第51話「地下の画家と女優」
きいろは静かにキャンバスと向き合っていた。
すでに、いくつかの絵が仕上がっている。
一体どうやって描いたのかと思うほど精緻なボルゾイの絵。
かと思えば、感情を思いきりぶつけたように絵の具を飛び散らせ、手で直接描き殴ったようなものまである。
どれも同じものを2度と描けそうにない。
そんな再現不能な画たちが、地下室の壁にいくつも掛けられていた。
そして今も、きいろは桜谷に広い背中を向けたまま、黙々と筆を走らせている。
「ねえ、それ飽きないの?」
「ああ」
ゴスッ!!!
突如、鈍い音が響いた。
きいろの顔すれすれを何かが通過し、目の前のキャンバスへ突き刺さる。
それでも身体を動かすことなく、きいろは目だけを上げた。
真っ赤なハイヒールだった。
「『ハイヒール刑事』。これが、私の深夜の地上波作品デビュー」
「知らないな」
きいろは驚きもせず、再び筆を走らせる。
「こういう時、ワインがあったら、この光景も楽しめるのかしらね」
「さあな」
「今、持って来ようかしら」
桜谷はそう言うと、1度そのまま地上へ上がっていった。
しばらくして、ワインボトルと2つのワイングラスを手に戻ってくる。
そして、キャンバスを見た瞬間――足を止めた。
「あら、いいわね」
先ほど突き刺した真っ赤なハイヒール。
そこから、花が咲いていた。
きいろは桜谷がいないわずかな時間で、異物だったはずのハイヒールすら絵の一部へ変えていた。
桜谷は満足そうに眺めながら、2つのグラスへ白ワインを注ぐ。
そのうち1つを、きいろへ差し出した。
朝の食事でも、当主に呼ばれて参加したパーティー会場でも、酒だけは頑なに拒んでいた男。
しかし今度は、何も言わずに受け取った。
桜谷が自分のグラスを向ける。
きいろも無言でそれに合わせた。
桜谷はそのまま足を組み、積み上げられた段ボール箱へ身体を預けると、きいろが絵を仕上げていく様子を眺め始めた。
「あの御曹司、等々元さんをずいぶん強く信頼していたわ。あの関係をかき回すのは無理そうね」
「……」
「あれだけ誰かに必要とされる場所があるって、どんな感じなのかしら」
桜谷はグラスを揺らしながら、きいろの背中を見る。
「それで見つかったの?」
「……」
「寂しくないの?」
「なにがだ」
「愛する人がいなくなっちゃって。それなのに今は、私と飲めないお酒を酌み交わしてる」
桜谷はわずかに口元を緩めた。
「あなたはとても真面目だから」
「……」
きいろは何も答えなかった。
代わりに、手にしていたグラスを傾ける。
残っていた白ワインを、ぐびっと一気に飲み干した。
そして――
パリン!
空になったグラスが床へ落ち、ガラスの破片が散らばった。
「……」
たった1杯。
それだけだというのに、きいろの身体がわずかに揺れている。
足元も、すでに怪しい。
その様子を見た桜谷が、楽しそうに笑った。
「ふふ。あなたの弱点って可愛いわね」
きいろは無言のまま、睨むように桜谷を見る。
「クールな画家なのに、グラス一杯飲んだだけで酔いつぶれるなんて」
「……」
きいろはその言葉にも反論せず、ようやく筆を下ろした。
そして、何でもないことのように口を開く。
「お前も、もちろんついてくるんだろ」
「何が?」
「俺の個展」
「来てほしいの?」
「当たり前だ。お前は俺の女だ」
桜谷は一瞬きょとんとしたあと、呆れたように笑った。
「あら。まだそれ、続いていたのね」
グラスを口元へ運びながら、わざとらしく首を傾ける。
「社交会が苦手だからって、人の気持ちを踏みにじるもんじゃないわ」
「踏みにじってはない。お前にも得があるはずだ」
「得?」
桜谷は笑う。
「それは、あなたが私にふさわしいほど人気が出たらの話よ」
「俺たちは、もう切っても切れない縁になった」
きいろは少し間を置いた。
「あのクソガキを含めてな」
「そうね」
桜谷は否定しなかった。
「ハムスターの檻に入れられていなくても、もう私たちは、この家で飼われている動物と大して変わらないわ」
そして、きいろを横目で見る。
「でも私は、あなたの方が問題児だと思うけど」
「ふん。飲めない酒を飲ませておいて、よく言う」
「噛みつかれた首がなんだか痛いの。お酒ごときでガタガタ言わないで」
「だが、それで分かったこともあった」
その言葉に、桜谷の目がわずかに細くなった。
「そうね。話し合わなくても、あなたとは妙に意見が合うから……」
桜谷はそう言って、ボトルを傾ける。
白ワインが、再びグラスの中へ注がれていった。
「この君野くん争奪戦の末路って、どうなるのかしら」
「お前はいいのか」
「何が?」
「女優としてのキャリア、そのすべてを白戸家に捧げても」
桜谷は少しも迷わなかった。
「ええ。別に構わないわ。だって、もう私の役割は終わったもの」
「……ずいぶんな自己犠牲だな」
「自己犠牲じゃないわ。自分で選んだ道よ」
桜谷はグラスの中で揺れる白ワインを見つめる。
「そもそも芸能界って、そういう世界。誰かに飼われるなんて、よくある話。でもね――」
桜谷は立ち上がると、きいろが置いた筆を手に取った。
そして、その穂先を自分のワイングラスへ沈める。
白ワインをたっぷりと含ませた筆を、そのまま目の前のキャンバスへ走らせた。
「ただ飼われるつもりはないわ」
きいろは黙って、その筆先を目で追う。
「内臓を食い荒らして、全身を蝕む。2度と口を閉じられないように、最後にはその口から顔を出してやるの」
「なら、野望だな」
「ええ。そうよ」
桜谷は楽しそうに笑った。
「鎖で繋がれているのは私じゃない。それを持ちたくてたまらない方よ」
その瞬間、桜谷の身体がふらりと傾いた。
後ろへ倒れかけた身体を、きいろがすぐに支える。
桜谷はその腕に預けたまま、顔だけを振り向かせた。
「あなたも気をつけることね。本気で噛みつくかもしれないわ」
「酒臭い。お前を見てるだけで酔いそうだ」
「ふふ。その歪んだ顔、最高ね」
桜谷は何事もなかったように身体を起こすと、再びグラスを傾けた。
「ねえ。あの子の末路はどうなると思う?」
「……貴聞か」
「もう私たちにとって、大事なスポンサーじゃない」
「そうだな」
「何を考えているのかしら。まだ、そこが分からない」
桜谷の声から、先ほどまでの戯れた調子が少しだけ消える。
きいろも、再びキャンバスへ目を向けた。
「お前も昨日、気付いていただろ」
「何に?」
「あのレースには、そもそも目的が決められていない」
桜谷のグラスが止まる。
きいろは、これまでのレースを思い返した。
今までは、ただ本能のまま走っていた。
君野を奪う。
誰よりも先に辿り着く。
それがルールだと思っていた。
だが――
昨日の黒鳥は違った。
桜谷を殺したあとも、貴聞は君野を奪いに行かなかった。
それどころか、まるで別の何かを見ているように、その場に留まり続けていた。
そして、過去に聞いたアイツの言葉が蘇る。
――あの世界、僕の王国にできればいいなって思うんだ。
――僕は、あの夢の中で起きていることを、勝ち負けだなんて思ってませんよ。
――それは、あなたたちが勝手に定義したことです。
あの時は、いつもの戯言だと思っていた。
だが昨日の行動を見た今では、意味が違って聞こえる。
貴聞だけが最初から、自分たちとは違うものを見ていたのかもしれない。
そして、昨日のレースでは、この女と妙に波長が合った。
殺されてまで、黒鳥の動きを見たかったのだろう。
そして、こうして地下までやって来た目的も…
「普通、あの場面では守ってくれるのが筋よねえ……」
桜谷の口から出たのは、推理ではなく恨み節だった。
きいろは眉間に皺を寄せる。
「お前がいたら、貴聞が君野に会いに行かない理由が残る」
桜谷のグラスが、ぴたりと止まった。
「……ふん」
「人質は殺す。言い逃れができないようにした」
つまり桜谷を消してしまえば、貴聞がその場に留まる理由も消える。
それでも君野を追わないのなら――別の目的がある。
「もっともらしいこと言わないで」
桜谷は不満げにきいろを見る。
「これは私の気持ちの問題よ」
「……」
女ってめんどくさい……。
きいろはそう思いながら、頭を掻いた。
だが、次にはきっぱりと言ってみせる。
「悪いが、俺は目的を果たすためなら、お前を殺す」
「じゃあ、こう言って」
「何を」
「私にも、貴聞くんにも」
桜谷はグラス越しに、きいろを見つめた。
「殺す前に、『愛してる』って」
「……」
「ワンワンワン。そう言いなさい」
「……分かった」
きいろは観念したように答えた。
こういう異性特有の面倒くささが、どうしても苦手だ。
一方、その露骨に困った顔を見た桜谷は、まるで新しいおもちゃでも見つけたように口元を緩めていた。
「王国建築……貴聞の目的はそれだ」
「彼、言ってたわね。いつかの食事の席で」
桜谷は思い出すように目を細めた。
「どうやって果たすつもりなのかは、まだ見えてこない。それに――君野の本当の気持ちも」
きいろの声がわずかに低くなる。
桜谷はグラスを持ったまま、静かに答えた。
「ダメよ。君野くんだけは」
「……」
「彼にはちゃんと帰る場所がある。でも、それはここじゃないってこと」
「ああ……そうだな」
きいろと桜谷は目を合わせ、静かに頷いた。
2人の目的は、この屋敷に来た時から一貫している。
だが、肝心の君野自身の気持ちも見えない。
もう、消されてしまっているのだろうか…
夢の中で、永遠に繰り返されるレース。
「王国、ねえ……」
桜谷が呟いた。
だが、まだ確証的なものが見つからない。
そうあぐねいているのを、お互い悟っていた。




