第2話「崩れる導線」
「あ!お疲れ様です!」
翌日。
堀田がベッド横の小さなテーブルで大学の課題に取り組んでいると、ベランダの下から声が聞こえた。
網戸を開けて身を乗り出す。
眼下には住宅街と道路が広がり、その一角で君野が配達員と楽しそうに話していた。
相手の顔までは見えないが、2人の笑い声だけははっきり聞こえてくる。
「……」
堀田は複雑そうに目を伏せ、そのまま机へ戻った。
昼間から俺が家にいるのはイレギュラーだ。
だから吉郎も、普段どおりの導線では動けなかったのかもしれない。
配達員と親しく話すことだって、俺がいない間、焼きそばを作って家で過ごすだけなら起こらなかったはずだ。
そんなことを考えた瞬間、手元のシャーペンの芯が折れた。
「ただいまぁ」
振り返ると、吉郎がソフトクリーム型のアイスを差し出してくる。
「おう、ありがとな。それで……コンビニ、1人で行ってたのか?」
できるだけ平静を装って尋ねる。
「うん。勉強頑張ってたから、アイス買ってこようと思って。でも、さっき配達員さんに笑われちゃった」
「なんでだ?」
「顔が黒く汚れてるって。なんだろ?」
その言葉に、堀田の目が一瞬泳ぐ。
机の引き出しからウェットティッシュを取り出し、吉郎の頬をそっと拭いた。
「ありがとう!結構汚れてるね」
「……心配だから、出かけるときは一声かけてほしい」
「え?でもコンビニはすぐそこだよ?5分もしないし……」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわつく。
俺の存在がリセットされれば、一緒に交わした約束まで消えてしまう。
仕方ないことだ。
分かっている。
それでも吉郎は束縛を嫌う。
だから「行ってくるね」の一言すら、自然には出てこない。
そのたびに、不安になる。
俺の愛は、本当に届いているのか。
どうして、その一言を選んでくれない。
このまま、顔なじみの配達員に取られたら――。
堀田は口を真一文字に結び、唾を飲み込んだ。
「勝手に行くなとは言ってない。ただ、声をかけてくれればいいんだ」
「わかった。今度からそうするね。勉強の邪魔しちゃ駄目かなって思ったから……」
「その気遣いは嬉しい。ありがとな」
堀田は吉郎を抱きしめる。
……油断も隙もない。
「あの配達員、いつからそんなに仲良くなったんだ?男?」
2人はベッドの縁に腰掛け、アイスを食べ始める。
「うん、男の人。一度、間違えてうちに荷物を持ってきたことがあって、一緒に案内してあげたの。それから話すようになったかな。気さくな人なんだよ」
「……そうか」
「よく来るのか?」
「うん。隣の人、ネットで買い物することが多いみたい」
そう言うと、吉郎は最後のコーンを口へ放り込んだ。
「勉強頑張って。僕、何しよう?あ、お昼何にする?」
「焼きそば」
「焼きそば?いいね!今暇だから作っとくね。お昼になったらチンして食べよう!」
そう言って吉郎は冷蔵庫を開ける。
もちろん、昨日と同じ場所に、同じように材料を補充してある。
吉郎が触らない押し入れの奥のクーラーボックスにも、在庫は十分だ。
「ふんふんふーん」
鼻歌を歌いながら、いつもの調理道具を使い、いつもの手順で焼きそばを作り始める。
昼を先に作るのは、俺が休みの日にはよくあることだ。
けれど、1人でコンビニへ行ったのは明らかにイレギュラーだった。
……まさか、あの配達員に気を許してるのか?
もういい。
荷物は全部置き配にしよう。
……いや、それでもベランダで洗濯物を干しながら話しかける、あの人懐っこさまでは止められない。
「でっかい乾燥機でも買うしかないのか……」
台所では、吉郎がいつものようにキャベツを手でちぎり、ピーラーでむいたにんじんをそのままフライパンへ入れる。
続けてもやしを袋ごと入れ、箸で豪快に混ぜ始めた。
「あ、入れすぎちゃった」
その一言で、胸につかえていたものが少しだけほどける。
ここへ帰れば、いつもの吉郎がいる。
俺だけの吉郎が。
「あ、堀田くん。ビール飲むよね?在庫ないよ。買ってくる?」
「じゃあ、今度は一緒にコンビニへ行くか」
「もしかして、そのために一緒に行きたかった?二度手間になっちゃったね」
「それもあるけど……お前が急に家からいなくなったら、心配だろ」
「夜中の蚊じゃないから!すぐ隣にいたら分かるでしょ?でも、潰しちゃ駄目なんだからね~!」
「その焼きそばは?」
「一旦中止!」
吉郎は蚊の真似をしながら、もこもこの部屋着を着た俺の胸を、両手の人差し指でツンツンとつつく。
……もっと絡んできてもいいんだぞ。
そんな本音は胸にしまい込み、俺は部屋着の上からベストを羽織り、外用のズボンへ履き替えて財布を手に取った。
一方の吉郎には、部屋着の上から俺の少し大きめのパーカーを着せる。
2人で手をつなぎ、徒歩5分のコンビニへ向かった。
道中、5階建てのマンションの前に、1台の配送車が止まっているのが目に入る。
自然と、つないだ手に力が入った。
ちょうどマンションから、若くてスポーティーな配達員が駆け足で出てくる。
その姿を見た瞬間、俺の眉間にさらに深いしわが寄った。
すれ違ったあと、小さく尋ねる。
「吉郎、あの人か?」
「え?違うよ。あの人は僕たちの担当じゃないよ」
「いつも来る人って、どんな人なんだ?年齢は?」
「40歳くらいの人と、50歳くらいの人かな。僕たちの担当エリアはその人たち」
「……そうか」
それを聞いて、ようやく胸をなで下ろした。
――俺、考えすぎだな。
コンビニへ着くと、2人で買い物を始める。
アイスだけと言っていたはずの吉郎は、期間限定のお菓子やアイス、ホットスナック、肉まん、おでんへと次々に目移りしていた。
俺も酒を買う身だから、人のことは言えない。
「吉郎、今日は1つだけな」
「じゃあアイスはこれで、ホットスナックは唐揚げ。肉まんは――」
「違う違う! 手に持っていいのは1個!」
まさか、種類ごとに1個ずつ選ぶつもりだったのか。
「堀田くんも一緒に食べるでしょ?」
「だからって、いっぱい買っていい理由にはならないぞ」
ここで折れるわけにはいかない。
軽く咳払いをして、吉郎の耳元へ囁く。
「……今日の夜はクラムチャウダーとオムライス、俺が作る」
「えっ!本当!?」
吉郎の目がぱっと輝く。
君野家の家庭料理だ。
何度も頷く吉郎を見て、交渉成立。
俺はビールを2本と、チョココーンアイスを2本だけ買って店を出た。
その夜。
俺はオムライスを作り、2人で晩酌を始めた。
吉郎は「いつか飲めるようになる」と信じてビールを口にした瞬間、盛大にむせる。
「おいしくな~~~い!!」
「だから言っただろ。ほら、よこせ」
缶を受け取ろうとするが、吉郎は首をぶんぶん横に振る。
「こういうのって喉越しを楽しむんだよね?」
「やめとけって」
「びゃあああ~……すごい味だ……」
「いいんだよ。お前はお前なんだから」
「僕はおこちゃまじゃないもん!」
意地になって1缶飲み切った結果、オムライスを半分残したまま酔いつぶれてしまった。
俺は残った料理を冷蔵庫へ入れ、食器を片づける。
収納棚には、吉郎がしまったままの乱雑な服。
無言で畳み直し、整えていく。
次に、明日の導線どおりになるよう、押し入れから焼きそばの材料を冷蔵庫へ補充した。
今日買ったアイスも、食べるのは明日になるだろう。
酔いつぶれた吉郎の相手を始めたのは、その30分後だった。
「吉郎。風呂は?」
ベッドへ寝かせた吉郎へ顔を近づける。
「もう口に入らないもん」
「……なら、このまま寝るか」
「ねえ堀田くん……僕ね、今すごく高飛車なの」
目を閉じたまま、赤ん坊のようにむにゃむにゃ喋る。
「なんで」
「お高く止まってるの、僕……」
「なんだ。木にしがみついてんのか?」
「違う!!僕はセミじゃないもん!今、僕とチューしたいって思っても無駄なんだよ~!僕のチュウにはねぇ、自動ドアが付いてるんだ~」
ふへへ、と上機嫌に笑いながら、両手で門を作る。
唇を尖らせ、俺を待っている。
試しに顔を近づけると、門はパタンと閉じた。
「あのなぁ。馬鹿なことやってないで寝ろよ」
吉郎は肩を震わせ、大笑いしている。
何がそんなに面白いのか。
――壊したい。
明日も、明後日も。
記憶を失っても、俺だけを見ていてほしい。
ベッド下のテーブルの引き出しから、黒いマジックを取り出す。
キャップを外し、吉郎の頬へハートを描く。
その中へ、ためらいなく文字を書く。
『オレの』
さらに黒い線で、唇まで矢印を伸ばした。
「なに?何描いたの?ヒゲ?」
「ヒゲで済むと思うなよ。お前が挑発したんだからな」
そう言ってマジックのキャップを閉め、床へ転がす。
汚れたままでも、構わない。
今夜もまた、コイツの頬は汚れる。




