第5話「白戸家の財産」
その日の午後――。
深紅の絨毯が敷かれた廊下は、足音さえ静かに飲み込んでいた。
白戸家当主・白戸貫聞は、ゆったりと歩を進めながら、隣を歩く男へ目を向ける。
男はグレーのスーツをまとい、肩には小さなカメラバッグを提げていた。
文化人らしい、落ち着いた佇まいだった。
「相変わらず、お宅の庭は見事ですね。噴水と薔薇……まるで舞台装置だ」
「各地を訪れているあなたに言われても。インドの王族や石油王の邸宅に比べれば、我が家など質素なものです」
謙遜した口調とは裏腹に、その声音は鋭い。
50歳。
財界の頂点に立つ男の背筋は、微塵も揺るがなかった。
今日は、都内に新設する美術施設の取材で、旧知の映画監督であるこの男だけに屋敷への立ち入りを許している。
屋敷で多くの動物を飼っているのも、動物好きという一面の延長に過ぎない。
――あはははははっ!!
不釣り合いなほど明るい笑い声が、庭園の奥から響いた。
男の足が止まる。
貫聞もそちらへ視線を向け、わずかに息を止めた。
薔薇園に隣接した噴水広場。
タキシード姿の若い召使いが、まるで絵本の1場面のように動物たちへ囲まれていた。
黒いボルゾイが飛びつき、青や緑のインコが肩や腕に止まり、白いオウムが袖へしがみついている。
その中心で笑っているのは、君野吉郎だった。
「……あの子、本当に面白いですね」
男の口元がわずかに歪む。
一眼レフへ手を伸ばした、その瞬間。
貫聞の目が鋭く変わった。
「我が家の者です。それ以上は不要でしょう」
短く言い切る。
それ以上話す気はないという意思が、その一言に滲んでいた。
男は笑みを浮かべる。
だが、その目だけは笑っていない。
「あの子なら、いい実写映画が撮れそうですね。例えば、この庭園を舞台に――」
「今日は文化事業の取材だと申し上げたはずです」
その一言だけで十分だった。
旧友でありながら、立場の違いを突きつけられた男は、それ以上踏み込めなかった。
それでも、視線だけは君野へ向いたままだ。
……まだ諦めていないのか。
召使いたちは、君野を動物たちのアニマルセラピー役程度にしか思っていない。
止まり木のような存在だと。
だが、違う。
彼は動物を集め、狂わせる。
そして、その光景はこうして人の目まで惹きつけてしまう。
それが、どれほど危ういことか。
貫聞は静かに思案していた。
「……口外禁止」
「はい?インタビューの内容ですか?」
「動物を惹きつける召使いのことです。これ以上ハイエナが集まれば、飼育している動物たちにも悪影響が出る」
そう告げると、貫聞は男を見送った。
「……」
狂わせているのは、動物だけではない。
あの光景を、どう解釈する。
奇跡か。
芸術か。
それとも――資産か。
利用価値。
その言葉が、脳裏をよぎる。
噴水広場では、召使いたちが慣れた様子で掃除を始めていた。
ケージの準備が整うまで、動物たちは皆、君野のもとへ預けられている。
「……すごいな」
立派な髭が、わずかに動く。
貫聞は、その光景をしばらく静かに見つめ続けていた。
「ただいまぁ~!」
午後5時。
白戸家から15分ほど離れた駅前で、待っていた堀田が顔を上げた。
「おう。おかえり」
部屋着の延長のような格好のまま駆け寄り、吉郎を強く抱きしめる。
「うふふ!熱烈だね!」
「お前、あの屋敷へ行くとニオイが違う。くせえ金持ちのニオイがする」
「僕、動物としか触れ合ってないよ。他のことすると怒られるし」
「ムカつくな」
「なんで?」
「……なんでもない。いつもの店、行くぞ」
2人は手をつなぎ、電車で自分たちの住む下町へ戻ると、行きつけの居酒屋へ入った。
早く、この金持ち臭を消してしまいたい。
俺は炭火の香りが漂う焼き鳥屋へ、半ば引っ張るように吉郎を連れていく。
この店は酒も料理も美味いが、吉郎は特に甘いカクテルがお気に入りだった。
テーブル席に向かい合い、吉郎はカシスオレンジや巨峰サワーを飲みながら、焼き鳥を夢中で頬張る。
一方の俺は、冷えたビールジョッキを片手に、今日1日の出来事を酒の肴に聞いていた。
本当に、動物としか関わっていないらしい。
それが少し可笑しかった。
「僕、今日インコや小鳥のお世話をしたんだけど、よかったのかな?」
「なにが?」
「お肉、すごく美味しいから」
そう言いながら、焼き鳥を大きく頬張る。
「いやいや、その小鳥を見て腹が減るようになったら問題だけどな」
「僕も将来、動物飼いたいなぁ」
「そうしたら部屋から出なくなるんじゃないか?」
「ふふっ!かもね!お散歩以外は家でベタベタしてるかも~!」
酔いが回ってきたのか、串を2本持ったまま指揮者のようにぶんぶん振り回している。
「そうか……小鳥か」
俺は、上機嫌ではしゃぐ吉郎をじっと見つめた。
焼きそば導線が揺らぎ始めている今、小鳥導線なんてものは通用するのだろうか。
……いや。
そうなったら今度は、俺がペットに嫉妬する。
それでも外へ出なくなるなら、その方がまだいいのか。
そんなことを、酒の回った頭でぼんやり考える。
頬杖をつきながら、目の前で焼き鳥を次々と平らげる吉郎を眺めていた。
酒が入ると機嫌が良くなり、食欲まで底なしになるタイプだ。
……家でトイレにこもっても知らないからな。
「ふん」
どうせ明日には俺を忘れるくせに。
ペットだけ覚え続けられたら、たまったもんじゃない。
早くこのバイトが終わって、導線を引き直したい。
そう思いながら流し込んだビールは、やけに苦かった。




