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第55話「交渉決裂」

 

 堀田(ほった)は、貴聞(きぶん)君野(きみの)の間に何もないまま朝を迎えたことを確認しても、気が休まらなかった。


 なぜなら今度は、きいろと君野のキスを見届けなければならないからだ。


 別に、夢の中で最初にキスした人間が、もう一度君野にキスをしなければ夢の世界に入れない――なんて決まりがあるわけじゃない。


 だが、あの貴聞が手打ちにしたんだ。


 俺だって今は、調和を乱さない方がいい……。


「……これは君野のためだ……」


 自分にそう言い聞かせると、学校へ行った貴聞を見送ったあと、堀田は厨房へ潜り込んだ。


 朝食が終わり、シェフたちは一旦いなくなっている。


 綺麗に片づけられた厨房へ入ると、堀田は在庫のキャベツとにんじんを取り出した。


 さらに朝、普通のスーパーでわざわざ買ってきた、袋麺と粉末ソース入りの安い焼きそば。


 あの頃、君野がよく作っていたものを再現する。


 にんじんはピーラーで削ったまま。


 豚肉ともやしを適当に入れ、キャベツは包丁なんか使わず、わざと手で豪快にむしって放り込む。


「ボロアパートの君野吉郎(きみのよしろう)特製……適当焼きそば」


 きいろを恨んでいるわけではない。


 でも、ここまでしないと気が済まない。


 今の吉郎の口にも合うだろうか。


 高級品ばっかり食べて、もはや本人までブランド品種みたいになってるからな……。


 堀田はその後も黙々とフライパンを振り続けた。


 やがて厨房一帯が、濃いソースの匂いでいっぱいになる。


 念でも込めるように、鉄板で焼く勢いで麺を炒めた。


 もちろん、終わったら全部元に戻しておかなければならない。


 鈴木料理長にドヤされる。


 焼きそばをタッパーへ移し、調理器具を片づけ、消臭剤まで使って現場復旧を進めていた――そのときだった。


「うわっ!!?」


 思わず大声が出た。


「吉郎!」


 真後ろに、鼻をクンクンさせている君野が立っていた。


「なんか、すごくいい匂いがして」


「朝ごはん、さっき食べましたよね」


「うん……でも、いい匂いだったんです」


「お昼まで我慢してください。食べすぎは良くありません」


「……しゅん」


 思わず、昔と同じことを言ってしまった。


 このやり取りも、よくしていたからだ。


 しかし吉郎は、その場から動こうとしない。


 もしかして――何か思い出そうとしてくれているのか?


 期待しながら眺めていると、


「何してるんだ?」


「やば!」


 背後から低い声が飛んできた。


 鈴木料理長だ。


「臭いな。勝手に厨房に入って何やってたんだ」


 坊主頭に、金剛力士像みたいな顔。


 その恐ろしい顔をさらに険しくしながら、ズカズカとこちらへ近づいてくる。


 すると突然、君野が堀田の前へ飛び出した。


「違います!僕が無茶を言ったんです。スマホで見て、これ食べたいってお願いしてしまって……」


「……」


 その瞬間。


 金剛力士像が、菩薩になった。


「ああ、そうなんですか。君野様、言ってくだされば何でもお作りしますよ」


「口に合うのかな?」


「伊勢エビや自家製麺にこだわって、今度は工夫してお出ししますね」


「ありがとうございます!」


 ――それはもう、俺の知ってる焼きそばじゃねえ。


 堀田は何も言わず、焼きそばの入ったタッパーを抱えたまま、ひとまず君野の部屋へ移動した。


 まだ昼まで2時間もあるというのに、君野の視線は堀田の持つタッパーへ釘付けだった。


「……なんで俺を庇ったんですか?」


「本当のこと言っていい?」


「え?はい」


 堀田の目が輝く。


 しかし君野が見ていたのは、堀田ではなかった。


 焼きそばだった。


「少し分けてほしかったんです。食べたくて」


「な、なるほど……」


 膨らみかけた期待が、そのまま宙へ消えていった。


 だが堀田は、コンビニでもらった割り箸を割ると、タッパーの蓋を開けた。


「いい匂い……」


「何か思い出しましたか?」


「うーん……」


 豪快に入った野菜を見つめながら、君野は首を傾げるだけだった。


 そして堀田を見上げると、無邪気に口を開ける。


「……ちょっとだけですよ。君野様は食べすぎるとお腹壊すので」


 観念したように、堀田は焼きそばを箸でつまみ、その口へ運んだ。


 その瞬間。


 昔の楽しかった記憶が、堀田の中で花火のように打ち上がった。


「おいしい!」


「いつもたらふく高級なもの食べてるのに、口に合うんですか?」


「美味しいものはみんな一緒だよ!僕は鈴木料理長のグラタンもビーフシチューも、堀田さんの焼きそばも好き!」


「……そうですか」


 そう答えながら、もう一口。


 昔なら豪快に入れていたキャベツも、今日は小さく食べやすくしておいてよかった。


「おいしい!僕、こういう方が好きだなぁ」


「俺がまた、いつでも作ってあげますよ。少しは満足しましたか?」


「あと10本だけ食べていい?」


「はい」


 あと2時間もすれば昼食だというのに。


 君野は嬉しそうに、焼きそばを1本ずつ噛み締めていた。


 その後、堀田は屋敷中を忙しく動き回った。


 そうこうしているうちに、夜を迎える。


「……っ!」


 突然、強烈な眠気に襲われた。


 立っていられない。


 これは――。


 きいろが吉郎にキスした合図だ。


「堀田?」


 周囲の使用人たちが、不思議そうにこちらを見ている。


 その姿を最後に、堀田の意識は闇へ沈んだ。




「ワン!!」


「うわっ!!」


 耳元で響いた大きな鳴き声に、堀田は飛び起きた。


 俺は――。


 相変わらず、ケージの中だった。


 そして上を見上げる。


 ケージを覗き込んでいるのは、シャム猫、ボルゾイ、そして黒鳥。


 桜谷(さくらたに)、きいろ、貴聞。


 どうやらケージは、以前置かれていたタンスの上から床へ移されている。


 誰かが動かしたらしい。


「にゃー」


 桜谷が鳴いた。


 ……そういや、喋れないんだった。


 何か意思疎通の方法くらい、決めておけばよかった。


 そう思った直後。


 ボルゾイのきいろが、突然ケージへ噛みついた。


「……!?」


 そのまま、お構いなしに左右へ激しく振り回す。


「にゃっ!!!」


「クアッ!!!」


 ケージの中に敷かれていたマットの資材が飛び散り、シャム猫と黒鳥の顔面を直撃した。


「ちゅい!ちゅいちゅい!!」


 やめろ!!


 そう叫んでいるつもりなのに、口から出てくるのは情けない鳴き声だけだ。


 堀田の小さな身体が、柵や巣へ何度もぶつかる。


 すると――。


 ガチャッ。


 勢いで、入口の柵が開いた。


「ちゅっ!?」


 ハムスターはそのまま、コロコロとマットの上へ転がり落ちた。


「何すんだ!!」


 そう訴えようと振り返った瞬間。


 ボルゾイが、ハムスターへ向かって大きな口を開けた。


「……!?」


 その光景に、シャム猫と黒鳥までギョッとする。


 しかし、咀嚼はされなかった。


 ハムスターはそのまま、ボルゾイの口の中へ収納された。


「おい白黒!!お前、正気か!?」


「わうー」


 ボルゾイが低く唸る。


 尻尾は軽く振られている。


 ……よく分からない。


 ただ、俺をケージから出してくれたってことは、少なくとも今回はレースで争う気はないらしい。


 その横では、シャム猫が飛び散った資材をクンクンと嗅いでいた。


 だが、めぼしいものはなかったらしい。


 顔を上げ、1つ鳴いた。


 そのときだった。


 ――ポロン。


「……?」


 どこからか、ギターの音が聞こえた。


 ――ポロロン。


 4匹の動きが、同時に止まる。


 聞き間違いじゃない。


 ギターだ。


 優しい音色の、アコースティックギター。


 クラシックだろうか。


 4匹は音を追うように部屋を出た。


 そして――。


「……!!」


 廊下を見た瞬間、堀田は目を疑った。


 一面が、真緑だった。


 廊下という廊下に、芝生のようなものが生い茂っている。


 いや……芝生か?


 よく見ると妙に人工的だ。


 明らかな偽物感溢れる芝。


「クワッ!」


 黒鳥の貴聞が、何かに気づいたように騒ぎ始めた。


 ギターは……等々元(とうとうげん)さんだよな。


 じゃあ、この緑って――。


「モヒカン!?」


 俺はそう叫んだ。


 つもりだった。


「フシーー!!!」


「キーキキキキ!!!!」


「ワオーーーン!!」


 3匹が一斉に鳴く。


 次の瞬間、きいろが口を開いた。


「ちゅっ!?」


 吐き出された堀田は、再び床の上をコロコロと転がる。


 しかし、きいろはそんな堀田には目もくれない。


 鼻先を床へ近づけると、何かを探すように突然走り出した。


「お、おい!」


 当然、声は届かない。


 その横をシャム猫まで駆け抜ける。


 桜谷は近くのドアへ飛び込むと、部屋中を必死に探し始めた。


 黒鳥の貴聞も、いつの間にか別の方向へ向かっている。


「……」


 まさか。


 こいつら――。


 自分の痕跡を探してるのか!?


 昨日、みんなで協力すると決めただろ!


 そう思った。


 思ったのだが――。


「……俺の焼きそば!!」


 ある。


 絶対にある……!!


 昨日も今日も、あれだけ吉郎に焼きそばを、あの頃の暮らしを意識させたんだ。


 何も残っていないはずがないんだ……!!


 吉郎は俺のものだ!!


 気づけば堀田も、完全に彼らに伝染し、まるで宝物を探すかのように胸が躍る。


 短い4本足を必死に動かし、近くの部屋へ飛び込む。


 そして他の3匹と同じように、自分の痕跡を夢中で探し始めた。

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