第46話「僕のミスミ」
その日の夜。
貴聞は使い込まれた台本を片手に、桜谷の部屋の前に立っていた。
コンコンコン――。
3回、扉を叩く。
「桜谷さん。起きてますか?」
しばらくして、扉の向こうから足音が近づいてきた。
カチャリと鍵が外れる。
「……何?」
扉の隙間から顔を覗かせた桜谷は、すでに寝る準備をしていたらしい。
長い黒髪を下ろし、薄手のカーディガンを羽織っている。
その視線が、貴聞の手にある台本へ落ちた。
「あら、珍しいわね」
「台本で、分からないところがありまして」
「明日まで待てないの?」
「はい。それで眠れなくて」
即答だった。
桜谷は呆れたように息を吐く。
「仕方ないわね。入りなさい」
「ありがとうございます」
貴聞は嬉しそうに微笑み、部屋へ入った。
扉が閉まる。
桜谷は化粧台に置いていた自分の台本を手に取った。
「それで、どこをやりたいの?」
「トワとミスミのところです」
「それって……」
「カンナがいないところ」
桜谷がわずかに眉を上げた。
「堀田がいると、分からないことも多いので」
貴聞は向かいの椅子へ腰掛け、台本を開く。
「もっと知りたいんです。どうしてトワがミスミを欲しがるのか」
「あなたが出るわけでもないのに、熱心ね」
「せっかくやるなら、ちゃんとやりたいと思って」
貴聞はそう微笑んだ。
「どこから?」
「ここから」
貴聞がページを見せる。
ミスミが、自分の失った記憶についてトワへ打ち明ける場面だった。
「分かったわ」
桜谷が台本へ目を落とす。
そして――顔を上げた。
「……トワ」
それだけで、部屋の空気が変わった。
貴聞は思わず目を細める。
さっきまで目の前にいた桜谷瑠璃子が消えている。
これを、直接味わってみたかった。
堀田と一緒に芝居をしたときから、ずっと気になっていた。
役に入った瞬間、声も、表情も、視線の動かし方まで変わる。
目の前にいるのは、もう桜谷瑠璃子ではない。
ミスミだ。
貴聞も負けじと、彼女を見つめる。
台本から目を離し、覚えてきた台詞と感情だけを頼りに、トワへ入っていく。
――トワは、僕だ。
そう思った途端、不思議なほど自然に感情がついてきた。
どうして君を、こんなに愛しているのに――。
胸の奥に生まれた苦しさが、台本に書かれた文字を追い越していく。
目の前にいるミスミが、女神のように思えてくる。
けれど、その奥にはもう1人いる。
役を演じている、等身大の女性。
桜谷瑠璃子。
演技は続いていた。
ミスミ――いや、桜谷が俯く。
その姿を見つめながら、貴聞はふと口を開いた。
「ミスミ……いや」
そこで一度、言葉を切る。
「瑠璃子さん」
桜谷が顔を上げた。
突然本名を呼ばれても、動揺しない。
表情ひとつ崩さず、ただ貴聞を見つめ返している。
その反応を見て、貴聞はにこっと笑った。
「……やっぱり、演技だったんですね」
「あら。何が?」
「大量にお酒を飲むのも、こうして僕たちに演技指導をするのも」
貴聞は桜谷の顔をじっと見つめる。
「あなたがあまりにも動揺しないから、逆に不自然だったんです」
「私は女優よ。こんなことで乱れたりしないわ」
「そうなんですよね」
貴聞は素直に頷いた。
「だから僕、もっとミスミを知りたくなりました。今ではすっかり桜谷さんのファンです」
「いい心がけね」
桜谷は涼しい顔で台本をめくる。
「あなたを思いっきり振る場面が届くのが楽しみだわ」
「それは嫌だなあ」
貴聞は笑った。
そして再び、彼女をミスミとして見つめる。
「ねえ、ミスミ」
「何?」
「僕、もっと君の可愛げがあるところが見たい」
「あら。今の私は可愛くない?」
「可愛いよ。でも――」
貴聞は微笑んだまま続けた。
「一緒に地下室の扉を開けない?」
その瞬間。
桜谷の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
貴聞はそれを見逃さなかった。
「そこに君の真実がある」
そして、楽しそうに笑う。
「そうしたら、もっと僕の理想のミスミになる」
一拍置いて、トワとして言い切った。
「君は、僕のものになる」
桜谷は貴聞をじっと見つめた。
それでも、役からは降りない。
「言ったでしょ……あなたは次に振られるのよ」
薄く笑う。
「勝手な台詞を付け足さないで」
「ミスミ。そんなに怖がらなくていいよ」
貴聞は役から降りない。
桜谷の瞳に浮かんだ、ほんのわずかな揺れ。
そこへ、さらに踏み込んでいく。
「君がこの屋敷に来たとき、吉郎を見て小さく悲鳴を上げたよね」
「……」
「あれは何だったんだろうって、ずっと考えてた」
桜谷の表情は変わらない。
けれど、返事もない。
「出てって」
冷たい声だった。
それでも貴聞は笑みを崩さない。
「あなたはシャム猫としてレースには参加してる。でも――地下室へ行こうとはしない」
「……」
「それに、台本に出てくるのは堀田……いや、カンナとの思い出ばかり」
貴聞は小さく首を傾げた。
「どうしてなんだろうって思って」
「いいから、もう出ていきなさいよ!!」
桜谷の声が、部屋に響いた。
初めてだった。
どんな言葉を投げても崩れなかった彼女が、はっきりと感情を露わにした。
その顔を見た瞬間、貴聞の口元がにんまりと緩む。
やっと見つけた。
ミスミでもない。
完璧な女優でもない。
桜谷瑠璃子の顔。
嬉しくなって、思わず彼女を抱きしめた。
「やっと見られた」
「……何よ」
「その顔を、ずっと見たかった」
「離しなさい」
「やっぱり苦しかったんだよね。ミスミは、ずっと」
「あなたに何が分かるのよ……」
「分からないから、知りたいんです」
貴聞は抱きしめる腕に、わずかに力を込めた。
「トワとして、あなたを理解したい。それだけです」
「……」
台本に書かれていた、このあとの展開を思い出す。
トワはミスミを抱きしめ、そのままキスをしようとする。
そして――殴られる。
けれど、今はその通りに演じる気にはなれなかった。
腕の中で強張っている彼女を、ただ抱きしめる。
「あなたは、最初から吉郎を奪いに来たんじゃない」
「……」
「助けたかったんですよね」
桜谷の身体が、わずかに強張った。
「もう吉郎は、あの頃のことを覚えてない」
「……やめて」
「だから、謝れない」
「離して」
「謝る相手が、もうどこにもいない」
「……」
「だから舞台にした」
貴聞は静かに続ける。
「昔のことを物語にして、もう一度形にしたかった」
「離して。本気で叫ぶわよ」
「でも――」
貴聞は離さなかった。
「向き合えば向き合うほど、苦しくなった」
「……」
「そんなところでしょうか」
答えはない。
貴聞は桜谷の後頭部へ手を添え、長い黒髪を優しく撫でた。
最初は強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
抵抗を諦めたようにも。
何かを隠し続けることを、諦めたようにも見えた。
「……ミスミ」
貴聞は腕を緩め、彼女の顔を覗き込んだ。
「……」
一筋の涙が、桜谷の目から頬へ流れ落ちた。
貴聞は思わず、その涙を見つめる。
あまりにも綺麗だった。
これさえ演技なのかもしれない。
そう思ってしまうほどに。
いや――これは褒めている。
ミスミは美しい。
やっぱり、カンナにはもったいない。
僕のものになるべきだ。
そんな感情が、トワのものなのか、自分のものなのか。
もう貴聞自身にも分からなくなり始めていた。
貴聞は、台本に書かれていた次の展開を思い出した。
トワがミスミへ顔を近づけ、キスをしようとする場面。
今度は、その流れに逆らわなかった。
ゆっくりと桜谷との距離を縮める。
「僕が君を幸せにできる」
その言葉に、桜谷が静かに口を開いた。
「……あなたも同じ」
「え?」
貴聞は小首を傾げた。
桜谷の目から、またひとつ涙がこぼれる。
「あなたは、あの頃の私と同じ」
「同じ?」
「エゴで、自己中で……どうしようもなかった私」
涙を流しながら、それでも桜谷は貴聞から目を逸らさなかった。
「あなたが可哀想」
「……」
その言葉の意味を、貴聞は理解できなかった。
可哀想?
僕が?
どうして?
ただ、同じだというのなら。
ここで召使いをしている堀田のように、彼女も変えてあげればいい。
苦しんでいるのなら、そこから連れ出してあげればいい。
それだけのことだ。
「僕が幸せにする」
貴聞は迷わず言った。
「ミスミも、瑠璃子さんも」
「……」
「カンナに君を渡さない」
桜谷は何も答えない。
貴聞は彼女の顎へ指を添え、そっと上を向かせた。
濡れた瞳と目が合う。
そこにいるのがミスミなのか。
桜谷瑠璃子なのか。
もう、どちらでもよかった。
「愛してる」
貴聞はそう囁き、そのまま唇を重ねた。




