1. 私の葬儀は済みました
礼拝堂の二階、柱の陰の隠し窓から、私は自分の葬儀を見下ろしていた。
香と蝋の匂いが、石の隙間からここまで昇ってくる。祈りの声もすすり泣きも、壁を隔てるとどこか遠い。灯の光が、棺のふちで小さく揺れる。
棺にすがるオスヴィンは肩を揺らしているのに、撫でつけた金髪は少しも乱れない。あの人の泣き方は、ずいぶん行儀がいい。
一歩うしろで、メリッタが赤銅色の巻き髪にハンカチを当てた。
喪服の襟元に光るのは、母の形見の真珠である。見慣れた粒が、よその首でそろって揺れる。
私はコルネーリエ・アイヒホルン、二十三歳。この屋敷の女伯爵で、本日の故人である。
背後で鍵束が鳴り、オットマールの白い口髭が窓の陰へ寄った。私は窓枠を握る指をゆるめる。
「奥様、どうなさいます? 今すぐ下りて行かれますか?」
三日前の晩餐で、二人は家紋入りの銀の杯に毒を落とした。倒れた私を運んだのは、老医師とこの執事である。
旧子ども部屋で息を吹き返すと、屋敷にはもう弔いの鐘が鳴っていた。杯は洗われ、証は無いと、老医師は丸眼鏡を拭くばかり。自分を送る鐘を、寝台の上で聞く羽目になるとは。
うつる病の疑いと告げたのも老医師で、おかげで棺は閉じたまま、ここへ運ばれた。棺の蓋を見下ろしながら、私は息をしている。
「いいえ。――せっかく死んだのだもの。しばらく、死んでいましょう」
オットマールの口髭がかすかに震える。返事は、一拍遅れて戻ってくる。
「……かしこまりました。それから、お帰りなさいませ、奥様」
下では私を送る祈りが続いている。その挨拶だけが、生きている私に届いた。
「ただいま。死人に言う挨拶ではないけれど、嬉しいわ」
「奥様、このまま壁の裏でお暮らしになるのでございますか?」
「証が無いまま戻れば、あの人は夫のままよ。次の杯まで、毎晩見張れる?」
執事は鍵束を握り直す。指の中で、金属が小さくこすれ合う。
「では、私どもがお守りいたします。お食事も、こちらへ」
「温かいものをお願いね。死んでいても、お腹はすくのよ」
下で夫が棺へ顔を伏せ、その横で真珠が揺れた。もう、あの肩の隣へ戻りたいとは思わない。
「棺には砂袋と、奥様が一番お嫌いなドレスを納めました」
「あれでいいの。一緒に埋めてちょうだい」
「……よろしいので?」
「あれを着て夫に褒められたのよ。供養だわ」
口にすると、薄桃色のフリルをつまんでいた指の形だけが、手に残った。指先を開いても、まだそこに布がある気がする。
「……褒められたくて、着ていたの」
声が一度、細くなる。二年のあいだ、嫌いと言えたことは一度も無い。爪の先を掌に押しつけて、次の言葉を待った。
「そのお召し物には、奥様より先にお休みいただきましょう」
「ええ。あの窮屈な袖まで、お墓へお願い。もう二度と着ないわ」
下で、真珠がまた揺れる。あれだけは、あの人たちと一緒に葬れない。
「あれは、お母様の真珠よ。葬儀の日に、もう首に掛けるなんて!」
「今夜は、主寝室をお使いになるおつもりのようでございます」
下から、よく通る泣き声が上がった。石の壁に跳ね返って、いよいよ大きく聞こえる。
「ああ、コルネーリエ……私を置いていくなんて」
大叔母のクレセンツィアが進み出る。高く結い上げた白髪を揺らし、銀の握りの杖で棺を叩いた。
「軽い音だねえ。この子、こんなに軽かったかい?」
「お、大叔母様、棺をお叩きになるのは……」
「聞こえないねえ。もっと大きな声でお言い」
オスヴィンの泣き声がぴたりと止まる。弔問客の顔が、いっせいに杖へ向いた。
「おや、泣くのはもうおやめかい。忙しい婿だねえ」
耳に鷲ペンを挟んだ代言人が、咳払いをして紙を広げる。紙のこすれる音だけが、妙にはっきり響く。
「家の掟により、喪は百日。相続が定まるのは、百日目の喪明けでございます」
「その日までは、私がこの家を守るのだな?」
「喪主として、このお屋敷でお寝起きいただきます。お品も印章も、それまでは伯爵家のものでございます」
なるほど、私の家はまだ私の家。隠し窓も壁の裏の通路も、入り婿には一つも教えていない。あの人の知らない場所に、今の私は立っている。
丸眼鏡の老医師が、顔色の悪いメリッタへ眠り薬の包みを渡した。
「眠れぬ晩には、これをお使いなされ」
メリッタは包みを喪服の袖へしまう。私は窓の奥まで引き、喉の奥へ沈めた声で告げる。
「私の葬儀は済みました。屋敷を出ていくのは、あなたたちです」
石の窓枠が、指に冷たい。私はその冷たさを、掌でしっかり受け止める。
◇
オットマールの掲げる覆い付きの手燭を頼りに、私は主寝室の姿見の裏まで来た。石の壁に、足音まで吸い込まれそうである。
ただしこの幽霊、暗い所がたいへん苦手である。
「オットマール、灯をもう少し高くしてちょうだい。足元だけでは、向こうが暗いわ」
「奥様、向こうにも壁しかございません」
「壁なら、なおさら照らして。角が見えないの。ぶつかる音で気づくのは嫌よ」
「幽霊は、壁にぶつからないものと伺っております」
「伺わなくていいわ!」
ささやき合う灯のそばで、おしろいを取る。右目の下の泣きぼくろを塗りつぶし、黒い喪のヴェールをかぶった。粉の感触が、指先に薄く残る。
幽霊にほくろは要らない。姿見の隠し扉を押すと、吹き込んだ風が灯を消した。
「……今、消えるのは困るのよ。オットマール、ちゃんとそこにいるわね」
「おります。奥様の三歩うしろに」
窓の月明かりの中、鏡台の鏡に黒い女が立っている。思わず、息が止まる。
悲鳴は、喉の手前でどうにか止めた。私である。
寝台ではオスヴィンとメリッタが眠り、床には空の酒瓶と薬の包み。寝息が静かな部屋を満たしている。
母の鏡台から紅を取り、いま出てきた姿見の表へ、息を詰めて腕を伸ばした。
鏡の真ん中に、口紅で一行。『その首飾り、返して』
眠るメリッタの首の留め金に指をかけ、横へ押す。真珠の一連が、掌へ落ちた。
母の膝で何度も外して遊んだ指は、暗がりでも間違えない。あの頃は、母の掌が下で受け止めてくれた。
真珠は掌に重く、まだ人の首のぬくもりがある。粒を包み、その熱が抜けるまで、指を閉じておいた。
扉へ戻ろうとして裾を踏み、鏡台の角に腰をぶつける。
「痛っ……」
腰より先に、喉がひゅっと縮む。
「……酒を、もう一杯……」
オスヴィンの寝言。私の足は、鏡台の横で石になった。息まで止めると、耳の中で自分の鼓動だけが鳴る。
寝息が二つ揃うのを待ち、通路へすべり戻る。
「今のは七十点。裾を踏んだわ」
「お見事でございます。お取り戻しのお品は、こちらへどうぞ」
執事の差し出す布へ、真珠を置いた。母の形見を包むのは、私の手である。布の端を重ねると、指の震えもその中へ収まる。
◇
翌朝、メリッタの首から真珠は消えていた。
私は姿見の枠の覗き窓に目を寄せる。寝台のメリッタが、しきりに襟元を探っていた。
「ない……ないわ! あたしの真珠が!」
朝の茶を運んできた女中二人が入り、続いてオットマールが戸を開ける。盆の上で、茶器が小さく鳴る。
「鏡を見て! 幽霊よ、あの人が書いたのよ!」
メリッタの指が、まっすぐ私のいる姿見を指す。紅の一行は、女中たちにもはっきり見えていた。
「幽霊などいるものか。誰かの悪戯だ」
「悪戯で、眠っている首から真珠が抜けるの!」
「騒ぐな、メリッタ。人が見ているだろう!」
「メリッタ様は、奥様の寝台でお休みでしたか?」
女中二人の目が、空の首から寝台へ移る。盆を持つ手は止まり、茶器の音も途切れる。
「……奥様の、お寝台に?」
「しっ。聞こえてしまうわよ」
「ね、眠れなかっただけなの! この部屋なら落ち着けると思ったのよ!」
「では、お茶は客間棟へお運びいたします。ここは奥様のお部屋でございますので」
オスヴィンが掛布を引き寄せる。女中は盆を持ったまま、メリッタの空の首をもう一度見た。茶の湯気だけが、返事を待たずに昇っていく。
私は覗き窓から離れ、包んだ真珠に掌を重ねる。冷えた粒が、布越しにやっと私の温度になった。
幽霊は毎晩、一つずつ取り返す。
「喪明けまで、あと九十九日」




