第9話「HY」
数日後――。
自室にいた貴聞は、不意に君野からもらったUFOキャッチャーのぬいぐるみを手に取った。
着ていた簡素な服は脱がされ、その身体にはサイズぴったりの白い絹のドレスが着せられている。
貴聞はそれを鼻先へ寄せた。
新品特有の匂いはもう薄れ、自分の枕と同じ香りへ変わり始めている。
もう吉郎は、この家の住人だ。
本人にはまだ伝えられない想いを、人形へ静かに注ぐ。
ぬいぐるみを頬へ押し当て、愛おしそうに撫でた。
「……」
やがて、右手で机の引き出しに触れる。
指先だけで暗証操作を済ませると、小さな解錠音が鳴った。
中には、黒い指輪ケース。
開くと、少し歪んだシルバーリングが収まっていた。
内側には、木の枝で砂浜へ刻んだような文字。
『HY』
「HY……」
静かに指先へ乗せる。
これは、吉郎のリュックから見つけたものだった。
彼氏から贈られたものだろう。
だが、相手の名前にはHもYも入っていない。
「堀田吉郎……」
共有ではなく、所有。
とても歪で、作り手の思いが溢れている。
あの彼氏は、自分の存在を刻み込むために、この指輪を作ったのだ。
召使いだった頃、吉郎が語っていた支離滅裂な恋人との生活。
その違和感が、この指輪を見て少しだけ繋がった気がした。
……どうやって、ここまで吉郎を惹きつけたんだろう。
貴聞はリングをぬいぐるみの腕へ掛けようとした。
しかし、ころりと滑り落ちる。
「あ」
指輪は床を転がり、扉の前で止まった。
僕から逃げても、しょうがないのに。
そのときだった。
コンコンコン。
3度のノック。
入室した等々元は、主人の視線を追い、足元に落ちたリングを拾い上げた。
「ねえ、等々元。それにシルバーのチェーンを付けてくれない?」
「アクセサリーとしてお使いになるご予定でしょうか」
「うん。吉郎の大切なリングだから。できれば早く」
「かしこまりました」
等々元はリングを胸元の白布で丁寧に包み、懐へ収める。
その一連の所作に、無駄はなかった。
「吉郎の今日の様子は?」
「ホームシックと申しましょうか。想い人に会えず、気落ちされているご様子でした」
「そっか」
貴聞は柔らかく微笑む。
「なら、この指輪は喜ぶね」
そして、ぬいぐるみへ視線を落とした。
「あ、それとさ。吉郎はもう召使いじゃないから、この子には蝶ネクタイを毎日替えてあげて。リボンでもいい。人形用に切ってくれれば」
「承知いたしました」
等々元はぬいぐるみを恭しく受け取った。
その頃――。
堀田は、戻ってこない君野の行方を追い続けていた。
大学の課題は放り出した。
見つかるまで、大学へ行くつもりもない。
警察にも届け出たが、有力な情報は何1つ入ってこなかった。
足を使い、SNSを使い、考えられる限りの手段で探し続ける毎日だった。
「くそ……。身代金の要求すらないなんて」
頭を抱えた、そのとき。
ピンポーン。
静まり返ったアパートに、インターホンが鳴った。
玄関を開けると、荷物を抱えた配達員が立っている。
「ご苦労様です」
荷物を受け取ろうとすると、ベテランらしい配達員がふと思い出したように口を開いた。
「最近、あの子見ないですね。君野くん」
「え……あ、はい。その……いなくなってしまって」
「えっ!?いなくなったんですか?痴情のもつれとか?」
なんで、そんなことまで聞くんだ。
一瞬、不快感がよぎる。
だが、この人は俺が嫉妬するほど吉郎と親しかった。
今は少しでも、一緒に心配してくれる人がいるだけでありがたかった。
「あ、いや……それはないと思います。バイト帰りに、突然いなくなってしまって……」
俺の沈んだ表情に、配達員は目を丸くした。
「どの辺で?」
白戸家でのアルバイトや帰宅時間、その日の服装まで、思い出せる限りを伝えた。
配達員は何度も頷き、荷物を渡して帰っていった。
それから数日後。
俺は一直線に白戸家へ向かっていた。
今朝、偶然外へ出たとき、あの配達員が血相を変えて声を掛けてきたのだ。
白戸家には、連日配達が入っているという。
1週間ほど前。
荷物を届けた際、屋敷の奥から犬と遊ぶ青年の笑い声が聞こえた。
そして昨日も、同じ高い笑い声が犬の鳴き声と一緒に聞こえたという。
吉郎がいなくなってから、ずっと。
つまり――。
吉郎は、まだ白戸家にいる。
晴れ渡った空の下。
巨大な鉄門を見上げ、唾を飲み込んだ。
遠くから見ても威圧感のある屋敷。
まるで映画のスパイにでもなった気分だった。
そのとき、1台の黒塗りの高級車が門を抜けて外へ出る。
車を見送るためか、門は開いたままだ。
全身に電流が走った。
――今だ。
ためらわず駆け出す。
だが、門の陰から召使いが1人現れ、車を見送るため外へ出てきた。
目が合う。
一瞬だけ足を止めた。
次の瞬間、自ら足を払って大きく転ぶ。
「うわっ……!」
派手に地面へ倒れ込み、苦しそうに顔をしかめた。
「お怪我ですか!?」
死角にいた召使いたちまで、慌てて駆け寄ってくる。
「す、すみません……急に門が開いて……」
息を切らしながら演技を続ける。
その目だけは、屋敷の奥を必死に探していた。
召使いたちは警戒しながらも、倒れた若者を放ってはおけない。
張り詰めた空気が流れる。
全員の視線が自分へ集まったことを確認した。
――吉郎は必ず、この中にいる。
「あの……水をいただけませんか」
「水を持ってこい!」
1人のメイドが館へ駆け出す。
その瞬間。
俺は立ち上がった。
「……もう大丈夫そうです」
そう言い終わるより早く、門の奥へ全力で駆け出す。
「あっ!!待て!!」
「きゃっ!」
メイドが入った扉を、勢いよく開け放った。
――あそこか…!
悲鳴が響く中、屋敷中へ向かって叫ぶ。
「吉郎!!どこだ!!俺だ!!」
その声に反応するように、屋敷中の召使いたちが次々と姿を現す。
すぐに追いつかれ、数人がかりで床へ押さえつけられた。
「え!?今……堀田くん!?」
その頃。
部屋にいた君野は、開け放たれた窓から恋人の声を聞いた。
召使いたちの怒号に混じって、それでもはっきりと聞こえる。
「来てくれたんだ……!!」
君野は慌てて部屋を飛び出した。
広間へ向かおうと廊下へ出た、そのとき――。
「吉郎」
進む先を、貴聞が静かに塞いでいた。
「貴聞くん!聞いた?さっき堀田くんの声がした!」
「聞こえているよ」
貴聞は穏やかな表情のまま、白い部屋着のワンピース姿の君野へ歩み寄った。
その姿も、もう見慣れてしまった。
「生活は慣れた?」
「う、うーん……。生活は優雅だし、遊ぶのも楽しいけどね」
「何か物足りない?」
「強いて言うなら堀田くんかな。会いに行ってもいい?彼は、その……恋人ごっこじゃないから」
君野は今にも走り出しそうに足踏みをする。
「ちょっと待って」
貴聞は胸元のアクセサリーを外し、そのまま君野の首へ掛けた。
「これは?」
胸元で揺れるチェーンの先には、1つのリング。
「HYだよ」
「HY?」
貴聞はリングの内側を指差した。
「……あっ!これ、僕と堀田くんの指輪だ!ここに来る前、堀田くんがキスしてくれたの。それでね、『僕と堀田くんじゃなくて、堀田吉郎って意味』って笑ってた!」
「大事なものなんでしょ?だから等々元に頼んでチェーンにしてもらったんだ。これなら失くさないでしょ」
君野はリングをそっと握りしめる。
「うん!ありがとう!」
屋敷へ来てから、1番嬉しそうな笑顔だった。
「早くプログラムを終えて、自由になろうね!」
「そうだね」
貴聞も微笑む。
「でも、このプログラムのことは誰にも話さないで。僕との約束、守れる?」
「うん!」
君野は力強く頷いた。
2人は並んで広間へ向かった。
そこでは5人がかりで、堀田が大理石の床へ押さえつけられていた。
「堀田くん!!」
君野の声に、堀田が勢いよく顔を上げる。
「吉郎!!いたのか!ていうか、その格好は何だよ!」
召使いたちが拘束を解く。
堀田は立ち上がるなり、君野の前まで歩み寄った。
「帰るぞ!」
「あ、あのね、堀田くん……」
君野は困ったように視線を泳がせる。
「僕、まだこの屋敷にいることになってるの」
「は……!?」
堀田は絶句した。
「どういうことだよ。なんで帰れない?」
「その……恋人ごっこで」
「恋人ごっこ?」
堀田の眉間に深い皺が寄る。
「何言ってるんだ?」
「でも、ほら!」
君野は胸元のリングを嬉しそうに持ち上げた。
「これ、大事に持ってるから!」
その笑顔を見ても、堀田には状況がまるで理解できない。
恋人ごっこ。
屋敷。
リング。
どれも繋がらない。
ゆっくりと顔を上げる。
2つに分かれた大階段。
その上に、1人の青年が静かに立っていた。
「……あ!!」
それはいつか見た、ポスト漁りの坊ちゃんだった。




