第48話「第三次動物レース」
堀田は熱湯の中でワンピースを揉みながら、数時間前のことを思い出していた。
「あれ、これなんで脚本変わったんだ?」
堀田は手にしていた台本の訂正箇所を見て、小首をかしげた。
元はカンナとミスミがメインの話だったはずなのに、最終稿ではミスミが「トワ」と結ばれるエンドに変わっていた。
「事務所が変わったの。それでこの作品、舞台じゃなくて映画でやることになったから。脚本も映画用に変わったの」
「映画!?お前、そんな話――」
「それほどこの作品が良かったみたい」
桜谷の言葉に、堀田は思わず貴聞を見る。
彼は何食わぬ顔で、新しい台本をめくっていた。
「え、主役はお前?」
「そう。初の主演なの」
「いいじゃないですか」
「……何が?」
「桜谷さんは、それほど輝ける女優さんですから」
貴聞は微笑んだ。
「舞台だけでは、もったいないですよ」
「……」
そんな話、芸能界では普通なのか?
だって、昨日まで小規模な舞台だったはずだ。
それが突然、映画になって。
桜谷が主演になって。事務所も移籍…?
脚本まで、まるで別のものになっている。
――もう、これは俺達の物語ではない。
「なら、トワはお前が?」
「やだなあ、僕は俳優じゃない。でも、相手役は今をときめく池澤圭吾」
「え!?マジか!」
エンタメに興味のない俺でも知っている。
街の看板にも、デパートにも、大企業の広告にも、デカデカと顔が出ている人気若手俳優だ。
いや。
これは桜谷のステップアップなんだ。
そうなら、この話がこれ以上、どれだけ改変されたって仕方がない。
桜谷が何を思ってこの物語を演じていたのか。
そこにどれだけ自分を重ねていたのか。
そんなものはもう、映画という大きな流れの中では必要ないのかもしれない。
桜谷の思いは、エンタメに消されて、商業になった。
――そう思うのは、俺のエゴか?
「……主演、おめでとう」
「ありがと」
堀田の言葉に、彼女は無表情のままそう答えた。
すると貴聞が台本を閉じ、立ち上がった。
そのまま桜谷の前に立つ。
「桜谷さん。今後は僕が演技を見てあげます」
「なんでお前が監督なんだよ」
堀田が思わず口を挟む。
だが、桜谷は貴聞を見上げただけだった。
「もう、役に自分を重ねる必要はないでしょう」
桜谷の目が、僅かに揺れた。
「あなたはあなたのために、女優を続ければいい」
「……そうね」
「は?」
堀田だけが、間の抜けた声を漏らした。
「いいわ。よろしく」
あまりにも、すんなりと答えた。
それから、いつも通り演技の練習が始まった。
いや――
いつも通りではなかった。
変わったのは、貴聞が足を組んで演技を見るようになったこと。
そして――
桜谷の感情が、死んだこと。
台詞も、表情も、間の取り方も正確だった。
上手くなっている。
前よりもずっと。
なのに、何も感じない。
以前は台詞の一つ一つに、嫌になるほど桜谷自身がいた。
ミスミを演じながら、誰かを見ていた。
誰かに怒っていた。
誰かを許せないでいた。
だが、彼女はもう、ミスミを正確に演じるための殻のようだった。
あれが上手くなったということなのか。
俺には、よく分からない。
「……」
堀田は熱湯の中からワンピースを持ち上げた。
ぽたぽたと落ちる水滴に混じって、黄色と黒が水の中へ溶け出している。
それでも、完全には落ちていない。
「しつこいな……」
誰の色のことを言ったのか。
自分でも分からなかった。
「お風呂、ありがとうございます!今、体ぽっかぽかです」
浴場から上がってきた君野は、新しい真っ白なワンピースに着替えていた。
その隣には、同じように絵の具を綺麗に洗い流したきいろがいる。
2人は手を繋いでいた。
それどころか、君野は嬉しそうにきいろの腕へ抱きついている。
「……妙に、仲良いな」
本当に、何もない。
――と思いたい。
きいろは堀田を気にする様子もなく、先に君野を地下室へ通した。
扉が閉まりかけた、その時だった。
きいろが足を止める。
「今夜、あの夢の世界でレースが始まる」
「レースって、あの動物になるやつだよな」
「俺が君野にキスしたからな」
「何!?お前、やっぱり地下で君野を!?」
思わず声を荒らげる。
だが、きいろは眉一つ動かさない。
「ただの召使いには関係ない」
「っ……」
その言葉に、堀田は何も返せなかった。
「ただ、そういう関係になるのも時間の問題だ」
「え?なってないのか?」
「次、あのレースが終わって地下に籠ったら、俺はあいつを襲うかもしれないな」
「あいつ?」
「君野を。そして貴聞を」
「……は?」
きいろの腕に浮かぶ血管が、僅かに脈打った。
同じ「襲う」でも、その意味が真逆なのだろう。
片方は欲望。
もう片方は――殺意だ。
「あのさ……」
堀田は先ほどから引っかかっていたことを思い出し、きいろを見る。
「なんか、桜谷と貴聞がおかしいんだ」
きいろは黙ったまま、こちらを見る。
「女優として出世したいからって、大切な思い出も簡単に変えて、貴聞側につくんじゃないかって思ってる……」
「それならそれでいい」
「よくねえだろ!」
「俺には関係ない」
きいろは即答した。
「それに――今のお前が何をしたいのか、俺には理解できない」
「……」
何か言い返そうとした。
だが、言葉が出てこない。
きいろはそんな堀田を置き去りにして、地下室の扉を閉めた。
ガチャン。
目の前で鍵がかかる。
「……」
なぜだろう。
ただ扉を閉められただけなのに。
まるで、自分だけが追い出されたような気がした。
本当だ。
今の俺って、何を求めているんだ。
桜谷だって、もう君野と決別して、女優として自分の道を進もうとしている。
君野は君野で、何も知らないままきいろの隣で笑っている。
なのに俺は。
「俺は、一体……」
堀田は答えを出せないまま、来た道を戻った。
君野の汚れたワンピース。
それから、皆が使ったシーツ。
洗濯機にかけるものを一つずつ集めていく。
そんなことをしているうちに、夜は更けていった。
「――はっ!」
目を開けた。
真っ暗だった。
いや。
見覚えがある。
ここは――
夢の中の白戸家だ。
「……またか」
自分の手を見る。
小さい。
丸い。
毛だらけだ。
そして目の前には、どう足掻いても出られそうにない、いつものハムスターゲージ。
屋敷の暗闇から、奇妙な動物たちの鳴き声が響いている。
だが、昼間にきいろから聞かされていたおかげか、前ほど混乱はしなかった。
「……」
堀田は鉄格子を掴む。
力を込める。
ガチャ。
ガチャガチャ。
「くそっ……」
びくともしない。
人間なら簡単に開けられそうな檻なのに、小動物のひ弱な手ではどうすることもできない。
それでも、堀田は手を離さなかった。
何度も鉄格子を揺らす。
ここから、抜け出してみたい。
今までは、ただこの夢が終わるのを待っていた。
誰かが君野を見つけて。
誰かがキスをして。
勝手に終わってくれれば、それでいいと思っていた。
その時だった。
「ニャァ……」
暗闇から、猫の鳴き声が聞こえた。
堀田は鉄格子から手を離し、顔を上げた。
「桜谷……!」
暗闇の中から、シャム猫が姿を現した。
今は月明かりが目の前にあるせいで、大きなその姿に思わず怯む。
最初にこの世界で出会った時には、いきなり顔を引っ掻かれた。
だが――
今は違う。
牙を抜かれてしまったかのように、おとなしい。
「チュー……」
堀田の小さな鳴き声に、シャム猫は尻尾をゆっくりと揺らした。
「ニャ……」
弱々しく鳴く。
「……なんなんだ?」
昼間の桜谷と同じだ。
静かすぎる。
そう思った、その時。
バサッ。
バサバサッ――。
背後から、大きな翼が空気を叩く音がした。
「……!」
窓から差し込む月明かりの中へ、黒い羽根が舞い落ちる。
一枚。
また一枚。
堀田の背筋を、嫌な予感が走った。
「やめろ……!」
叫んだつもりだった。
「チューッ!!」
響いたのは、甲高いネズミの声だけ。
その声に反応したのか、シャム猫が素早く身を翻した。
直後。
そのすぐ横を、鋭い嘴が切り裂いた。
「クアッ!!!」
黒鳥が鳴く。
「……貴聞」
君野を追いかけようともしない桜谷。
その桜谷に、殺意を向ける貴聞。
そして――
シャム猫がやって来た場所には、ゲージに閉じ込められた自分がいる。
「……」
なんとなく。
その狙いが、分かってしまった。
「やめろ!!逃げろ!!お前はここに来るな!」
必死に叫ぶ。
だが、
「キュッ!キュッ!」
自分の口から出ているのは、意味のない鳴き声だけだった。
黒鳥が再び翼を広げる。
鋭い嘴が、シャム猫の白い首筋へ向けられる。
それでもシャム猫は逃げなかった。
箪笥の上。
ハムスターの檻の前。
そこに降り立った黒鳥を、じっと見つめている。
「……?」
堀田は違和感を覚えた。
殺されそうになっているのに。
逃げようともしない。
黒鳥もまた、すぐには襲わない。
互いに見つめ合っている。
まるで――
最初から、息が合っていたようだった。
「ギイイイイイ!!!」
突然、黒鳥が発狂したかのような鳴き声を上げた。
大きな嘴が開く。
そのままシャム猫へ襲いかかろうとした――
その時だった。
「お、おい!!」
堀田は思わず鉄格子を掴んだ。
「何やってんだ、白黒!!」
必死に叫んでも、
「キュッ!キュッ!」
響くのは、小さなハムスターの鳴き声だけ。
ボルゾイは聞く耳を持たない。
噛みついた牙を、離そうともしなかった。
「ニャッ……ギャ……!」
シャム猫の4本の脚が、激しく床を掻く。
爪が何度も床を引っ掻き、その動きが次第に弱くなっていく。
そして――
動かなくなった。
「……」
静寂。
ボルゾイがゆっくりと顔を上げる。
口元には、白い毛が数本張りついていた。
「お前……」
その光景を見ていた黒鳥も、羽ばたいたまま動きを止めている。
「カ……」
明らかに、驚いていた。
まるで――
そこまでやるとは思っていなかった。
そう言っているようだった。
ボルゾイは、そんな黒鳥を一瞥する。
「……グルル」
低く、喉を鳴らした。
黒鳥が大きく翼を広げ、距離を取る。
「カァッ!」
怒っている。
いや。
怯えている?
堀田には分からない。
ただ、黒鳥の動揺だけは伝わってきた。
「……何してんだよ」
堀田は呟く。
頼む。
もう、この悪夢を終わらせてくれ。
ボルゾイと黒鳥は、そのまま睨み合っていた。
1分。
2分。
どちらも動かない。
時折、黒鳥が短く鳴き、ボルゾイが低く唸る。
何かをやり取りしているようにも見える。
だが、堀田には鳴き声の意味など分からない。
それは――
あいつらも同じなのだろうか。
「……」
次の瞬間。
「グルルル……!」
ボルゾイが低く唸った。
口元から、唾液が糸を引いて落ちる。
「カッ――」
黒鳥が翼を広げた。
だが、遅い。
ボルゾイが飛びかかった。
その白い牙が――
黒鳥の長い首へ食い込む。
「ギィッ――!!」
「……っ!」
堀田は目を背けた。
見ていられない。
さっきまで生きていたシャム猫。
そして今度は、黒鳥。
肉を食いちぎろうとする獣の音だけが、暗い屋敷に響いている。
「やめろよ……」
堀田は鉄格子から手を離した。
もう何も見たくなかった。
小さな体を丸めるようにして、ゲージの中の巣へ逃げ込む。
「……」
暗い。
外の様子は見えない。
ただ、しばらくして――
タッ。
タッ。
タッタッタッ――。
ボルゾイが遠ざかっていく足音だけが聞こえた。
やがて、それすら聞こえなくなった。
「……」
終わったのか?
堀田は恐る恐る目を開ける。
その時だった。
「……ん?」
巣の中。
自分のすぐそばで、何かが光っている。
「なんだ、これ……」
暗闇の中に、白い光が浮かんでいた。
イルミネーションのような、小さな光のかけら。
淡く明滅しながら、床材の隙間を照らしている。
「……」
なんだ?
これ。
どこかで――
見たことがあるような。
堀田は光へ近づいた。
その淡い明かりに照らされ、床材の奥に何かが埋まっていることに気づく。
「……なんかある」
小さな前脚で床材を掻く。
ザッ。
ザッ。
自分でも驚くほど自然に掘っていた。
こんな時だけ、体は完全にハムスターらしい。
「よいしょ……っと」
床材の中から現れたのは――
花だった。
「……なんで?」
薔薇に似ている。
けれど、人間だった時に見る花とは大きさがまるで違う。
今の堀田と、ほとんど同じ大きさ。
花びらはゆっくりと開き、その内側から淡い光が漏れていた。
「……」
堀田は吸い寄せられるように、その中を覗き込む。
「え?」
息を呑んだ。
花びらの中に、
女の子がいた。
今の堀田と同じくらいの、小さな女の子。
ドレスを身にまとい、開いた花の中にちょこんと座っている。
「……誰?」
堀田が呼びかけた。
その時だった。
遠くから――
「ワオーーーーン……」
ボルゾイの遠吠えが響く。
それがまるで、このレースの終わりの合図のように感じた。




