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第15話「BLACK貴聞」

レイヴンについて新しい知らせが入ったのは、その日の夜だった。


どうやら手術には至らず、検査だけで終わったという。誤食によるものか、それとも胃捻転いねんてんの前兆か──判断にはまだ時間がかかっているらしい。


結局、その日中に結論は出なかった。


「はあ……」


その夜、君野(きみの)は部屋着の白いワンピース姿で、約束通り貴聞の部屋にあるレイヴン部屋を訪れていた。


ワンルームほどの広さの部屋は、朝まで散乱していたペットシーツやぬいぐるみの綿がきれいに片付けられ、獣の匂いさえ消えている。


その静けさが、かえって不吉だった。


──もう、ここへ戻ってこない気がする。


君野は膝を抱え、首を埋めるように座り込んだ。


隣では、黒地にパイピングの入ったシルクのパジャマ姿の貴聞(きぶん)が、真似をするように体育座りをして首を傾げている。


制服姿とは違い、どこか年相応の幼さがあった。


やがて部屋の明かりが消される。


折りたたみ式の小さな机の上には、淡い香りを放つ上質なアロマキャンドルが一本だけ灯された。


揺れる灯火を前に、二人は何をするでもなく、ただ隣にいた。


すると貴聞が、白いビニール袋をガサガサと探り始める。


「これ食べる?」


差し出されたのは、コンビニで売られている味付きのイカの干物だった。


「ありがとう……」


「これくらいなら食べられるかなと思って。前にお酒飲むって言ってたから、こういう馴染みのある味の方がいいかなって」


そう言って一本かじる。


僕を励まそうとしてくれている。その気持ちだけで十分嬉しかった。


「わざわざコンビニに?いつもの高級なお店には売ってないよね……」


「気にしないで。買ってきたのは召使いの人。僕は頼んだだけ」


貴聞は柔らかそうな一本を選び、君野へ差し出した。


だが、君野は首を横に振る。


「だってヴンちゃん、あんなにご飯大好きなのに……手術で食べられないって思うと……」


「じゃん」


今度は別の袋から、チョコレートやスナック菓子、クッキー、飴を次々と並べ始めた。


キャンドルの前は、まるで小さなパーティー会場だ。


「何でも食べて。迎える側が元気じゃないと、レイヴンも悲しむでしょ?」


「……うん」


君野はもう一度イカを受け取ろうと手を伸ばす。


その瞬間だった。


「あーん」


貴聞はその手をひょいとかわし、イカを口元まで運んできた。


少し驚きながらも、君野は素直にくわえる。


「よしよし」


貴聞はそのまま頭を優しく撫でた。


普段の威厳ある御曹司の姿はどこにもない。


そんな彼を見つめていると、貴聞はくすりと笑った。


「そんなにレイヴンが心配なら、僕が吉郎をレイヴンみたいにしてあげようかなって。そうしたら、またご飯食べられるでしょ」


そのおどけた言葉に、君野も少しだけ口元を緩める。


「じゃあ……『わん』って言えばいい?」


「じゃあ、おいで。僕のわんちゃん」


低く囁くと同時に、貴聞は君野をそっと抱き寄せた。


恋人に触れるような優しい力加減だった。


こんなふうに誰かへ体を預けたのは、いつ以来だろう。


最初は上品すぎる香りに距離を感じていた。


それなのに今は、その胸が不思議と落ち着く。


「今度は僕がレイヴン役になりたい」


「う、うん……」


返事を聞くと、貴聞は抱き枕でも抱えるように、さらに横から君野を抱き締める。


首筋に鼻先が触れ、腰へ腕が回る。


イカを持つ手にも、白く細い指がイソギンチャクのように絡みついた。


普段なら、きっとやんわりと離れていただろう。


けれど今の僕は、ワタを抜かれたぬいぐるみみたいだった。


「…吉郎」


君野のおとなしさに、貴聞はイカをゆっくり噛みながら、耳元で囁く。


「口を開けて。そんなに硬くて食べられないなら、いくらでも柔らかくしてあげる」


「……」


「口を開けてよ」


低い声が耳に落ちた瞬間、君野はようやく我に返った。


そのときだった。


貴聞の手が首元へ伸び、リングネックレスを引き出す。


まずい。


そう思ったときにはもう遅かった。


貴聞はリングをぎゅっと握る。


「一緒に握ろうよ」


「やめて……これは、そういうのじゃないよ……」


「そういうのって、どういうの?吉郎はこの堀田さんのリング、お守りにしてるんじゃないの」


「そ、そうだけど……」


「僕はもう、この指輪の中にいる。吉郎の心の真ん中で」


そう言って、リングの中のダイヤへ指先を添えた。


「堀田さんはもう来ないのかもしれない。それを認めるのが怖いんだよね。でも、僕はやめろとは言わない」


「こんな僕のこと、もう……嫌になっちゃったのかな……」


涙が頬を伝う。


次の瞬間、貴聞は目を細め、その唇を深く塞いだ。


口の中へ、柔らかくなったイカが流れ込む。


拒もうと思った。


けれど、その理由がもう見つからなかった。


僕には恋人がいたはずだ。


温かい家もあった。


長い口づけが続く。


まるで、その温もりだけが今も残っていると錯覚してしまうように。


けれど現実は違う。


僕の不注意で、大切なペットを危険な目に遭わせてしまった。


さらには彼は、まだ高校生……。


ここはどこ?


──ここは、その犬の犬小屋だ。


それでも口づけは終わらない。


気づけば君野は後ろへ倒れ、貴聞が覆いかぶさっていた。


その瞬間、全身がびくりと震える。


一瞬だけ離れたとき、細くつながった吐息が灯りに揺れ、ろうそくの炎がかすかに波打つ。


「いい?」


「…」


イカの残り香と、若い彼の体温。


混ざり合った匂いに、君野は自分の呼吸の速さをどうすることもできなかった。


拒絶をしない様子に、貴聞はただ静かに額を合わせてくる。


その仕草はあまりに自然で、まるで昔から決まっていたように思えてしまう。


「……ねえ、指輪外して…」


君野の弱い声が涙とともにこぼれる。


しかし、いつもの穏やかな笑顔を浮かべる御曹司は、挑発的に首を傾げるだけだ。


「愛してる。ごっこやめよう」


低く熱を帯びた声が、耳の奥に直接染み込む。


背中に触れる布の冷たさと、覆いかぶさる体の重さ。


どちらが現実で、どちらが夢なのか分からなくなる。


ろうそくの炎が大きく揺れ、影が壁一面に伸びていく。


どうしようもなく速くなる鼓動と、「この瞬間に抗えない」という確かな実感だけを感じ、貴聞の細い指の虜になった。




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