第10話「敗北」
堀田は、わけがわからなかった。
目の前にいるのは、間違いなく愛している君野吉郎だ。
自分が贈った愛の指輪もしっかり首に下げ、それを嬉しそうに見せながら、いつもの無垢な笑顔まで浮かべている。
――なら、なぜまだこの屋敷にいたがる?
堀田は険しい顔のまま何度も首を振った。
「そんなもん見せられて納得できるか!」
君野の手首を掴む。
「帰るぞ。今すぐだ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
細い腕を引いた感触に、焦りばかりが募る。
「こんな所、居続ける理由なんかないだろ!」
「あるよ……!僕、貴聞くんを助けなきゃいけないんだ」
「キブン?誰だ?」
「この屋敷の人で――」
「お前が助ける必要なんかねえよ!お前は俺と帰るんだ!!」
掴む力がさらに強くなる。
それでも君野は動かなかった。
「……堀田くん、痛い」
「……っ」
一瞬だけ力が緩む。
その隙に君野は、そっと手を引いた。
「大丈夫。ちゃんと帰るから……」
その"いつもの笑顔"が、かえって現実味を失わせる。
「ふざけるなよ……」
「え?」
「俺との生活は、金持ちの家でいい思いしたら用済みってか!」
「違う……」
「じゃあ帰りたいんだろ?」
「……」
「言えよ」
その一言に、君野の表情がほんの一瞬だけ揺れた。
「堀田さん、もうよろしいですか」
冷たい声が上から降ってきた。
豪奢な廊下の奥。
大階段を静かに下りてくる1人の青年。
アパートで見かけた時の、細く頼りない印象はもうない。
近づいてくると、威圧感と共に匂いが広がった。
吉郎がバイト帰りにまとっていた、あの鼻につくニオい。
――あのニオイの正体は、こいつだったのか。
堀田は一瞬だけ気圧されたものの、すぐに睨み返した。
黒いスーツに身を包み、背丈はほぼ同じ。
その中でも、モデルのような長い脚だけが目を引く。
理不尽なくらい様になる男だった。
「あいつを監禁してどういうつもりだ?金持ちだったら何してもいいのかよ!」
「堀田さん。吉郎なら任せてください」
「吉郎!?お前、今吉郎って言ったか!」
「また来てくださって構いませんよ。今度は3人で、テラスでお茶でもいかがでしょうか?」
「……は?なめてんのか?」
「なめていません」
貴聞は笑みを崩さない。
「今は吉郎自身が帰らないという判断をしています。ここで声を荒らげても、何も変わりません」
「……」
堀田は言葉を失った。
このままでは、自分だけが駄々をこねている人間にしか見えない。
無理やり監禁され、泣きながら助けを求めている。
そう信じてここまで来た。
だが、現実は違う。
吉郎は、自分の意思でこの暮らしを選んだように見える。
その事実が、胸を深くえぐった。
「次は美味しいケーキと上質な紅茶をご用意しています」
貴聞は穏やかな笑みのまま続ける。
「ふざけんな!!!」
「吉郎も、とても気に入ってくれています。……堀田さんにも、特別にお出ししますよ」
何を言われても同じ土俵には立たない。
そんな鉄壁の余裕だった。
「お帰りになるのでしたら、お車でお送りいたします。今、専属の運転手を呼びます」
「……」
喚き散らしていたのは、俺だけだった。
心にぽっかり穴を空けたまま、気づけば堀田は門の外へ立っていた。
「なんでだ……なんでだ、吉郎……」
胸へ何本もの剣が突き刺さるように痛む。
俺たちの暮らしは、本当は好きじゃなかったのか。
本当は、もっと贅沢な生活がしたかったのか。
白いフリルのワンピースを着た吉郎は、まるで――ここに自分の居場所を見つけたとでも言いたげに見えた。
長年積み重ねてきた思い出も、金と豪奢な暮らしの前では、あっさり塗り替えられてしまうのか。
「……そっか」
力なく笑う。
「そうだよな……」
俺なんて、その程度だったんだ。
呪いのキスを持つ吉郎にとって、あの屋敷なら何不自由なく暮らせる。
なら、本能でそっちを選んだとしても、おかしくはない。
「……ただ、快適な生き方を選んだだけか」
俺が一番恐れていたのは、呪いのキスが吉郎の本音を覆い隠してしまうことだった。
「じゃあ、その本音って…」
素敵な坊っちゃんに見初められ、玉の輿みたいに幸せを掴んだ。
それだけのことなんだ。
堀田は終わりのない自問自答を抱えたまま、とぼとぼと来た道を引き返していった。
「ねえ、貴聞くん。堀田くんにちゃんと伝わったかな……。この指輪があるし、僕の愛は伝わってるよね」
「うん。十分伝わったよ」
貴聞は穏やかに微笑む。
「吉郎が、僕を助けるためにこの屋敷へ残ってくれているってこともね」
「そ、そうだよね。よかった」
君野はほっと笑った。
そして少し照れくさそうに続ける。
「僕、本当はあの家に戻りたかったんだ。でもね、貴聞くんが僕のことを推しとか、ファンだって言ってくれたでしょ?」
「うん」
「だから、年上の僕が守ってあげなきゃって思ったんだ」
貴聞は一瞬だけ目を細める。
「……ごめんね。堀田さんに、戻りたいって言ってもよかったのに」
「ううん」
君野は大きく首を振った。
「放っておけないよ。そろそろ誰かを守れる大人になりたかったんだ」
「ふふ」
貴聞は嬉しそうに笑う。
「使命感いっぱいなんだね。ありがとう、吉郎」
その時だった。
――ぼっちゃま!! 駄目です!!
屋敷の奥から、メイドたちの慌ただしい声が響いた。
どうやら弟の見聞が、また何か騒ぎを起こしたらしい。
高笑いが屋敷中へ響き、小鳥たちが一斉に飛び立つ。
掃除したばかりの廊下を、羽と糞を散らしながら飛び回っていく。
「あーあ……しょうがないな、見聞は」
先ほどまで堀田と対峙していた冷静な御曹司の顔は消え、いつもの穏やかな青年へ戻っていた。
その姿を見て、君野は少し安心した。
貴聞に部屋まで送られた君野は、1人、鳥たちの大騒ぎから逃れるように窓辺へ寄った。
窓枠へ肘をつき、頬を撫でる風を静かに受ける。
堀田くんが会いに来てくれた。
それは、本当に嬉しかった。
でも――あのまま一緒に帰れば、堀田くんまで危ない。
当主様は、僕たちの関係を勘違いしているだけ。
その誤解さえ解ければ、このプログラムもきっと終わる。
「……あれ?」
胸元の指輪へ手を伸ばし、いつものように指へ通そうとした。
しかし、チェーンが複雑に絡みつき、指輪はびくともしない。
溶接されているわけではない。
それでも、この絡まり方では外せそうになかった。
取るなら、ペンチでも使うしかない。
「指輪なのに、指が通せないなんて……」
――良いものを使っているんだ。キラキラしていてきれいでしょ。
昨日の貴聞の声が、不意に脳裏によみがえる。
「……」
今、壊すわけにはいかない。
君野は小さく息をつき、諦めるように指輪を胸元へ戻した。
そして、そのままぎゅっと握りしめる。
窓の外では、白戸家の広い庭を風が吹き抜けていた。
その風は、どこか堀田と暮らしたアパートのベランダを思い出させる。
「もう少しだけ待っててね、堀田くん……」
小さく呟いた声は、誰にも届かないまま風へ溶けていった。




