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第14話「初夜」

 4月も後半。


 君野きみのは、すっかり慣れたリッチな公園をレイヴンと散歩していた。


 時刻は午後3時。


 学校や会社へ行く必要のない人たちが、思い思いに穏やかな時間を過ごしている。


 君野もまた、その中の一人だった。


 白い巨像が立つ噴水の前を通り過ぎ、桜並木の遊歩道へ足を向ける。


 見上げれば、どこまでも青い空。


 春から初夏へ移り変わる、この季節は昔から好きだった。


 もうすぐ、貴聞きぶんが学校から帰ってくる時間だ。


 大型連休は、僕と過ごすのを楽しみに学校へ通っている――そう話していたことを思い出す。


「いい天気だな……」


 相棒のレイヴンは相変わらず、ふんがふんがと鼻を鳴らしながら前へ進む。


 地面へ鼻を擦りつけるように匂いを追い、その好奇心で君野をぐいぐい引っ張っていった。


「はあ……」


 あれから、堀田ほったくんは1度も会いに来ない。


 もしかしたら、もう僕のことを忘れてしまったのかな。


 寂しい。


 帰ったとしても、もう僕の居場所はないのかもしれない。


 屋敷へ連れて来られる前のことは、ちゃんと覚えている。


 前日から、お腹の調子が悪かった。


 そのことで少し言い合いになって、気まずい空気になっていた気がする。


 そうだ。


 あの日、堀田くんに求められたのに、キスをしなかった。


 バイトを休めと言ってくれたのに、僕は聞かずにここへ来てしまったんだ。


「こんなことなら、しておけばよかったな……」


 そう思う。


 なのに、不思議なことに。


 堀田くんとどうやって出会ったのか。


 どうしてあのアパートで一緒に暮らしていたのか。


 そこだけが、どうしても思い出せない。


 ここから出たい。


 その気持ちは確かにある。


 でも、どうしてここまで後悔しているのか。


 どうしてこのリングが、こんなにも大切なのか。


 答えは、どれだけ考えても出てこなかった。


 そして、なぜ今さらそんな疑問ばかり抱くのか、それすらわからない。


「揺れてる……」


 胸元のリングに付けられたダイヤが風を受け、小さく揺れる。


 反射した光が眩しく輝いた。


 その時だった。


「ガハッ!!」


「ヴンちゃん?」


 足元を歩いていたレイヴンが、吐血でもするかのように激しくえずき始めた。


「どうしたの!?何かあったの!?」


 全然見ていなかった。


 今さら後悔しても遅い。


 レイヴンは苦しそうに何度もえずき、大量のよだれを流し続ける。


 何かを飲み込んでしまったのか。


 興奮しているのか。


 理由はわからない。


 ただ、とても苦しそうだった。


「ど、どうしよう!!」


 パニックになっていると、ちょうどスマホが鳴った。


 いつもの10分ごとの確認電話だ。


 慌てて通話ボタンを押す。


「等々とうとうげんさん!! 大変です!ヴンちゃんが!!」


 等々元の返事を待たず、君野は必死に状況を伝えた。


 すると、それまで穏やかだった等々元の声に緊張が走る。


「君野様。ただいまそちらへ向かいます。どうか、そのままでお待ちくださいませ」


 落ち着いた丁寧な声が、少しだけ君野の心を静めてくれた。


 電話を切る。


 その直後、レイヴンは力なく地面へ崩れ落ちた。


 苦しそうな呼吸が続く。


「ごめんね……ヴンちゃん……!」


 涙が滲む。


 どうしてちゃんと見ていてあげなかったんだ。


 今さら泣いたって遅いのに。


 15分ほどして、等々元が駆けつけた。


 レイヴンを抱き上げた等々元は、そのまま君野と共に動物病院へ向かった。


 診察室へ運び込まれてしばらくすると、等々元が待合室へ戻ってくる。


「君野様……!!」


 君野は立ち上がった。


 等々元は目線を合わせるように腰を落とし、穏やかな声で告げる。


「君野様。レイヴンのご容体につきましては、私どもにお任せくださいませ。これより専門の医師が万全を期して処置にあたりますので、どうかご安心くださいませ」


「え? 僕も一緒に中にいる……!」


「そろそろ貴聞様もお戻りになる頃でございます。君野様も、本日はどうかお身体をお休めくださいませ。タクシーのご用意はすでに整っております。どうぞこちらへ」


「でも……」


 ちょうどその時、1台のタクシーが動物病院の駐車場へ入ってきた。


 等々元の丁寧な案内に逆らうこともできず、君野はそのまま後部座席へ乗せられてしまう。


「死んじゃったりしないよね……?」


「どうぞご心配なさらず。また元気なお姿を見せてくださることでしょう」


 そう言って一礼すると、等々元は車から離れ、運転手へ静かに指示を出した。


 タクシーはゆっくりと走り出す。


 君野は窓越しに病院を見つめたまま、小さく呟いた。


「僕のせいだ……」


 膝の上で握った拳に力が入る。


 さっきの会話の中で、等々元は最後まで「命に別状はありません」とは言わなかった。


 そのことだけが、胸に引っ掛かって離れない。


「っ……」


 涙が次々とこぼれ落ちる。


 まだ2歳のあの子を、僕の不注意で――。




 午後4時過ぎ。


 屋敷の前では、タクシーの到着を待ちわびていた貴聞きぶんが、学校帰りの制服姿のまま立っていた。


 車が止まり、自動ドアが開く。


 君野きみのが降り立つと同時に、貴聞は駆け寄り、その身体を強く抱きしめた。


「おかえり」


「貴聞くん……」


「吉郎、そんな顔しないで。必要な処置は、すぐに始まってるから」


「でも……僕のせいだから……」


 君野は鼻をすすりながら、貴聞の胸元から顔を上げた。


 貴聞はゆっくりと身体を離し、穏やかな眼差しで君野を見つめる。


 そして、人差し指で涙をそっとすくい上げた。


「吉郎の涙は、ダイヤより綺麗だよ。ずっとその顔を眺めていたくなる」


「何言ってるの?今、ヴンちゃんが大変なんだよ」


「さっき、等々とうとうげんから連絡が来てね。手術が必要みたい」


「手術!?」


「うん。レイヴンは数日入院になるって。元々持病があったでしょ。胃が膨れて、ねじれる病気だって、吉郎も知ってるよね」


 その言葉を聞いた途端、君野の瞳に再び涙があふれた。


 眉を八の字に寄せ、力なく俯く。


 貴聞はその両手をそっと包み込み、自分の胸元で優しく握った。


「泣かないで。先生たちが診てくれてるから」


 安心させるように、ゆっくりと言葉を続ける。


「僕たちまで沈んでいたら、迎えられるレイヴンも寂しくなっちゃうでしょ。手術はきっと成功するよ」


 君野は何度も頷いた。


 それでも、涙だけは止まらない。


「今夜は一緒にいよう。こんな吉郎を1人にしておけない」


 貴聞は少し考えるように目を細めた。


「そうだ。レイヴンの部屋で一緒に過ごさない? もちろん、綺麗にしてもらってからだけど」


 いつもの穏やかな笑顔だった。


 そして、その泣き顔があまりにも愛おしかったのか。


 貴聞は君野の頬を伝う涙へ、そっと唇を寄せた。


 頬へのキス。


 今、この状況で?


 君野は一瞬だけ眉をひそめた。


 少し不謹慎じゃないかな。


 そう思った。


 それでも、彼なりに必死で励まそうとしてくれているのだと思えば、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


「うん……。僕も、手術が成功するまではあの部屋にいたい」


「わかった」


 貴聞は優しく微笑んだ。


「じゃあ、レイヴンが元気に帰ってくるまで、毎日あの部屋で一緒に祈ろう」


 君野は静かに頷く。


 貴聞はそっとその肩へ手を回し、支えるように屋敷の中へ歩き出した。


「じゃあ、レイヴンが元気に帰ってくるまで、毎日あの部屋で一緒に祈ろう」


 君野は静かに頷く。


 貴聞はそっとその肩へ手を回し、支えるように屋敷の中へ歩き出した。

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