第3話「オムそば」
翌朝から、堀田は不機嫌だった。
昨日と同じように、君野が勝手に外へ出て、コーン付きのソフトクリームを買って帰ってきたからだ。
「吉郎、あのな……」
おかしい。
この行動を止めるために、毎日の導線まで整えていたはずなのに。
今日は課題をしていたわけでもない。
俺がトイレへ入った隙に、吉郎は部屋から忽然と姿を消した。
スマホへ連絡しても返事がない。
吉郎にとっては、たった5分。
けれど俺には、その5分すら耐えられない。
「うん……わかったよ」
昨日と同じように、吉郎が勝手に外出した。
それでも怒りを抑えきれず、俺はさらに強い口調で尋ねた。
「それで、さっき1階で何を話してた?」
「配達員のお兄さん?えっとね、もうすぐ堀田くんの誕生日なんだって言ったんだ!見た?このカレンダー!僕、誕生日に印つけておいた!」
吉郎は卓上カレンダーを手に取り、得意げにこちらへ見せる。
3月28日の欄には、菓子パンのポイントシールが貼られていた。
これでは、皿を受け取りに行く日にしか見えない。
「それでね、また配達員さんに笑われたの。今日も顔が黒いですねって!」
「朝、ちゃんと鏡を見たのか?」
「歯は磨いたよ。でも堀田くん、朝ごはんも一緒に食べて、僕の髪まで全部整えてくれたのに……顔は見てなかった?」
その一言に、息が詰まる。
まったくもって、そのとおりだった。
拳で思いきり殴られたような衝撃が、胸へ落ちる。
自分の欲ばかりで、吉郎の顔すらまともに見ていなかった。
その無垢な表情に耐えられず、俺はウェットティッシュを取り出し、黒く汚れた頬を拭った。
「……取れた?」
「ああ。アイス、わざわざありがとな」
開き直るように親指を立て、ソフトクリームへかぶりつく。
そのままアイスをくわえてベランダへ出ると、錆びた柵へ肘を預けた。
……罪悪感がひどい。
少し頭を冷やそう。
すると下から、カシャン、カシャンと金属の鳴る音が聞こえてきた。
アパートの出入り口に設置された、むき出しのポストを漁る音だ。
屋根に遮られ、姿は見えない。
住人か、ポスティングの業者だろう。
「コンビニのアイス、うま」
「堀田くん!僕、また白戸さん家にバイトへ行くことになった!」
部屋の中から、弾んだ声が飛んでくる。
床へぺたりと座ったまま報告する吉郎に、アイスをくわえた口が止まった。
「……何日?」
「1週間後の日曜日から3日間!ぜひ来てほしいって」
「……そうか。送り迎えするから」
「うん!ありがとう!」
背中越しでも、吉郎が笑っているのが分かる。
以前から時々引き受けている、金持ちの屋敷でのペット見守りのアルバイトだ。
日給は高く、条件もいい。
普通なら滅多に回ってこない仕事だが、吉郎は動物に好かれるらしく、白戸家からたまに指名されていた。
とはいえ、あの屋敷は普段から使用人が足りている。
前回の依頼も、確か数か月前だ。
もう呼ばれることはないと思っていたのに。
俺は露骨に顔をしかめた。
「まあ、相手は動物だし……」
そう自分に言い聞かせ、湧き上がる束縛欲を鎮める。
カチャカチャ、カチャカチャ。
「……長いな」
下では、まだポストを漁る音が続いている。
大きな荷物なら、無理に押し込むのはやめてほしい。
そう思ったとき、屋根の向こうから1人の男と大きな犬が姿を現した。
「ん?」
見上げた男と目が合う。
細身で色白。
すらりと手足が長く、黒い大型犬に引っ張られれば、そのまま折れてしまいそうなほど華奢な男だった。
男はどこか不自然な足取りで、そのまま犬を連れて立ち去っていく。
「なんだ……?」
この下町には似つかわしくない、妙に品のある坊ちゃんだった。
学生だろうか。
遠目でも、背が高く、スタイルがいいことだけは分かる。
それに、あの犬は――。
「ボルゾイ……だっけ」
まるで金持ちの街を散歩していた途中で、間違えてこの下町へ迷い込んだように見えた。
「お昼作る~!」
部屋の中から、吉郎の声が響く。
昼は、もちろん焼きそばだ。
「ふんふーんふーん……」
まだ午前中だというのに、吉郎は早くも台所へ立っていた。
俺はベランダへ背を向けたまま、鼻歌へ耳を澄ませる。
キャベツを手でちぎる音。
ピーラーでにんじんを削る音。
肉を焼く音。
「入れすぎちゃった~」
……ん?
いつもより、妙に楽しそうな言い方だった。
「あ~!」
突然、吉郎が叫ぶ。
慌てて駆けつけると、フライパンの中に奇妙な光景が広がっていた。
「なんでスクランブルエッグになってるんだ?」
焦げた黄色い卵が、ぼろぼろと細かく散らばっている。
「焼きそばをオムレツで包もうと思って」
「なんで?」
「さっき配達員さんに、お昼は焼きそばを作るって言ったの。そうしたら、オムそばにすると美味しいって教えてくれたから、やってみようと思って」
「そんなことしなくていい!」
突然の大声に、吉郎がフライパンを持ったまま固まる。
どうして、と言いたげな目が俺を見た。
「……オムそば、嫌い?」
「いや、嫌いじゃない。けど、普通でいいんだよ。それに卵だって、何個も使ったら高いだろ」
「ごめん……」
「いや……俺こそごめん。こんなことで怒鳴るなんて、どうかしてるよな」
吉郎を強く抱きしめ、額へキスを落とす。
そのまま背中を、なだめるように優しく撫でた。
卑劣だ。
こうして抱きしめたいがために、吉郎を萎縮させている。
それでも、吉郎という存在が指の間からこぼれていくようで、怖かった。
バイトも、オムそばも。
少しずつ、俺の手の届かないところへ流れていく。
恋人の顔色を察したのか、吉郎はさらに申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめんね……」
そう言って、失敗したスクランブルエッグを俺の皿へ乗せる。
「俺だけが王様みたいに食えるわけないだろ」
卵を2つの皿へ分けた。
焼きそばにはラップをかけ、リビングへ戻る。
ベッドの枠へ背中を預けると、その前へ吉郎を座らせた。
昼になるまで、何度も機嫌をうかがう吉郎を、ひたすら抱きしめ続けた。
しかし、翌日の午後1時。
「吉郎!!なんでだよ!!」
「え?」
その日の昼も、吉郎は丸い皿に焼きそばと、ぼろぼろのスクランブルエッグを乗せていた。
「オムそば、作ろうかなって……」
「なんでそう思った!?」
おかしい。
今日は配達員にすら会わせないようにしていた。
それなのに、なぜそっちの記憶ばかりが残る?
そもそも今日は、2人して寝坊し、つい数時間前に起きたばかりだ。
「いつも半熟の目玉焼きだろ?なんで変えたんだよ!」
「ごめん。配達員さんに、オムそば美味しいよって言われたから……」
俺の顔がさらに険しくなる。
なんでだ。
なんなんだよ、その配達員は。
どうして、お前を愛している俺より、そいつの言葉ばかり覚えている。
気になってるのか?好きなのか?
だから、ソイツの言葉ばかり蓄積されるのか…!?
「頼むから、いつもの目玉焼きにしてくれよ。俺の言葉って、そんなに届かないのか?」
「……わかった」
何故ここまで怒られるのか分からないまま、吉郎は唇を噛み、静かに頷いた。
「はあ……」
駄目だと分かっているのに、深いため息が漏れる。
こいつと生きると決めた以上、全部仕方のないことだ。
それなのに俺は、どうして吉郎のせいにしたがる。
「……ごめんね。今から卵、買ってくるよ。もう食材、無駄にしないから……」
「違う。ごめんな。俺が……俺が幼稚なんだ。忘れてくれ」
俺は再び、吉郎を強く抱きしめた。
頭の中で、自分の頬を思いきり殴る。
駄目だ。
未来を生きる行動をしろ、俺。
それでも腕の中の吉郎を離せないまま、今日も1日、終わらない自問自答に支配されていた。




