第16話「美味しい朝食」
その次の日、君野はようやく遅めの朝に起きた。
理由があって、執事の等々元にわーわーと喚いていた。
少し気が済んだ頃、今日は祝日だと知る。
学校が休みだった貴聞は、朝食も食べず、君野の機嫌が直るまで待っていてくれたらしい。
それを知ったのは、執事が用意した服に着替え終えてからだった。
言ってくれればよかったのに……と思ったが、彼は「ゆっくりでいい」と言っていたらしい。
その後、2人は運転手付きの高級車で、都心の一等地にある高級ホテルへ向かった。
磨き抜かれたシャンデリアの光が、クラシックなダイニングへ降り注ぐ。
白いクロスが敷かれたテーブルには、銀の食器が整然と並んでいた。
君野は白いワイシャツに淡いカーディガンを羽織り、貴聞は相変わらず黒いスーツ姿だ。
「よかった。10時だけど間に合った。こんな遅めの朝食は、休みでもなかなかないよ」
「……」
貴聞の穏やかな笑顔を見ていると、昨夜の出来事が夢だったのではないかと現実逃避したくなる。
目を合わせられず、ただ太ももへ視線を落とす君野を、貴聞は変わらず悠然と見つめていた。
「さ、食事を取りに行こう。おいで」
優しくエスコートされ、ようやく席を立つ。
彼のことは憎い。
それでも昨夜を思い出すと、その怒りすら揺らいでしまう。
拒否しなかったのは自分だ。
昨夜からまともに食べていないせいで、色とりどりの料理を前にすると、お腹が盛大に鳴った。
「相当お腹減ってるね」
「……聞こえちゃった?」
「たくさん動いたからね」
弱みを握るような一言に、君野は恥ずかしさで唇を噛む。
「言ったでしょ。このホテルのビュッフェは、なかなか予約が取れない人気の場所なんだ。次いつ来られるかわからない」
差し出された手に導かれるまま、君野はついていく。
胃は正直で、マス目の皿には次々と料理が並んでいった。
「ふふ。吉郎、そんなにいっぺんに取ってこなくても、まだ時間はあるよ」
「……僕、今あんまり食欲なくて。少しはあるんだけど、気持ちが追いつかない……」
「それで食欲がないの?」
「……わかんない。一回食べてみていい?」
「う、うん」
席へ戻る。
貴聞は名物のヒレステーキをフォークに刺したまま、矛盾だらけの可愛い彼へ見入っていた。
君野はグラタンを一口食べ、ゆっくりと飲み込む。
「……美味しい」
「それで、食欲はあったの?」
「うーん……もっと食べてみないとわかんない」
そう言うと、皿の料理を1つずつ味見するように、次々とフォークで口へ運んでいく。
「どう? お腹減ってきた?」
「……どうなのかな?食べ続けてみないとわかんない……」
皿をきれいに空にした君野を見て、貴聞は自分の食事も忘れ、一緒にビュッフェコーナーへ向かった。
「次、デザート行ってみたら?ここのシュークリーム、サクサクでできたてなんだよ」
「でも、まだパスタ食べたい」
「どれくらい食べるの?」
「うーん……2皿分」
「じゃあ、僕も一緒に取りに行ってあげる。3皿分なら、スイーツも取れるよ?ほら、できたてってベルも鳴ってる」
御曹司をお皿係に任命し、君野はタガが外れたように料理を盛り付ける。
本人は至って真面目なのだから、愛さずにはいられない。
再び席へ戻ると、貴聞も君野の食欲につられたように、いつもより多めにたんぱく質の料理を皿へ載せた。
そして、さりげなく朝の出来事を切り出した。
「ねえ、聞いたよ。今朝、等々元が吉郎のこと"泉"だって話してたって」
「え……」
昨日の出来事で、等々元に泣きつき、うざ絡みまでしてしまった。
それでも彼はずっと真摯に寄り添い、君野は泉のように皆を癒やす存在なのだと励ましてくれた。
「……等々元さんって、何でも話しちゃうの?」
「言わないでって言えば黙っていてくれるよ。でも彼は、僕に報告する義務があるから」
「そうなんだ……」
君野はその話を右から左へ流し、本題だったサクサクの温かいシュークリームを頬張る。
素朴な甘さが、脂っこさで単調になった口の中へ心地よく広がった。
「レイヴン、よかった。手術が成功して」
その一言に、君野のフォークを持つ右手が止まった。
「……いつからわかってたの?その、ヴンちゃんが命に別状はなかったって」
「昨日の夕方には。僕はてっきり、ちゃんと情報が伝わっているものだと思ってた。伝達が誤っていたのは、現場が混乱していたから仕方ない」
「だから、あんな余裕だったんだね……」
貴聞はワイングラスの水を一口飲み、うつむく君野を静かに見つめる。
その胸元では、堀田のリングがまだ光っていた。
昨日、絶対に外してはいけないと伝えた。
彼はその言いつけを守っている。
――もう、自分では外せないからだ。
あのリングは、吉郎と彼を結ぶ愛の証であり、同時に僕との背徳を刻む呪物でもあった。
こんなにも天然で愛らしい彼が、僕のことで深く悩んでいる。
その姿が、なぜだかひどく美しい。
「……満足した?」
「え!!?」
その一言に、君野はビクッと肩を震わせ、思わず大きな声を上げた。
周囲の視線が一瞬だけこちらへ集まる。
「……うん……すごく……」
君野は顔を真っ赤にしてうつむいた。
昨日も恥ずかしそうな彼に、同じようなことを聞いた気がする。
「ねえ、そのリング見せて」
突然、胸の奥が疼いた。
君野の胸元で揺れるダイヤ付きのリングへ、人差し指を内側から引っかける。
そのまま手招きするように軽く引くと、君野の上半身が自然と前へ引き寄せられた。
引かれるまま身を預ける姿が、どうしようもなく愛おしい。
「……綺麗だね。堀田さん、一生懸命作ったんだね」
「そ、そうだね……」
「でも、本音を言うと……昨日はすごく嬉しかったんだ」
その言葉だけで、君野の顔は耳まで赤く染まり、目が潤む。
今度は何を言われるのだろう。
羞恥に耐えるように唇を歪める君野へ、貴聞は首を少し傾け、前髪を揺らしながら告げた。
「吉郎は、レイヴンや堀田さんより、僕が一番好きなんだってことがよくわかったからさ」
その一言に、君野は眉を八の字に寄せ、唇を強く噛み締めた。
反論したい。
それなのに、何も言えない。
震える唇だけが、その葛藤を物語っていた。
貴聞はリングから人差し指を静かに外す。
リングは胸元で小さく跳ね、元の位置へ戻った。
そして、君野の口元についたヒレ肉のソースを人差し指で拭い、そのまま自分の唇へ運ぶ。
押し黙った君野は、食欲も落ち着き、すっかり大人しくなっていた。
貴聞は口元をナプキンで拭くと、またいつもの愛嬌のある笑顔を見せた。
「……ねえ、これからレイヴンのお見舞いに行こうよ。10分だけ、あの病院なら会えるってさ」
「う、うん……」
「それから、レイヴンが帰ってくるまで、夜はまた一緒にお祈りしよう。彼が寂しくないように」
そう言って、貴聞は君野の両手を包み込むように握り、穏やかに微笑んだ。




