火元からして配電盤のケーブルが劣化しての漏電ではないかとのことだった。
警察が佐藤を呼びにきたので、残されたすすきはぽつんとアパートを見上げる。すすきの部屋は二階の左から二番目で、入り口付近は黒く煤けている。こじ開けられたのかドアはなく、窓ガラスも割れていた。中にある家具や家電はどうなっているだろう。契約書をいれたファイルや、通帳や印鑑の入ったポーチ。あまりたくさんは持ってない服や下着。ほんのわずかな化粧品。考えれば考えるほど目の前が暗くなっていく。
「すすきちゃん、家財保険とかは」
「入って、ないです」
いつのまにか横に立っていた葵が気遣わしげに声をかけるが、それどころではない。
「どうしよう……」
今にも泣きそうな声だった。
「俺がいるから大丈夫だよ。ほら、落ち着いて深呼吸してごらん。とりあえず現場検証が落ち着いたら部屋の中を確認させてもらおう」
葵がとても頼もしく見える。言われた通りに深呼吸をすると、少しだが落ち着きが戻ってきた。どうしてこんなに星の巡りが悪いのかと自分を忌々しく思うけれど、自暴自棄にならずにすんだのは彼のおかげだろうか。
「ちょっとすすき! すすきってば!」
甲高い声が聞こえて振り向くと、茶色いボブヘアの女性が目をまんまるにしてすすきに詰め寄ってきた。友人の松野芽衣だった。
「芽衣、どうしたの——」
「どうしたもこうしたもないよ、火事だって聞いたからすっ飛んで来たの! 電話もまったく出ないし、どう、大丈夫なの? 無事!?」
勢いについていけなくてコクコクと首を振るだけになってしまったが、芽衣は大きな瞳をうるうるとさせて大きく息を吐いた。
「よかった。すすき、昔から運が悪かったけど、さすがに最近悪すぎだよ。もし火事に巻き込まれでもしたら……」
「ごめんね心配かけて。来てくれてありがとう。けっこうショックだったけど、芽衣の顔見たら安心しちゃった」
せっかくの休みだというに心配から駆け付けてくれたようだ。たしかに運はないけど、人に恵まれてるなあとすすきはしみじみ思った。こうやって心配してくれる人がいて幸せだ。ちらりと葵に視線をやった。まだまだ他人に近い立ち位置だが、この人もいずれ自分の大事な人になるんだろうか。
「うわすっごいイケメン」
芽衣がすすきにつられて葵を見たらしい。のんきな声に思わず肩の力が抜けていった。




