第4話「白戸家のアニマルセラピー」
白戸家の屋敷は、街の喧騒から切り離された高台に建っている。
見上げるほど高い黒い鋳鉄の門が屋敷全体を囲み、外から中の様子は一切見えない。
門の奥には長い砂利の車寄せが伸び、並木道の先にある地上3階、地下1階の洋館へと続いていた。
優雅な西洋建築。
だが、多くの窓は分厚いカーテンに閉ざされ、昼間でも屋敷の中は静まり返っている。
その砦のような屋敷に住むのが、長男の白戸貴聞。
都内の高等科へ通う高校生だ。
白い肌に、艶のある黒髪。
耳がわずかに見える程度のマッシュヘアに、前髪だけを長めに残した、いかにも育ちの良い坊ちゃんだった。
黒いフォーマルスーツが、その白い肌をいっそう際立たせている。
今は誰かを捜すように、広すぎる屋敷を歩き回っていた。
「ペット係の召使いは、もう来ました?」
突然声を掛けられた若い召使いは、タキシード姿のまま慌てて背筋を伸ばす。
「い、いえ……まだ確認できておりません」
「そうですか。ありがとうございます」
貴聞は小さく頭を下げ、再び赤いカーペットの廊下を歩き出した。
城のような玄関を抜けると、春の日差しが心地よく降り注ぐ。
手入れの行き届いた芝生。
左右対称に配置された大理石の噴水。
洋蘭と薔薇がどこまでも続く庭園。
その奥には、大きなガラス張りの温室まで見えていた。
――あはははっ!!
東側の噴水がある薔薇園から、この屋敷には似つかわしくない大きな笑い声が響く。
その瞬間、貴聞は弾かれたように駆け出した。
本来なら、屋敷で走るなど父に厳しく叱られる行為だ。
それでも逸る気持ちは抑えられず、石畳を一直線に駆け抜ける。
中庭では、黒いボルゾイが長い尻尾を大きく振っていた。
主人である貴聞が目の前に現れても、その視線はアルバイトの青年へ釘付けになっている。
「君野さん。少し笑い声が大きいですよ」
「すみません!」
君野は慌てて両手で口を押さえる。
21歳になったばかりだというのに、仕草の1つひとつが自分より幼く見える、不思議な人だった。
それでいて、動物には理由もなく好かれる。
僕にしか心を開かなかったレイヴンですら、こうして無防備に腹を見せていた。
「ヴンちゃん、かわいい~。よしよし!」
だから今日ここへ呼んだのは、レイヴンの体調管理のため――そのはずだった。
「君野さんは、今日から3日間働いてくださるんですよね」
「はい!ずっとヴンちゃん、元気かなって気になってました。ご飯、ちゃんと食べてますか?」
「はい。おかげさまで。君野さんの靴下をいただいてからは、その匂いがあると安心するみたいで。食欲も戻りました。昨日からクンクン鳴いていたので、そろそろ会えると分かっていたのかもしれません」
「そうなんですね!僕もずっと会いたかったんだよー」
レイヴンは嬉しそうに鼻を鳴らしながら、君野の頬を何度も舐める。
その長い鼻先は、そのまま首筋へ移った。
警察犬のように鼻を押しつけ、夢中で匂いを嗅ぎ続ける。
「やだ、ヴンちゃん。くすぐったいよっ……!」
君野は笑っている。
だが、その姿を見つめる貴聞の表情は、静かに強張った。
まただ。
襟元がめくれた隙間から、大きな青紫色のキスマークが覗いている。
「……」
今回も、また見つけてしまった。
この屋敷へ来るたび、必ずそこに刻まれている。
隠そうとしていない。
……いや、隠せないのか。
鏡を見せてもらっていない証拠だ。
首筋へ貼り付いたままの、あまりにも露骨な所有印。
ふと、アイスを食べていたあの男の顔が脳裏をよぎった。
「君野さん。これ、つけてください」
胸ポケットから蝶ネクタイを取り出し、貴聞は君野へ歩み寄った。
「自分でやりますよ」
その言葉には答えず、襟元をそっと整える。
久しぶりだった。
近づけば、匂いも、息遣いも、柔らかな唇も、すぐそこにある。
首筋へ指先が触れると、小さく息が揺れた。
あまりにも無防備だった。
朝、あの男が整えたのであろう髪。
丁寧に着せられた服。
それなのに、首元だけがこんなにも乱れている。
貴聞の手が一度止まる。
それでも静かに蝶ネクタイを結び、キスマークを完全に隠した。
「ありがとうございます!」
蝶ネクタイを撫でながら、君野は嬉しそうに笑った。
「君野さん。彼氏さんとは、うまくやっているんですか?」
「あ?え?は、はい!」
「以前、たまに彼氏さんの記憶がなくなることがあると話していましたよね。……今もですか?」
「はい!でも、朝起きて隣で寝顔を見てたら、なんか幸せだな~って思えたので、それでいいかなぁって!」
君野は屈託なく笑う。
きっと僕が毎回心配するから、安心させようとしているのだろう。
……本当に不思議な人だ。
裏表がなく、天真爛漫で純粋。
それなのに、首には痛々しいキスマークが残っている。
催眠か。
洗脳か。
それとも――白戸家へ送り込まれたスパイなのか。
可愛いものほど、危険な牙を隠している。
そういう存在ほど、人は惹かれてしまう。
彼もまた、危険に見えるほど美しかった。
だからこそ。
この人を救う主人公になりたい。
「……僕が、なんとかしてあげます」
「何ですか?」
この屋敷なら、それができる。
蝶ネクタイを直す口実でもう一度首筋へ触れようと、そっと手を伸ばしかけた、そのときだった。
石畳を慌ただしく駆ける足音が近づいてくる。
「君野さん!ちょっと来てください!!ジュンが暴れて……!!」
「はい! 今行きます!」
「あ……」
古典的なメイド服姿の召使いに呼ばれ、君野は猫の世話のため駆けていく。
こちらの気持ちなど知る由もなく、あっという間に背中は遠ざかっていった。
今回の勤務は、たった3日間。
その短い時間しか、一緒にいられない。
「僕も、あんなふうに甘えられたらな……」
貴聞は胸へそっと両手を添え、消えていく背中を見つめる。
「……吉郎」
その名前だけを、小さく呟いた。




