第12話「美術館へ行こう」
休日。
貴聞と君野は、2人で観光施設を訪れていた。
行き先は、白戸家が所有する美術館。
館内では、今まさに新進気鋭の画家や現代芸術家たちによる企画展が開かれている。
建物は別荘地の高級ホテルを思わせる全面ガラス張りの造りで、美術館でありながらカフェや高級レストラン、図書館まで併設されていた。
貴聞は深いワインレッドのシャツに黒いベスト、そして足の長さが際立つ細身の黒いスラックス姿。
その隣を歩く君野は、少しフォーマル寄りのカジュアルな服装で、ラグジュアリーな空間に萎縮しながらも、展示作品に目を輝かせていた。
「何考えて作ってるんだろう……」
国民的アニメとのコラボ作品は、かわいらしいはずのキャラクターがどこか禍々しく描かれている。
中には、何を表現しているのかさえわからない作品もあった。
1つのテーマだけでも、人の創造力はこんなにも違う。
君野はそんなことをぼんやり考えながら展示を見上げていた。
「ねえ見て、吉郎。この人の絵。今オークションで話題の作家なんだよ」
貴聞はそう、楽しげに答える。
「そ、そうなんだ…」
僕はあれから彼の顔をまともに見られない。
リングへ触れるたび、胸がざわつく。
本当にキスをしてよかったのか。
僕は一体何をやっているのか…
君野は近づいてくる貴聞から目を逸らす。
その先に、少し変わった絵があった。
そこにはキャラクターの姿もなく、茶色と赤だけが塗られたように見える大きなキャンバスがあった。
「これ、何?」
「作品の中にある可愛らしさと、その裏にある社会性をテーマにしているらしいよ」
「はあ……」
「この作家の似た作品、いくらで落札されたと思う?数千万円。投資家も注目してるし、今のうちに買えばもっと価値が上がると思うよ」
「へえ……」
君野は貴聞の熱弁とは対照的に、生返事を返した。
2人はそのまま展示室を巡っていく。
「額縁、高そう……」
君野はそう一つ漏らした。
ふと壁際の小さな作品へ視線が止まる。
展示室の隅にひっそり飾られた、小さなキャンバス。
写真立てを2つ並べたほどの大きさしかない。
だが、不思議と目が離せなかった。
「これ、どうやって描いてるんだろう」
貴聞は嬉しそうに説明を始めた。
「ああ、それはBW. Cryleの作品。若手だけど今かなり注目されてる画家だよ。一度きれいに描き上げた絵を、最後に大胆に崩してしまうのが特徴なんだ」
「そうなんだ……」
君野は作品を見つめ続ける。
さまざまな絵の具が混ざり合い、画面はほとんど判別できない。
それでも、かろうじて1人の男性が立っているように見えた。
足元だけが辛うじて形を残し、完成していたはずの絵の名残だけが漂っている。
「アンノウン?」
作品名を読み上げる。
「"unknown"。題名は『不明』。つまり無題ってことだね」
「ふーん……」
「……そんなに気になる?」
「あ、なんか……ね。僕にもよくわかんないけど」
君野は照れ笑いを浮かべると、名残惜しそうに作品から目を離し、次の展示室へ歩き出した。
2人はそのままグッズ売り場へ足を運んだ。
君野が商品を眺めている間、貴聞は少し離れた場所で美術館の職員を呼び止め、小声で何かを耳打ちする。
職員は思わず体をのけぞらせるほど驚き、小走りで人混みを抜け、そのままバックヤードへ消えていった。
「貴聞くん?あ、いた!」
君野がつま先立ちで手を振る。
よく見ると、両手いっぱいに土産物を抱えていた。
その様子に、貴聞は思わず笑みをこぼす。
「吉郎、そんなに買うの?しかも全部お菓子だね」
「うん!」
屈託のない笑顔。
それだけで胸が温かくなる。
――だが。
「堀田くんにもあげようかなと思って!」
「……え?」
貴聞の笑顔から、すっと色が消えた。
さっきまで意識にも入っていなかった君野の胸元のリングが、急にまぶしく輝いて見える。
そんな彼の反応を見て、君野もようやく気づいた。
「あ……堀田くん。そういえば今日いなかったね」
「え? それ、どういう意味?」
「僕、今日ずっと堀田くんも一緒にいる気でいたみたい。……これ送ってもいい?」
「……いいけど」
貴聞は焦点の定まらない目のまま、小さく答えた。
――今日1日、あの男も一緒にデートしていた?
それとも。
――吉郎の中には、いつだってあの男がいる?
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
「これってどうしたら送れるかな?どこで荷物出せる?」
「まさか……全部?」
「うん!」
「僕たちのお土産は?」
「……あ!!!!」
君野は美術館とは思えない大声を上げた。
そして悪びれる様子もなく、
「忘れてた!」
と口だけ動かす。
貴聞は2度だけ瞬きをすると、店の端に置かれていた買い物カゴを持ってきた。
君野の腕いっぱいのお菓子を、1つずつ丁寧に収めていく。
その後、2人は改めて自分たち用の土産を選び始めた。
だが、貴聞の視線だけは違った。
君野を見ているようで、その実、胸元で揺れる堀田との指輪だけを静かに見つめていた。
冷たく。
何かを確かめるように。
帰り道。
白戸家専用の送迎車へ乗り込み、後部座席に腰を下ろす。
車が静かに走り出した頃、貴聞が小さな箱を差し出した。
「吉郎。これ」
「え?」
「開けてみて」
真っ白な箱の蓋を開く。
そこには、さっき展示室で見たBW. Cryleの作品が、そのまま収められていた。
「え? これ……グッズ?」
「違うよ」
貴聞は穏やかに微笑む。
「君が気に入っていた本物」
「えっ!!?うそ!!なんで!?」
「欲しそうに見えたから。大丈夫。盗んだわけじゃないよ」
冗談めかして笑う。
だが君野は、まだ状況を理解できない。
「でも……」
「ちゃんと作者と交渉して譲ってもらった。高かったけどね」
「あ……ありがとう……」
震える手で、恐る恐る絵を抱き上げる。
「吉郎の部屋に飾ろう。等々元にも伝えておくよ」
「う、うん……」
すると貴聞は静かに続けた。
「僕の愛は本物だよ」
君野が顔を上げる。
「吉郎が欲しいと言ったものなら、何でも手に入れられる。絵も、お店も、家だって」
少しだけ間を置く。
「でも――それは、目に見えるものだけじゃないんだよ」
そう言うと、貴聞は君野の頬へそっと右手を添えた。
そのまま胸元へ視線を落とし、チェーンに掛かったリングを指先でつまみ上げる。
君野が息をのんだ。
貴聞はリングを見つめたまま、ゆっくりと顔を近づける。
そして君野から一度も目を逸らさず、そのリングへ静かに口づけた。
「――っ」
心臓を鋭い刃で突かれたような衝撃が走る。
君野の体が一瞬で強張った。
数秒間リングへ口づけたまま、貴聞はゆっくりと顔を離す。
そのまま首を傾け、のけぞる君野を下から見つめ続けた。
目が離せない。
リングに口づけしただけなのに、その仕草には冷たさと色気が同居している。
――ヘビだ。
君野の背筋を、ぞくりと悪寒が走った。
「っ……」
我に返った君野は、慌てて両手でリングを包み込む。
隠すように服の中へ押し込み、眉を八の字に寄せたまま潤んだ瞳で貴聞を見る。
「……これは僕と堀田くんのだから……キスしてほしくなかった……」
貴聞は怒ることも笑うこともなく、静かに答えた。
「言ったでしょ。丸ごと愛すって」
君野は何も言えない。
「僕ね、反省したんだ。恋人ごっこって言っていたけど、本当の気持ちをちゃんと言葉にしていなかったなって」
「……なにを?」
貴聞は真っ直ぐ君野を見つめる。
「本当に愛してる。大好き」
君野は小さく首を振った。
「それは……プログラムだよね……」
「ねえ」
貴聞はさらに距離を詰める。
「今は、ごっこやめよう」
もうそこには、犬小屋で照れながらキスをした、あの子犬のような少年はいない。
貴聞は君野の顎を指先でそっと持ち上げる。
逃げ道を与えないまま、その唇へ迷いなく口づけた。
優しさと支配が溶け合ったキス。
君野の心臓は、大きく1度跳ね上がった。




