第13話「未遂」
美術館デートを終えた、その日の夜。
君野は、部屋着の白いフリルワンピース姿で、就寝の準備をしていた。
ベッドの縁に腰掛け、太ももの下へ両手を挟み、足をぶらぶらと揺らす。
その視線の先には、昼間、貴聞に買ってもらった絵が飾られていた。
召使いたちが梯子を使い、壁へ取り付けてくれたものだ。
「……」
改めて眺めてみても、どうしてこの絵に惹かれたのかは、やはりわからない。
ただ、絵を見ていると自然に思い出してしまう。
美術館からの帰り道。
貴聞にされた、あのキスを。
「貴聞くんの中では、本当の恋人同士だったってこと……?」
恋人ごっこ。
その言葉はあまりにも曖昧で、考えるほど混乱していく。
てっきり貴聞くんも、父親に命じられ、嫌々プログラムをこなしているのだと思っていた。
けれど、本当は僕のことを愛している?
いや。
プログラムを早く終わらせるために、そう言っているだけなのかもしれない。
「わかんないや……」
今の自分が、どちら側に立っているのかさえわからない。
ただ1つ言えるのは、あのキスが強烈だったこと。
「いや、僕は堀田くんのことが好きだから……」
確かめるように呟き、胸元のリングを強く握った。
そのまま無意識に、皮膚へ食い込むほどチェーンを引っ張ってしまう。
「あっ!」
長く力をかけすぎたせいか、チェーンの留め具が外れた。
指輪が君野の手からこぼれ落ちる。
ワンピースの布が張った太ももの上で1度跳ね、そのまま横へ転がって見えない場所へ消えた。
「嘘……」
眠気など一瞬で吹き飛んだ。
君野は血相を変え、ベッドの下へ顔を突っ込む。
暗くて何も見えない。
とりあえず片腕を差し込み、壊れたワイパーのように左右へ動かした。
「ない……!どうしよう!」
胸いっぱいに不安が広がる。
慌てて腕を引き抜いた瞬間、ベッドの下の何かに袖が引っかかった。
白い長袖の二の腕辺りへ、小さな穴が開く。
「あ……やっちゃった……」
だが、今は服より指輪だ。
君野はスマホのライトを点け、床へ這いつくばった。
光を頼りにさらに奥を探すと、指先へ硬いものが触れる。
「あった……!」
尻を高く上げた不格好な姿勢のまま、必死に腕を伸ばす。
中指でリングを引っかけ、少しずつ手前へ転がしていく。
そして、ようやく救出に成功した。
「やった……!」
苦労して取り戻した指輪は、いつも以上に愛おしく見えた。
少し歪んでいる。
……いや、元からだった。
堀田が苦労しながら手作りした姿が目に浮かび、自然と笑みがこぼれた。
コンコンコン。
3度のノックが響く。
君野は慌てて返事をし、指輪を握ったままベッドへ戻った。
「失礼いたします、君野様。夕食後のおくつろぎに、デザートと温かいミルクティーをご用意いたしました」
等々元が、いつもの時間に夜のスイーツを運んできた。
銀色のトレイには、湯気を立てるティーポットと繊細なティーカップ。
その隣には、小さなガラス皿へ盛りつけられたチョコレートケーキが置かれている。
「本日のデザートは、濃厚なチョコレートケーキでございます」
等々元はベッドへ食事用の台を設置すると、ティーカップへ丁寧に紅茶を注いだ。
上品な香りが、ふわりと鼻を抜ける。
「どうぞ、ごゆるりとお召し上がりくださいませ。今宵も安らぎのひとときとなりますよう、心を込めてお持ちいたしました」
「うん。いつもありがとう」
君野が笑顔を返すと、等々元はふと、その右腕へ目を向けた。
「右のお袖が、少々腕元まで上がっております。差し支えなければ、整えさせていただきます」
「へ?あ……本当だ。寝相悪かったのかな……」
君野が腕を差し出す。
等々元は、二の腕までシュシュのように寄っていた袖を、優しい手つきで元へ戻した。
――駄目だ。
チェーンが外れたなんて言えない。
僕が、堀田くんとの指輪を守らなきゃ。
「ご用命がございましたら、いつでもお呼びくださいませ。どうぞ、良き夜を」
「うん。本当にいつもありがとう。おやすみなさい」
君野が微笑むと、等々元は美しい所作で一礼し、部屋を出ていった。
「はあ……」
一人になると、君野は安堵の息を漏らした。
横に置かれたガムシロップとミルクを、容赦なく紅茶へ投入する。
スプーンでかき混ぜ、ずずっと音を立てて1口飲んだ。
「はあ~……」
続いて洒落たフォークでチョコレートケーキをすくい、口へ運ぶ。
「う~~~んま!」
この時間が、屋敷で過ごす1日の中で一番好きだった。
窓の向こうに浮かぶ星と月を眺めながら、ふかふかのベッドで甘いものを食べる。
――堀田くんと一緒に食べたいなあ。
君野は掛け布団の中へ隠しておいたシルバーリングを取り出した。
久しぶりに右手の薬指へ通す。
「……おかえり。堀田くん」
思わず指輪へ口づける。
それだけで、心がふわりと宙へ浮いた。
君野は右手を天井へ向かって高く掲げ、薬指で輝くリングを眺めながら、にひひと嬉しそうに笑った。
次の日の日曜日。
朝から雲1つない、気持ちのいい空が広がっていた。
早朝5時。
貴聞は君野を、レイヴンの散歩へ誘った。
君野が黒いベストと黒いズボンへ着替え、屋敷を出た直後だった。
「あれ?指輪は?」
貴聞が君野の胸元へ目を向ける。
「今日はネックレスしてないんだね」
「あ、本当だ!忘れてきちゃったのかな?」
「取りに戻ろうか?」
「いいよ。行こう!ほら、ヴンちゃんも尻尾ぶんぶんだし!」
2人は、先を急ぐレイヴンに引っ張られるように歩き始めた。
――貴聞くんに、リングがチェーンから外れたって言えなかった。
指輪は今、ズボンのポケットに入っている。
もう、あのチェーンをつけてほしくない。
今度こそ、指輪を指輪のままで持っていたかった。
「……」
どう言い訳しよう。
いっそ、なくしたことにする?
でも、屋敷でなくしたと言えば、等々元さんや召使いの人たちが総出で探し始めるかもしれない。
「吉郎、そういえば部屋着が変わってたね」
「あ、うん。袖に穴が開いてたみたいで……」
「気づいたのは等々元?」
「昨日。今朝、新しいのを用意してくれてたよ。別に白いワンピースで固定じゃなくてもいいと思うけど……」
表向きは、いつもどおりの日常会話を続ける。
だが、内心では指輪のことばかり考えていた。
この散歩の途中で、川に流されたことにすればいい。
そうすれば、もうチェーンをつけられずに済む。
指輪も、これからはずっと僕の指にいられる。
そんなことを考えているうちに、2人はいつもの公園へ到着した。
広い遊歩道の脇には並木が続き、その横を浅い川が流れている。
君野は1度、深く唾を飲み込んだ。
作戦は簡単だ。
レイヴンのお気に入りのボールを、わざと川へ投げる。
それを拾いに行った時、ポケットから指輪を落としたことにする。
「今日はいい天気だね。雲1つない」
貴聞は何も知らずに穏やかに笑っている。
美術館帰りの車内で見せた、あの妖艶な姿が嘘のようだった。
「そうだね……。ねえ、ここでボール遊びしない?」
君野は散歩用の小さなバッグから、テニスボールを取り出した。
「あれ、持ってきてたの?」
「いつも入れてるよ。……それー!」
唐突に腕を振る。
あまりにも不自然な動きに、貴聞がきょとんと目を瞬かせた。
ボールはぽんぽんと地面を跳ねる。
レイヴンにすら見向きもされないまま、狙いどおり川へ落ちた。
君野はすぐに短い土手を駆け下りる。
靴に水がかかることも気にせず、そのまま川へ入った。
「ど、どうしたの?」
貴聞が心配そうにこちらを見ている。
君野はそこで、わざとらしく頭を抱えた。
「あ!貴聞くん、大変!リングのネックレス、落としちゃった!」
「え?」
貴聞はレイヴンを連れ、川辺まで近づいてきた。
「……どこに?」
「この川!僕が踏んだから水が濁っちゃって、底が見えなくて……」
「でも、さっきは持ってくるのを忘れたって言ってなかった?」
「あ!で、でもね、あったんだ。ここのポケットに入れてたんだけど、ボールを拾おうとした時に落ちちゃって……」
君野は黒いズボンのポケットを指差した。
「……そっか」
貴聞はそれだけ言うと、レイヴンを連れて来た道を戻り始めた。
呆れられたのかもしれない。
そう思いながらも、君野は胸を撫で下ろした。
そのまま川から上がろうとした時だった。
「ん?」
10メートルほど先で、貴聞が立ち止まる。
外灯の柱へレイヴンのリードを結びつけ、「待て」と命じた。
そして1人で、静かに戻ってくる。
そのまま土手を下り、靴も靴下も脱がず、ズボンの裾さえ上げずに川へ入った。
「貴聞くん!」
「一緒に探そう。落としたばかりなら、まだ見つかるよ」
腰を屈め、川底の石を素手でひっくり返し始める。
君野は慌てて声を上げた。
「か、帰ろう!もうないよ。きっと流されちゃったんだよ!」
「大切な堀田さんとの思い出なんでしょ?」
貴聞は石を探りながら、穏やかに続けた。
「そんなに簡単に諦めちゃ駄目だよ。あれだけは、どんな高級品でも代わりにはならない」
「……そうだけど……」
貴聞は再び、足元の石を転がし始める。
川へ入った高価そうな革靴も、濡れたズボンも、まるで気にしていない。
その姿を見ているうちに、君野は耐えられなくなった。
両手をぎゅっと握り締める。
「ごめんなさい……!」
「え?どうしたの?」
「あの……その……ほ、本当は……」
君野が口ごもると、貴聞は手を止めた。
濡れた手を、開き直ったようにジャケットで拭う。
そして泣きそうな君野へ近づくと、そっと抱きしめた。
冷たい手が、君野の頭を優しく撫でる。
「貴聞くん……ごめんね。僕、嘘ついた……」
「嘘じゃないよ」
「え?」
頭を撫でていた手が、ゆっくりと君野の腰へ下がる。
そのままズボンの後ろポケットへ触れ、人差し指と中指でリングをつまみ上げた。
「ほら。吉郎はドジだから、こういうこともあるんじゃないかと思って」
「え……?」
「ふふ。本当に天然だよね。落としたんじゃなくて、ポケットに入ったままだったなんて」
「ち、違うよ。僕は――」
「落としたと思い込んで、あとから見つけたって言えなくなったんでしょ?」
貴聞は笑顔を崩さない。
「だから、またチェーンをつけないとね」
「あっ……!」
君野は反射的に手を伸ばした。
だが、何も言い返せない。
貴聞はリングをそのまま自分の胸ポケットへしまった。
「等々元に迎えを頼もう。その間、ベンチで休んでいようよ」
濡れた自分たちの足元を見て、貴聞は明るく笑う。
「これは結構、怒られるね」
君野の手を取り、土手の上へ引き上げる。
その後も、リングが自分の手元へ戻ることはなかった。
等々元に迎えられた2人は、屋敷で揃って眉をひそめられた。
靴も靴下も濡れたままの2人は、そのまま足を洗ってもらうことになる。
君野は、チェーンをつけずに返してほしいと何度も言いかけた。
けれど、和やかな空気の中でさえ、その一言を口にすることはできなかった。
「はあ……」
その後もリングは戻ってこないまま、とうとう夜の就寝時間になった。
あれが手元にないと、なぜか落ち着かない。
頭の中では、あのチェーンが次第に蛇の姿へ変わっていく。
堀田くんへ巻きつき、牙を立てているようにも思えた。
そして、その蛇はまた僕の首へ巻きつけられる。
「……あれは、一体どういう意味なんだろう」
長い抱き枕を抱えた君野は、新しい白いワンピース姿のまま、ベッドの上でうなだれていた。
その時だった。
コンコンコン。
3度のノックが、静かな部屋へ響く。
「はい」
返事をすると、スーツ姿の貴聞が入ってきた。
「あ、寝てた?ごめんね。今日中に渡した方が、いい夢を見られるかなと思って」
そう言いながら胸ポケットから取り出したのは、例のリングだった。
「ねえ、見て。今度は溶接してあるから、チェーンから外れることはないよ」
貴聞は嬉しそうに笑う。
「それだけじゃ寂しいから、小さなダイヤもつけてみた。もちろん本物だよ」
リングの中央で、小さな白いダイヤが静かに揺れている。
君野は息を呑んだ。
――もう、このリングを指にはめることはできない。
貴聞はそんなことなど知らないように、君野の正面へ立った。
器用に留め具を外すと、長い指を君野の首の後ろへ回す。
ふわりと、上質なフレグランスの香りが漂った。
鼻を抜けたその香りに、一瞬めまいを覚える。
「……ありがとう」
「やっぱり似合う」
貴聞はネックレスを整えながら微笑んだ。
「これは吉郎のものだね」
そう言って、リングを掌へ乗せる。
そして自然な動作で、また唇を近づけようとした。
「ダメ……!!」
君野は慌ててリングを手繰り寄せ、両手で包み込むように握った。
「ふざけてるなら……やめてほしい……」
貴聞は怒ることも笑うこともなく、静かに君野を見つめる。
「なら、ごっこを終わらせよう」
「……えっと、それって……」
「本当に好き同士になればいい」
「僕、そのルールがまだ……」
言い終わる前に、貴聞はリングを守る君野の両手へ、そっと自分の手を重ねた。
優しく包み込むように撫でる。
「僕たちは今、プログラム上の恋人?」
穏やかな声で問いかけた。
「それとも――」
少しだけ首を傾ける。
「吉郎は、どっちがいい?」
耳へかかった髪を、指先でゆっくり払う。
そこにいるのは、昼間の優しい御曹司ではない。
美術館の帰り道に現れた、あの妖艶な蛇だった。
「僕は……プログラムが終われば、それでいいって思ってるよ……」
その言葉が落ちた瞬間だった。
「うわっ……!」
貴聞はリングを守る君野の両手ごと、そっと後ろへ押した。
抵抗する間もなく、君野は音もなくベッドへ倒れる。
その上へ、貴聞が静かに覆いかぶさった。
君野は息を呑み、目を大きく見開く。
顔は強張っている。
それでも両手だけは、ツタンカーメンのようにリングを胸元で抱きしめたままだった。
堪えていた涙が、瞳から静かに溢れる。
貴聞は指先で、その涙を優しく拭った。
「プログラムなら、強引に終わらせることだってできる」
穏やかな声だった。
「でも、僕はそんなやり方は好きじゃない」
君野の目を真っ直ぐ見つめる。
「だって吉郎のこと、本当に大好きだし、愛してる」
「……」
「このリングを大切にする吉郎も、白い部屋着で、天使みたいな吉郎も」
そっと頬へ触れる。
「迷っている吉郎も」
「…」
「全部好きだから。そのままでいいんだよ」
――そっか。
本当に好きじゃなかったら。
無理やり身体を奪って、形だけ恋人にすることだってできたはずだ。
でも貴聞くんは、それをしない。
堀田くんを想っていてもいいと言ってくれる。
この曖昧な関係に苦しんでいるのは、きっと貴聞くんも同じなんだ。
「ごめんね……こんなんじゃダメだよね……」
「ダメじゃないよ」
貴聞は首を横へ振った。
「吉郎は混乱しているだけ」
その声は、どこまでも静かだった。
「だから僕は、この曖昧な関係を終わらせたかった」
「……このキスは、どう捉えたらいい?」
「吉郎の中では、そのままでいいよ」
優しく笑う。
「気持ちが変わってもいい。変わらなくてもいい」
「……貴聞くんは?」
その問いに、貴聞は静かに目を細めた。
そして何も答えず、唇を重ねる。
今度は、1瞬では終わらなかった。
君野が胸元で守るリングへ重ねた両手を、そのまま包み込む。
吐息が混じるほど近い距離。
温もりと震えが溶け合い、時間だけがゆっくりと流れていく。
「……吉郎」
低く囁かれたその声だけで、君野の胸は大きく高鳴った。
やがて貴聞は、静かに身体を起こす。
「……おやすみ」
「う、うん……おやすみ」
その一言で、君野の強張っていた肩から力が抜けた。
リングを握り締めていた両手も、ようやく少しだけ緩んだ。




