第6話「弱者教育プログラム」
翌日――。
「ありがとうございます!」
白戸家でのアルバイト2日目。
貴聞が蝶ネクタイを持って近づくと、君野は今度こそ抵抗せず、素直に首を差し出した。
急所をまっすぐ差し出す、あまりにも無防備な従順さ。
この瞬間だけは、首筋に残るキスマークよりも、自分の存在の方が勝っているような気がした。
何を刻まれようと、最後にここへ触れるのは僕だ。
湧き上がる悦びを押し殺し、貴聞はその首筋へ指を添える。
蝶ネクタイを結び終えると、目の前の天使はぺこりと頭を下げた。
「君野さん。それ、オーダーメイドなんです」
「あ、そうなんですか!なんかツヤツヤしてて、クロワッサンみたいですよね!」
クロワッサン?
思いもよらない感想に、貴聞はきょとんとする。
胸の奥が、また落ち着かなくなった。
ここまで特別扱いされていながら、その価値を少しも理解していない。
高価なものへ執着せず、知ろうとすらしない純粋さ。
まるで、お伽噺のお姫様だ。
自覚がなくとも、この人は上等なダイヤモンドそのものだった。
僕のものにしてしまいたい。
「わっ!ヴンちゃん!」
隣で順番を待っていたレイヴンが、ひと声吠える。
次の瞬間、待ちきれなかったとばかりに君野へ飛びついた。
「わあっ!ははははっ!」
犬であることを最大限に利用して、結んだばかりの蝶ネクタイの下へ長い鼻先を突っ込んでいく。
また君野の首筋へ触れている。
きっと、彼も僕と同じ気持ちなのだ。
なんて妬ましい。
こうなってしまえば、もう2人だけの世界だった。
「はあ……」
貴聞は自室へ戻ると、後ろ手に鍵をかけた。
深い藍色の壁に重厚な木製家具が並ぶ、高級ホテルのように整えられた部屋。
窓辺には、1輪挿しの白薔薇。
机の上には、ノートパソコンが置かれている。
その奥にある鍵付きの引き出しには、君野のためだけに作らせた蝶ネクタイが何本も保管されていた。
さらに奥の隠し引き出しを開く。
中から取り出したのは、上質な透明のファイルだった。
そこには、君野吉郎に関する資料が何枚も挟まれている。
「来月の国民年金、いつ払ってあげようかな……」
貴聞の指先が、1枚の払込用紙をなぞった。
名前の欄には、君野吉郎。
毎月コンビニで支払う、国民年金の払込用紙だ。
わざわざ自分の金を現金へ換え、コンビニで支払い続けて、もう半年になる。
彼氏には、いまだ気づかれていない。
前のページには、貴聞が専属執事へ命じて作らせた、架空の会社――『キキ株式会社』の封筒の原本も入っている。
我ながら、やりすぎている。
気持ち悪い。
それでも、これほど楽しい暇つぶしは他になかった。
ここは僕だけの聖域だ。
誰の目も気にする必要はない。
「吉郎……薬、まだあるかな……」
コンコンコン。
穏やかなノックが、部屋に響いた。
「等々元でございます。入室してもよろしいでしょうか」
「ああ」
ファイルを隠すこともなく、貴聞は短く答えた。
扉が開き、1人の執事が入ってくる。
40代後半の等々元は、穏やかな物腰と無駄のない所作を備えた、貴聞付きの専属執事だ。
主人の習慣も嗜好も熟知しており、必要とあれば、誰にも気づかれないよう裏側の手配まで行う。
今回も、別件で訪れたはずだった。
だが、貴聞はファイルを持ったまま、先に口を開いてしまう。
「ねえ。吉郎の家に風邪薬と胃薬がまだあるか、さりげなく聞いてくれない?それから、この前テスターとして送った弁当が美味しかったかも、聞いてほしい」
「かしこまりました。下の者へ取り計らわせます」
「あと、『キキ株式会社』の封筒も、もっと作っておいて」
「承知いたしました」
等々元は、いつもの柔らかな笑みを崩さず応じる。
早く4月になってほしい。
4月になれば、吉郎の彼氏も大学へ通い始める。
そうすればまた、テスターという名目で弁当や菓子、薬を頻繁に送り、健康も、胃も、肌の状態も支えられる。
彼を管理しているのは、あの彼氏じゃない。
僕だ。
天然すぎる吉郎は、玄関前へテスターとして置かれた弁当や菓子、薬を、そういうものだと疑わず使っているらしい。
たまに感想を求める手紙も忍ばせているが、一度も返事をもらえたことはなかった。
「返してくれたら、好きなものをいっぱい入れてあげられるんだけどな……」
「貴聞様。また別のお考え事でございますか」
「あ、ごめん。なんだっけ。次のパーティーの贈答品の話?」
等々元が軽く咳払いをし、話を最初から説明し直す。
だが、貴聞の意識はすぐ吉郎へ戻ってしまう。
ここ3か月は、年金を払ってもあまり気分が上がらなかった。
テスターをほとんど送れていなかったからだ。
「貴聞様」
「あ、ああ。ごめん。なんだっけ」
貴聞が苦笑すると、等々元は両手を広げて「これは駄目だ」とでも言いたげな仕草を見せた。
「ごめんごめん。まだ先の話だし、吉郎が帰ってからでいい?この3日間だけは」
「かしこまりました。それでは、また何かございましたらお申し付けくださいませ。……失礼いたします」
気品ある一礼を残し、等々元は部屋を出ていった。
1人になると、貴聞は椅子をくるくると回しながら、膝の上のファイルを眺める。
どうして、あの人のことを考えているだけで、こんなにも楽しいのだろう。
学校へ行けば、親という盾に守られただけの、くだらない階級争いばかり。
うんざりする毎日の中で、今や月に一度の楽しみは、この年金の支払いだけだった。
「ふふ。来月も、僕がいるからね」
にんまりと笑い、貴聞は君野の4月分の国民年金払込用紙へ、そっと口づけた。
3日目――最終日。
アルバイト最終日ということもあり、貴聞は君野の姿を探して屋敷を歩いていた。
やがて、ハムスターを両手で優しく包んでいる君野を見つける。
だが、近づいてすぐに違和感を覚えた。
いつもの明るさがない。
「すみません。こんな調子じゃ、アニマルセラピー失格ですよね……」
君野は俯いたまま、弱々しく笑う。
心なしか、周囲の動物たちまで元気をなくしているように見えた。
「大丈夫ですか?よかったら、話してもらえませんか」
君野はハムスターをケージへ戻し、貴聞とともに噴水広場へ移動した。
「……今日は午後からの出勤だったんですけど、家でお昼に焼きそばを作ろうとしたら堀田くんに怒鳴られて……。勝手に食材を使ったのが駄目だったのかなって」
「そんなことで?」
思わず声が強くなる。
「ずいぶん窮屈なんですね。だったら、ここで住み込みで働いてもいいのに」
自分でも驚くほど、言葉がスラスラと口から出た。
「そもそも、愛する人の記憶がなくなるなんておかしいです。一度しばらく離れて、この屋敷で暮らした方がいい。その日常が異常だったと気づけるかもしれません」
「……でも、堀田くんはいつも優しいです」
潤んだ瞳で、それでも彼氏をかばう。
その姿が、また貴聞を強く惹きつけた。
この屋敷で、大好きな動物たちと過ごし続ければいい。
そうすれば、あのハムスターのケージのようなアパートにも、いつか嫌気が差すかもしれない。
そう期待していた。
なのに吉郎は、毎朝存在を忘れてしまう相手を、なおも肯定する。
きっと、あの彼氏に逆らえないだけだ。
「……部屋を用意すると言ったら、あの彼氏から離れて、この屋敷にいたいとは思いませんか?」
「え……でも……またお話があれば、ここで働きたいです」
返ってきたのは、困惑だった。
戻らなければ、何か酷い仕打ちを受けるのだろうか。
だから記憶まで失っているのかもしれない。
そんな考えに突き動かされ、貴聞は思わず君野の手を握った。
「君野さん。僕のものになってくれませんか」
「え?」
「好きです」
一瞬、沈黙が落ちる。
君野の口元が、冷たい氷でも含んだように、あわあわと動き始めた。
「……あ、ありがとうございます。でも僕、今話したとおり、恋人がいるので……」
御曹司からの告白に、どう断ればいいのか分からないらしい。
そのときだった。
「わっ!」
君野が背後を見て、声を上げる。
貴聞が振り返ると、10メートルほど先に父が立っていた。
厳しい顔で、こちらを見ている。
「……!」
まずい。
慌てて君野の手を離したが、もう遅かった。
父はゆっくりと2人へ近づく。
そして貴聞だけを見て、淡々と言った。
「夕方6時に、食堂へ来なさい」
「……はい」
当然だ。
身分違いの恋など、許されるはずがない。
父が来た道を戻っていくと、貴聞の身体から一気に力が抜けた。
張り詰めていた糸を切られた人形のように、ぐらりと傾く。
「僕、さっきのは勘違いだったって、ちゃんと説明します!」
君野は眉を下げながら、穏やかに笑った。
「勘違い……」
勘違いだなんて。
そう言い返したかった。
だが今は、遠くで父の雷が鳴り続けているようで、その言葉を押し返す力はどこにもなかった。
午後5時。
退勤時間になると、君野は召使いたちへ深々と頭を下げ、動物たちへ別れを告げてから更衣室へ戻った。
お腹も空いた。
何を食べようか。
そんなことを考えていた時、ふと貴聞のことを思い出す。
「あ、そういえば……貴聞様、大丈夫かな」
最後に、それだけは何とかしておきたい。
少し遅れると、堀田くんへ連絡しておこうか。
無機質な細長いロッカーを開けた、その時だった。
「……あれ?」
中は空だった。
一度扉を閉め、番号を確認する。
鍵に刻まれた番号とも見比べる。
「31番……だよね?」
もう一度開ける。
やはり、荷物はない。
「……時空、飛んだ?」
意味もなく何度か扉を開け閉めする。
それでも現実は変わらない。
ようやく異常を認めた君野は、顔を青ざめさせ、更衣室を飛び出した。
「等々元さん!」
「どうされました?」
「お仕事中すみません。僕の荷物、鍵付きのロッカーに入れてたんですけど、開けたらなくなっていて……」
「かしこまりました。君野さん、まずはこちらを飲んで落ち着いてください」
「あ、ありがとうございます」
等々元が差し出したのは、透明な液体の入ったグラスだった。
傍らのカートには、ピッチャーとグラスが並んでいる。
君野はその気遣いを疑うことなく、素直に口へ運んだ。
「少し落ち着きましたか?こちらの椅子でお待ちください」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げ、客間の前に置かれた椅子へ腰掛ける。
しかし、どうしてこんな場所に、面接待ちのような椅子が1脚だけあるのだろう。
そんな疑問を抱いてから、20分ほどが過ぎた。
荷物が見つかるという報告を待っているうちに、猛烈な眠気が襲ってくる。
「早く、堀田くんに……」
連絡しなきゃ。
心配しているかもしれない。
重いまぶたを閉じかけた時、荷物を探しに行ったはずの等々元が、まだ目の前に立っていることに気づいた。
けれど、もう眠気には抗えなかった。
視界がぼやけ、そのまま意識が沈んでいく。
午後6時。
貴聞は深呼吸をしてから、大広間の食堂へ入った。
豪華な絨毯と西洋建築の装飾が、歪んで見えるほど緊張していた。
長机の向こうでは、父が腕を組み、威圧感を放ちながら待っている。
その背後には、等々元だけが控えていた。
貴聞が所定の位置へ立つと、父は鋭い眼差しを崩さないまま口を開く。
「……貴聞。お前も、そろそろ理解しなければならないことがある」
「はい」
「この家を継ぐということは、金や土地を相続するだけではない。立場を守り、人間を選び、時には情を切り捨てる力を持つということだ」
父は新たな事業計画でも説明するように、両手を擦り合わせながら長机の前を歩く。
「貴聞。お前には創造性と、一国を束ねる王の器が必要だ。だが今のお前には、足りないものが多すぎる」
「学校の成績のことですか」
「そんなものは、どうでもいい」
父が合図を送る。
等々元が食堂の最奥へ進み、何かを覆っていた赤いシルクの布へ手を掛けた。
布が引き落とされる。
そこにいたのは、召使い服のまま眠っている君野だった。
右腕を枕にし、何も知らずに目を閉じている。
「吉郎!?」
思わず、いつもの愛称が口から飛び出した。
父は小さく咳払いすると、食堂の奥に飾られた西洋甲冑から1本の剣を抜き取った。
「弱者とは、身分も力も持たず、ただ人を惹きつけるだけの存在だ」
「……」
「食を共にし、同じ場所で寝起きし、日常を重ねれば、情は必ず生まれる。だが――その情は、時に切り捨てなければならない」
父はそう言うと、眠っている君野の首筋へ、鈍く光る剣先を当てた。
「私が『切れ』と言った時、その場で関係を終わらせる。それができなければならない」
切れ。
その言葉と目の前の光景が重なり、貴聞の脳裏に君野の首が落ちる映像が浮かぶ。
背筋へ冷たいものが走った。
「な、何を……おっしゃっているのか、わかりません……」
「家を継ぐ器とは、そういうものだ。その覚悟のない者に、この家を預ける気はない」
父の声が、食堂中へ響き渡る。
「これは――弱者教育プログラムだ!」
剣が鋭く振り下ろされ、食堂の床板へ突き刺さる。
鈍い金属音が響き、模造刀の刃が震えた。
その切っ先は、君野の首筋すれすれに刺さっている。
「弱者……教育……」
貴聞は震える唇を開いたまま、ただその言葉を繰り返すことしかできなかった。




