2. 金庫が歌った夜
喪の二日目の朝、私は旧子ども部屋の壁に、白墨で線を一本足した。白い粉が指に残る。朝の薄い光の中で、壁の空いたところばかりが目につく。
ここへ入る道は、壁の裏の通路だけ。埃をかぶった木馬の横へ、台所から昇降棚がきしみながら上がってくる。煮えた野菜の匂いが、部屋の乾いた空気へ広がる。
棚が止まると、湯気の立つ皿の上で、蕪がばらばらに転がった。朝食というより、台所で何かあったことの報告である。
「リオバ、これ……蕪の料理なの?」
「あの男が昨日、女中部屋を全部探させたんだよ!」
棚の口を覗くと、下の口から顔を出したリオバが、粉だらけの太い腕を振り回している。朝の仕込みの刻限で、台所にはまだ彼女しかいない。振るたびに白い粉が舞い、湯気の向こうへ消えた。
「真珠を盗んだ者を出せ、だってさ。奥様の形見を首に掛けてた女は、そのままでね!」
「蕪に罪はないわ。せめて、お皿の上ではひとまとめにしてあげて」
「これでも、包丁のほうには我慢させたんだよ!」
「それで、この大きさなの? お鍋が受け止めてくれて助かったわね」
下でまた、蕪を叩き切る音が響く。私の肩まで、思わず跳ねた。
「夜はちょうどいい大きさにするよ。あの女には、丸ごと出してやりたいけどさ!」
私は小さな蕪を匙に乗せる。冷えていた指先に、匙の温かさがじんわり広がる。塩気が、空の胃にしみた。
「温かいわ、ありがとう。それで……女中たちは何か取られたの?」
「何も出やしないよ。けど、宝石箱の前にいた子が見てたってさ」
リオバが包丁を置く。声が、棚の奥まで近づいてくる。私は匙を皿へ戻した。
「旦那様が今夜、書斎の金庫を開けるってさ。鍵は奥様の宝石箱から抜いてったよ」
胸の真ん中を、冷たいものがすっと通る。あの印章は、父が亡くなる朝まで握っていた物だ。掌が、その重さを覚えている。
通路の戸が開き、オットマールが白い口髭を撫でながら入ってくる。
「金庫には印章と領地の台帳がございます。旦那様は証文を一枚お持ちでした」
「喪主は百日目まで、印を押せないはずでしょう?」
「おっしゃるとおりでございます。ですが、押された印は紙に残ります」
祖父の代から、あの印は当主の手の中にある。何の証文であれ、当主でない者が乗せてよい印ではない。
「では、紙に乗る前に返してもらうわ。金庫の裏へ行くから、当番表をちょうだい」
執事が机に、夜回りの当番表を広げる。私が去年、自分で引いた線だ。あの頃は、この家に私の居場所がなくなるなど思いもしなかった。
「二つ目の鐘で、従僕二人と女中頭が書斎の廊下へ参ります」
「あの人が動くのは、一つ目の夜回りが去った後ね。鍵が入ったら、裏から火挟みで先を押さえておくわ。二つ目の足音が聞こえるまでは、回させないし歌わないの。せっかく逃げてきても、誰も見ていないのでは惜しいもの」
金庫の裏板は通路へ開き、表から差した鍵の先は内側へ突き出る。祖父が作らせた造りだ。
「奥様、今夜はお休みになりますか?」
「今夜も枕元に立ちますわ。ふふふふ」
「枕元ではなく、金庫でございますが」
「同じことよ。眠れなくなるのは、あの人だもの」
執事は当番表を畳みかけて、ふと手を止めた。こちらを見ても、顔色は変わらない。
「歌は、どちらをお使いに?」
「お祖母様の数え歌よ。家の宝を十まで数えるの。十番目は、盗っ人の指」
歌い出しを口の中でなぞる。祖母に習った家の数え歌は、十まで忘れていない。節を確かめるうち、肩の力が少し抜けた。
◇
右目の下の泣きぼくろを白粉で隠し、布の靴を履く。今夜から、金庫までは一人で行く番になった。
通路の闇は、昨夜より一人ぶん広い。手にした灯の輪の外へは、目を向けないことにした。見なければ、何もいないはず。
「だ、大丈夫、ここは私の家よ。壁の向こうは書斎、足の下は廊下」
裏板のかんぬきを外し、鉄の匂いのする暗がりにしゃがむ。膝へ、床の冷たさがじわりとしみた。
「暗くないわ。目を閉じたら、もっと暗いのだから」
小さな灯の輪に、黒いヴェールを近づけすぎないよう膝でまとめる。布の端が揺れ、私は息を止めた。
書斎の戸が開く。オスヴィンの靴音が、まっすぐ金庫へ近づいてきた。
「印さえ押せば、誰にも口を挟ませずに済む。……どうせ百日後には、俺の物だ」
覗き窓の向こうで、撫でつけた金髪が鍵穴へ傾く。鍵が入り、内側へ突き出た先を、私は火挟みで挟んだ。こすれる音が、すぐ耳もとで響く。
「……固いな。錆びているのか?」
まだ歌わない。鍵は回らず、火挟みを握る腕が震える。廊下の奥に夜回りの足音が聞こえるまで、十を三度数えて待つ。
「なんだこりゃ?! なぜ開かんのだ!?」
足音が来た。私は七つの頃の声を、喉の奥から引っぱり出す。
「一つ、お屋敷。二つ、お庭。三つ、銀のお皿」
昔は、祖母がここで指を折ってくれた。今夜は私が、裏板の縁で折る。祖母の指の温かさまで、歌と一緒に思い出す。
「四つ、馬車の輪。五つ、金の匙。六つ、絹の箱」
幼い声は、鉄の箱の中でふくらんで響いた。自分の声なのに、背中がすくむ。
表で、鍵を持つ手が止まる。七から九は、祖母の節のまま進めた。
「十、盗っ人の指は十本。家の宝を、返しましょ」
椅子が倒れ、書斎の扉が壁に当たる。足音は、開け放たれた戸の向こうへ転がり出た。
私は金庫の横の覗き窓へ移る。扉が開いたままなので、廊下まで見通せる。
合わせたとおりに二つ目の鐘が鳴り、従僕二人と女中頭の灯が角を曲がってくる。その後ろには、白い口髭のオットマールの灯。揺れる光が、開け放たれた書斎の戸を照らした。
四つの灯の前で、オスヴィンが床へ座り込む。
「か、金庫が歌った!」
「金庫は歌いません、旦那様」
「……鼠だ。幽霊などいるものか。鼠が歌ったんだ」
若い従僕が首をかしげる。オットマールは、口髭ひとつ動かさない。声が漏れないよう、私は唇をきつく結んだ。
「鼠は、歌うのですか?」
「この家の鼠は歌うんだ! 聞いた私に尋ねるな!」
「では旦那様、金庫の中を拝見いたしましょう。鼠のお声は、もういたしません」
「い、今すぐは駄目だ! 先に、お前が見てこい!」
従僕の袖をつかむ手が震えている。女中頭が、黙って灯を差し出した。
「旦那様、灯をお貸しいたしましょう。お怪我はございませんか?」
オスヴィンは、両手を床から離せない。女中頭の口の端が、灯の陰で一度だけ動く。その小さな動きを、私は見逃さなかった。
私は裏板へ戻る。印章と領地の台帳を、通路の側へ抜いた。
家紋の印は、掌にちょうど収まる。重さを確かめるだけで、息が少し深くなる。祖母の歌の終わるところへ、家の物が戻ってきた。
挟んだままだった鍵の先を、火挟みで内側へ曲げる。
「八十点。音程を一つ外したわ」
喉がまだ震えている。壁には白墨で小さく、あと九十八日、と書いた。暗い壁の上では、白い文字がやけに小さく見える。
廊下から靴音が戻ってくる。金庫の前まで来ても、オスヴィンの靴先は戸のほうを向いたまま。
「旦那様、ご一緒に確かめましょう。私が灯を持ちます」
「鼠に決まっている。大げさなことをするなよ」
オットマールの灯の下で、オスヴィンが鍵を回そうとする。金属のこすれる音だけが、闇の中へ細く伸びた。
「回らないぞ……誰も触っていないはずだろう?」
私は覗き窓のそばで、印章を布に包む。向こうでは引き抜かれた鍵が、灯の前へ持ち上がる。布を押さえる指を止め、私は鍵を見つめた。
「鍵が……内側から、曲がっている」




