第47話「汚れたキャンバス」
きいろは地下室で、壁のような大きなキャンバスを前に仁王立ちしていた。
元々真っ白だったキャンバスには、花火のように絵の具が飛び散っている。
その被弾を浴びた白シャツも、色とりどりに染まっていた。
筆で何かを描こうとしては、拳で叩きつける。
技術か。演出か。
――自分でも、もうわからない。
その下には、君野が先ほど指で描いた黄色い半円や、赤い丸、ニコニコマークが残されていた。
描いた本人はとっくに飽きて、今はスマホのアプリゲームに夢中だ。
だが、ここ数日。
君野が描くものを見ていると、何かが見えてきそうで――見えない。
段ボールベッドにうつ伏せになり、足をぶらぶらと揺らしている。
その白いワンピースがところどころ黄色く染まっているのは、自分の欲望のせいだった。
その後ろ姿を眺めていると、あの動物レースでボルゾイになった時の感覚が蘇る。
獲物を見つけた獣のような。
あれはきっと、貴聞も、桜谷も同じなのだろう。
きいろは黒い絵の具を塗りつけた手のひらで、キャンバスを叩いた。
バンッ、と地下室に破裂音が響く。
君野が思わず振り向いた。
その姿をじっと見ながら、きいろは黒の中から一匹の鳥を浮かび上がらせていく。
写実的な、真っ黒な鳥。
「鳥を描いているの?」
「ああ」
「なんで鳥なの?」
「憎いからだ」
「好きなものは描かないの?」
「お前が描かないと、自分の好きな絵にならない」
「でも、どうせ塗りつぶしちゃうでしょ?」
「ああ。その上から描く」
きいろは黒鳥を睨んだ。
「そうすれば、少しはこのクソみたいな鳥も愛せる」
すると君野は、きいろの手のひらに人差し指をグリグリと押しつけた。
指先を真っ黒にして、そのままキャンバスの中央へ何かを描き始める。
「何を描いてる」
「なんでしょう?」
「家」
「ううん!お城!」
君野は楽しそうに、真っ黒な城を描いた。
「なんでそれにした」
「え?ゲームで建築してるから!」
「……黄色とは関係ないのか」
「うん。この黄色いワンピースみたいな、なんか懐かしいって気持ちにはならないかな」
そう言って、君野はまたキャンバスへ落書きを始める。
上から見ると、もうただの妖精だ。
21歳になったというのに。
この角度も、華奢な体も、振る舞いも、笑顔も、仕草も。
高校生の頃から何一つ変わらない。
変わらないでいてほしい。
その願いを、そのまま体現しているようだった。
それに比べて俺は。
地下で誘拐ごっこをしている、ただの頭のおかしな画家。
それだけだ。
――なのに。
「ふんふんふーん。黒のほうが、やっぱりよく映えるね……あ!」
白いワンピースに、黒い絵の具がぽたりと落ちた。
君野は慌てて払おうとする。
だが、自分の手まで黒く汚れていることを忘れていた。
「あ!僕、手汚れてたんだった!!」
白の上に、さらに黒が広がった。
「それ以上、汚すな」
気づけば、きいろは君野の体をキャンバスへ押しつけていた。
黒くされるのが、どうしても気に食わない。
自分でも馬鹿げていると思う。
それでも、ボルゾイの牙が今にもその首筋へ食らいつきそうなほど、腹が立った。
「な、なにか気に食わないことしちゃった?」
きいろは木べらパレットの黄色へ両手を押しつけた。
そのまま君野の頬を挟む。
「ぶっ!」
黒と黄色が滲み合い、なんとも言えない色が頬いっぱいに広がった。
そして次の瞬間、唇にキスが飛んだ。
長いキスだった。
……スナック効果だっけ。きいろ君がそう話していた。
ずっと一緒にいたせいなのか。
それとも、寂しかったのか。
君野はそう思いながらも、抵抗しなかった。
こんな彼が嫌いじゃない。
彼もまた、それを示そうとしている。
そんな気がした。
「んべっ!」
唇が離れ、見つめ合った直後。
君野が変な顔をした。
口に絵の具が入ったらしい。
「……風呂入るぞ」
「う、うん……」
気づけば、前も後ろも絵の具だらけだった。
2人は汚れた手を繋いだまま、地下室のドアを開けた。
真っ赤なカーペットの上を、2人で彷徨うように歩く。
「お風呂ってどこだろうね。あの!召使さん!!」
君野が前を歩いていた召使へ声をかけた。
その男が振り返る。
「!」
驚いたのは、堀田だった。
「あ……よ、よ……君野様」
「あの、召使いさん。お風呂はどこでしたっけ」
絵の具で汚れた無邪気な顔が、自分を見上げている。
その隣には、同じく何があったのかというほど顔を汚したきいろが、仏頂面で立っていた。
「ああ、風呂はこちらです」
「お前が連れてけ」
きいろが君野の手を離した。
「俺が?」
「主人命令だ。お前が1人で君野を洗ってやれ。今の俺は貴聞より偉い」
それだけ言うと、きいろはさっさと自分の部屋へ向かってしまった。
その背中へ声をかけようとして、堀田はやめた。
辺り一面が絵の具で汚れている。
それに――ここへ辿り着く前に起きた出来事が、まだ頭の中で整理できていない。
隣を見る。
「すごい、汚れてますね」
「ごめんなさい。床……実は地下室からずっとこんな状態で……」
「大丈夫です。汚れくらい、拭けばなんとでもなります」
「等々元さんに怒られちゃう」
「大丈夫。いない間に、俺がなかったことにするレベルで綺麗にするんで」
堀田は君野を風呂へ案内した。
手を繋ぐ――。
そんなことさえ、今ははばかられる。
彼は貴聞のものだから。
けれど、自分の後ろをちょろちょろとついてくる君野を見ていると、嫌でも思い出す。
あのアパートへ引っ越したばかりの頃。
道をなかなか覚えられなくて。
俺の手を離したくないと、不安そうな顔をして。
あれが可愛くて、愛おしくて、仕方なかった。
堀田は拳を握りしめた。
そして、風呂場のドアを開ける。
「今、着替えを取ってきます」
「ありがとうございます!」
君野はぺこっと頭を下げた。
そして何の躊躇もなく、汚れたワンピースを脱ごうとする。
「待ってください!俺、まだここにいますけど?」
「あ、ごめんなさい!お目汚しですよね」
「いや、そうじゃなくて。君野様って、裸見られるの嫌じゃなかったでしたっけ」
「……あ、ほんとだ」
君野は慌ててスカートから手を離した。
堀田は思わず目を逸らす。
だが君野は、そんな堀田から目を離さなかった。
「召使いさん、お名前なんて言うんですか?」
「ああ……俺は堀田友樹。君野様と同じ21歳で、ここで召使いをしてる」
――もう、名前まで忘れかけてるのか。
そういや俺たち。
いつから、まともに話してなかったんだっけ。
「そうなんだ!よろしく、堀田さん!僕、君野吉郎です!よろしくお願いします!」
「ああ……はい。よろしくお願いします」
初対面みたいだった。
俺だけが、全部覚えている。
「……あの、手がヌルヌルしてて、ボタン外せなくて。いいですか?」
君野が一歩近づいた。
「ああ」
背中のボタンへ指をかける。
一つ。
また一つ。
外していく。
途中で堀田の手が止まった。
「あの、これ一式脱がしてもらえますか」
「ああ!……体、見えるけど。いいのか?」
「はい!堀田さんになら」
「……なら?」
君野が目を瞬いた。
「あ……変ですね!『なら』って!でももう絵の具だらけなので……」
慌てて笑って、言い直す。
「……そうですか」
ほっとした。
はずなのに。
どうして、こんなに寂しい。
ただ、その背中は確かに俺が愛した背中だった。
何も覚えていないくせに。
こんなに無防備に背中を預けて。
俺が安全だとでも思っているみたいに。
「……!」
待て。
俺、今――。
「じゃあ、お風呂入ってきます」
君野はタオルを抱え、大浴場へ消えていった。
「……」
静かになった脱衣所で、堀田だけが立ち尽くす。
芝居のせいだろうか。
眠っていたものが、勝手に起きてきただけなのか。
でも。
こんな気持ちを、今さら持っていいのだろうか。
俺は一度たりとも、君野吉郎を忘れたことなんてない。
なのに今は、俺が記憶喪失だ。
覚えているくせに。
知らないふりをしている。
意図的で――君野より、ずっとタチが悪い。
「……なら」
さっきの言葉が、耳から離れない。
――堀田さんになら。
何も覚えていない君野が。
どうして、俺にだけそんな言葉を使った。
「まだ……」
期待するな。
偶然だ。
意味なんてない。
そう思うほど、期待している自分がいる。
堀田は床に置かれた、君野のワンピースを拾い上げた。
白かったはずの布地には、黒と黄色がぐちゃぐちゃに入り混じっている。
知らない色ばかりが増えている。
それでも。
堀田は布地を握った。
「まだ、俺の色は残っているのか……」
返事などあるはずもない。
ワンピースを水へ沈める。
黒が流れる。
黄色が滲む。
何度洗っても、白には戻らない。
堀田は黙ったまま、それを一心不乱にじゃぶじゃぶと洗い続けた。




