第11話「スクプク・クラッシュ」
4月の初旬――。
堀田襲来から数日。
貴聞は学校が始まり、弟の見聞とともに高級な送迎車で登校していた。
「あははは!ヴンちゃん!くすぐったいよ!」
その頃、君野は、動物たちに異変がない限り、基本的にやることがなかった。
黒いボルゾイのレイヴンと遊び、アニマルセラピーを兼ねて屋敷の動物たちの世話をするのが日課になっている。
「等々元さん、ヴンちゃんと散歩してもいいですか?公園を回りたくて」
庭の噴水広場で遊んでいた君野は、通りかかった等々元へ声を掛けた。
「はい。かまいませんよ。スマホをご持参いただければ」
「持ってますよ。あの、等々元さん。お願いがあるんですけど……」
君野は白戸家から支給されたスマホを、尻ポケットから取り出した。
「何かお困りごとでございますか?」
「僕……すごく暇で暇で……スマホにゲームを入れてほしいなって」
もじもじと答える君野へ、等々元は穏やかな笑みを向ける。
「差し支えなければ、お好みのジャンル、もしくはゲームタイトルをお聞かせいただけますでしょうか」
「え?いいの?じゃあね……ス、スククプク……スクプ……」
君野は舌をもつれさせた。
等々元は君野を急かすことなく、白手袋をはめた手を静かに差し出す。
「君野様。ご無理なさらずとも結構でございます。よろしければ、こちらの手のひらにてお伝えください」
突然差し出された手に、君野は首を傾げた。
しばらく考えたあと、その手のひらへ自分の右手をそっと重ねる。
等々元は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに穏やかな笑みを取り戻した。
「……おや。これはまさか、“お手”のご所望でしょうか。失礼ながら、私は犬ではございませんので……。ですが、こうして触れていただけるのは光栄の至りでございます」
そう言って、軽く一礼する。
しかし、君野はまだ意味を理解できていなかった。
「等々元さん、僕、あなたの言葉が難しくて、3割くらいしか理解できてないかもです……」
「申し訳ございません。私の言葉が回りくどかったようですね。以後は、より分かりやすくお伝えいたします。では、この手のひらにゲームタイトルをお書きください」
「はい!」
ようやく理解した君野は、等々元の手のひらへ指で文字を書く。
「スクプク・クラッシュ……でございますか?」
「そう! ス、スクププ……スクプクプ……クラッシュ!」
「どうかご無理はなさらず、心穏やかにお過ごしください」
「うん。穏やかにする。これ1つあれば、時間が過ぎるから」
「お散歩がお済みになりましたら、手配させていただきます」
「ありがとう、等々元さん。それで、この服、ヴンちゃんに破かれちゃったから、散歩用の服も選んでくれない?クローゼットにはあるんだけど、その……フォーマットの服装が分からなくて」
「フォーマット……すなわち、フォーマルでございますね。承知いたしました」
AIのように完璧な笑みを浮かべると、等々元はクローゼットを開き、君野に似合う服を選び始めた。
その結果、チェック柄の落ち着いたズボンに白いシャツ、水色のジャケット姿となった君野は、レイヴンとともに近くの公園へ散歩に出掛けた。
この一帯は、どこを見ても裕福さが滲んでいた。
広々とした公園には白い石畳が続き、大きな噴水では、白い女神像が抱えた壺から水を流している。
君野は噴水近くのベンチへ腰掛け、ぼんやりと女神像を見つめる。
この暮らしにも、少しずつ慣れてきてしまった。
僕には、堀田くんという人がいるのに。
快適すぎる生活へ、どこか甘えてしまっている自分がいる。
胸元の指輪が通されたネックレスを握った。
眠る時も。
美味しいご飯を食べる時も。
いつだって、一緒だ。
……でも、あれから堀田くんは来てくれない。
大学もバイトも始まって、忙しいのかな。
きっとそうだ。
次の休みには、きっとまた会いに来てくれる。
一緒にカフェで、美味しいケーキでも食べながら話をしたい。
「……僕は、一生このままなのかな」
何不自由ない暮らしなのに、その考えだけが胸を冷たくする。
羽があるのに、それを忘れて飛ばなくなった鳥。
そんな言葉が、不意に頭へ浮かんだ。
ピピピ、ピピ。
ポケットのスマホが鳴る。
君野は取り出し、耳へ当てた。
「等々元さん?分かりました。今すぐ戻ります」
心配性なのか、等々元さんは10分おきに現在地を確認してくる。
その連絡を受けるたび、自然と「あの屋敷へ帰らなければ」という意識が芽生えてしまう。
君野はそんな強迫観念を抱えながら、レイヴンとともに屋敷へ戻った。
「君野様。ぜひ、こちらを」
玄関で出迎えた等々元は、スマホを受け取る代わりに、1冊のクリアファイルを差し出した。
「え?これ!」
中には、利用できるゲームや音楽、動画、SNSなどの一覧が、丁寧な解説付きでまとめられていた。
説明文まで、等々元らしい柔らかな執事口調で統一されている。
「こんなの、用意してるんですか?」
「いいえ、ご主人様。先ほど、私がお作りいたしました」
「作ったの!?僕のために?すごーい!ありがとう!!」
君野は夢中になってファイルを眺める。
その隙に、等々元は後ろ手でスマホを操作し、すぐに返した。
「アプリの導入も完了しております。どうぞお楽しみくださいませ」
「え!?もうスクプクスプ――」
「スクプク・クラッシュでございます」
その日の夜。
「ねえ、吉郎。ちょっとこっちに来て」
召使いたちが一斉に掃除を始める中、ベッドでゲームをしていた君野のもとへ、貴聞がやってきた。
相変わらず漆黒のスーツ姿で、扉の前から嬉しそうに手招きしている。
君野は白い部屋着のワンピース姿のまま立ち上がり、ふかふかのスリッパを履いて近づいた。
「どうしたの?」
「最近、ずっと顔が冴えないから」
「え? そうかな?」
「……無理しなくていいんだよ。僕には、つらかったらつらいって言っていいから」
「あ、ありがとう……」
堀田くんのこと。
その何気ない気遣いだけで胸が熱くなり、君野は思わず胸元のリングへ触れた。
その仕草を、貴聞は静かに見つめていた。
「それで……ちょっとこっち」
手を引かれて案内されたのは、貴聞の部屋だった。
部屋の隅には、レイヴン専用の大きなガラス張りのスペースがある。
犬用のおもちゃや餌、水飲み用の噴水まで揃った豪華な空間。
広さだけなら、堀田と暮らしていたアパートのリビングほどあった。
掃除は終わったばかりで、あとは主を待つだけの静かな空間。
貴聞はその中へ入り、君野も連れていく。
壁際へ腰を下ろすと、自分の隣を指先で軽く叩いた。
君野も素直に座る。
2人並んで体育座りをしたまま、ガラス越しの天井を見上げた。
「吉郎は、このくらいの広さの方が落ち着く?」
「え?」
「今まで2人で、このくらいの距離感で暮らしてたんでしょ。急に広くなったから、寂しいのかなって」
「……うん。そうかもしれない」
「恋人ごっこで、いろんな所へ遊びに行ったでしょ。楽しかった?」
「うん。すごく楽しかったよ。大きな船に乗ったり、貸し切りで遊園地に行ったり、お金を気にしないで遊ばせてもらって」
「そう。よかった」
少し間を置き、君野はぽつりと続けた。
「でも……このままでいいのかなって思うこともあるんだ。不自由なく幸せだけど……」
「何か不満があるの?」
「不満なんてないよ!貴聞くんも等々元さんも、召使いのみんなも、本当によくしてくれてる。でも……」
君野は体育座りのまま、胸元のリングを握り締めた。
貴聞は、その指先へ静かに視線を落とす。
「……どうして、そんなにリングを握るの?」
「指につけられないから。本当は、ここにあったものだから」
君野は右手の人差し指に残る、消えない指輪の跡をそっとなぞった。
その光景を見つめながら、貴聞は穏やかに口を開いた。
「……いいよ。それでも」
「え……?」
「僕は、それごと愛せる」
「……恋人ごっこの話?」
「そう。ごっこの話」
貴聞は静かに頷いた。
「でもね、今のままじゃ、まだ外へは出られそうにないんだ。その先に進まないと、父は認めてくれないみたい」
「その先?」
「そう……その先」
貴聞は膝を抱えたまま、そっと顔を埋めた。
恥ずかしくて言えない――そんな様子ではない。
白戸家を背負う者として課せられた"次の段階"に、押し潰されそうになっているように見えた。
その姿に、君野の胸は締めつけられる。
僕ばかり被害者みたいな顔をしてる。
一番苦しいのは、家柄も、このプログラムも背負わされている貴聞くんなんだ。
救ってあげたい。
ねえ、堀田くん。
許して……。
不条理を背負わされたこの子くらい、守ってあげたい。
君野はリングを強く握り締めた。
小さく息を飲み、隣にいる貴聞の肩へ、そっと手を添える。
貴聞はゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳が、真っすぐ君野を映している。
「……吉郎。僕のこと、好き?」
君野は少しだけ戸惑い、それでも静かに頷いた。
「……うん」
「一瞬だけ、ごっこを解除してみる?」
その言葉に、君野の瞳が揺れた。
けれど、ここで引けば、このプログラムは前へ進まない。
キスだけなら……。
一瞬だけなら……。
君野はゆっくりと頷く。
それを見た貴聞は、安堵したように微笑んだ。
「……じゃあ、ちょっとだけ、ごっこを解除しよう」
そっと距離を縮める。
「僕が、そのまま丸ごと愛してあげる」
囁くような声とともに。
貴聞は君野の柔らかな唇へ、静かに唇を重ねた。




