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2話

 目が覚めたすすきはぼーっとしながら辺りを見回した。見覚えのない部屋、心地のよいソファ、自分にかけられたクリーム色のブランケット。


「……ここ、どこだっけ」


 自分が着ているぶかぶかの服を見て一気に思い出した。散々な目にあって、親切な人に雨宿りさせてもらったのだ。びっしょり濡れた服を洗濯させてもらい着替えも借りて、あまつさえコーヒーまで……時計を見るとすでに19時を回っていて、慌ててソファから飛び起きる。だいぶ眠っていたらしい。


 ちょうどその時ドアが開き、姿を見せたのは葛葉葵だった。両手に皿を持っており、いい匂いがすすきのお腹を刺激した。匂いの主はデミグラスソースだとすぐにわかった。


「あ、起きた? ちょうどよかった、潤に夜ご飯作ってもらったんだ。一緒に食べよう」


 見れば大きな皿にたっぷりの玉子がのったオムライス、しかも光沢をはなつデミグラスソースがこれでもかとかかっている。ソファ近くのテーブルにそれが並べられると、反射的にお腹がきゅっとなる。


 突然、後方から扉が開く音が聞こえた。現れたのはエプロンをした男性で、ステンレス製の大きなお盆を手にしている。


「おや、その子がすすきちゃん?」


 目が合うと、男はさわやかな笑顔を浮かべた。


「俺は下で喫茶店やってる杉崎潤(すぎさきじゅん)だよ。葵とは昔っからの付き合いなんだ」


 潤はそういうとテキパキとした動作で配膳をしていった。ランチョンマットの上にオムライスをきれいに置きなおして、その横にサラダとカップに入ったスープ。それからスプーンやフォークの入ったケースを置いていく。


「食べたいものあったら言ってね。葵のツケにしてなんでも作っちゃうから。それじゃ」


 からっとした笑顔でそう言うと、潤は店へと戻ってしまった。


「潤の料理はおいしいんだよ。ほら、こっちに来て座って」

「あの、葵さん」


 振り向いた葵の柔らかい眼差しに、すすきは胸がうずく。


「なあに、すすきちゃん」


 どうしてそんなに嬉しそうに笑うんだろう。聞きたいことがあったのに、それはひどく場違いな気がしてくる。もじもじしてるうちにお腹の虫が盛大にないて、まずは夕食を食べることになった。葵はずっとにこにこしているし、すすきは恥ずかしさから頬を赤らめて下を向いていた。


 オムライスはとってもおいしかった。中のチキンライスはあっさりめにしてるぶんデミグラスソースとよく合い、口に入れたときの食感はとろとろのふわふわ。合間にたべるサラダのさっぱりした味がたまらない。


「俺あんまりトマトは得意じゃないんだけど、潤が作るサラダのは好きなんだよね。美味しいの仕入れてるのかな」


 そう言ってひとくちでトマトを頬張る姿を目で追う。その人の品性は食事のときに出ると言うけれど、だとしたら葵はスマートで品がいい。どうしてこんな人と食事をしているのか不思議なくらいだ。雑念を振り払うようにぷるぷると顔を横に振って、すすきは残りのオムライスを口へ運んだ。実はこんなに贅沢なオムライスを食べたのははじめてだ。お腹がいっぱいになってきたけど残さないように一生懸命に食べる。その向かいで葵がほほ笑ましく見ているとは気づいていない。


 食べ終えたら二人で食器を片づけ、下のお店まで持っていった。聞くと葵はいつも潤に料理を作ってもらっているらしい。お店にある洋食メニュー以外にも和食や中華、なんでもござれ。感心するしかない。


 お礼を言って皿を返していると、どこからか着信音が聞こえてきた。葵のスマホらしい。


「すすきちゃん、ごめん、事務所で待ってて」


 それだけ言うと葵は通話をしながらどこかへ行ってしまった。潤があきれたように息をつく。


「まったく忙しいやつだな。葵はああ言ってたけど、事務所でひとりは心細いでしょ。店の中で待っててもいいよ」


 すすきは少しだけ考えて、素直に事務所で待つことにした。応接室のソファにちょこんと座って待つが、三十分も待っているといろいろ考え込んでしまう。これからどうしようとか、葵はどうしてあんなに親切にしてくれるんだろうとか。とてもありがたいけれど、好意に甘えっぱなしなのはどうしても落ち着かない。なにかお手伝いでもできればいいんだろうけど。そう思いながら空っぽの事務所でひたすら待っていた。


 しばらくすると、たんたんと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。葵がようやく戻ってきたらしい。扉を開けた彼は肩で息をしながら腕に荷物を抱えている。


「ごめん、お待たせ。これすすきちゃんのだよね」


 そう言ってテーブルの上に置かれたのは、間違いなくすすきの肩さげバッグだった。


「わたしの、です」


 中身を確認するとだいたいのものは無事だった。ただ財布の中にお金がない。スマホのホーム画面を開くと友人からメッセージが来ていて、なんだか泣きそうになってしまう。お金はないけどスマホがあるだけでだいぶ安心感がちがう。改めて見ると、バッグの表面には濡れた土がついており、お金だけとった後にどこか捨てられたのだと予想がついた。


 しかし、どうして捨てられていたバッグを葵が持っているんだろう。警察に届けられたにしても、本人以外が受け取るのは可能なのか。


「ちょっとした伝手で探してもらってたんだよ。見つかってよかった。盗られたものある?」

「お金は無くなってました。でも、それ以外は無事です」


 疑問はいまいち解消されないままだが、荷物が手元に戻ってきたことがなにより嬉しい。


「ありがとうございます。どうやってお礼をしたらいいか」


 深く頭を下げて感謝の意をしめす。それが精いっぱいだった。すると葵はなぜかすすきの頭をよしよしと撫でる。あまりの出来事にばっと両手で頭を押さえて葵を凝視した。それがおかしいのか、目の前の男はくすくすと笑う。


「ねえ、昨日言ったこと覚えてる? すすきちゃん俺のお嫁さんになってくれるって」


 両手を頭にやったまま、目をぱちくりさせた。夢うつつにそんなことを聞いた気がする。けど、実際にそんなことってあるだろうか。お互いに初対面で、どこの誰ともしらない相手に。


「本気なんですか」

「もちろん」


 葵はほほ笑んではいるものの、冗談を言っている雰囲気ではない。すすきはますます混乱してきた。


「あの、でも、結婚だなんて急すぎませんか。わたし、葵さんのこと全然知らないし、葵さんだってわたしのこと──」

「すすきちゃんが運の悪い子だっていうのは知ってる」

「そういうことじゃなくてっ」


 まるで幼い子がだだをこねているようだと自分でも思う。だけど結婚は簡単に決めていいものじゃないのだ。葵の考えがわからない。雨の日たまたま出会っただけなのに。だけど、そのたまたま出会ったの彼は始終親切だった。ずぶ濡れになった自分を助けてくれて、盗られたバッグを持ってきてくれて……それも肩で息をするほどに急いでくれた。すすきの胸中は複雑だ。きっぱりと拒否できないくらいには恩を感じているし、心のどこかで葵に惹かれているところもある。


「ごめん、急でびっくりしてるんだよね」


 小さく笑う彼はまったく悪びれた様子はない。けれど声色は柔かく、すすきを気遣うようだった。


「じゃあ一週間、お試しの結婚生活はどうかな」


 結婚にお試しなんてものがあるのか。わからない。すすきは混乱が止まらない。


「お試しの夫婦をしてみて、すすきちゃんが嫌だったら断っていいよ」


 嫌だったら断っていい。一週間のお試し期間。そういうことなら良いのでは、とすすきは考えはじめてしまった。葵の手の上で踊らされているとは気付いていないのだろう。


「俺の仕事を手伝ってくれたらお給料も出すよ。どう?」


 無職の今、お金の提案は魅力的だった。でも相手は初対面でそんなこと一般常識であり得るのか。お試し期間でお互いを知っていけばいいんだろうか。返事を急かされている気がして、結論を出すべく考えているとだんだん脳が沸騰してきた。ああ、早く答えを出さなきゃ。


そして、ふらふらの頭ですすきは覚悟を決めた。


「は、い。ふつつかものですが、その——」


 その答えを待ちかねたように葵の手が伸びる。すすきの頬を両手で包み、そっと口づけをした。唇の感触は柔かいのに熱くて、しびれるような衝撃が全身に走る。


「これは誓いのキスね」


 視界いっぱいに広がる葵の顔は悔しいほどにカッコよくて、すすきは今更ながら、とんでもないことを了承したのではと後悔した。

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