第45話「3人芝居」
次の日。
「遅い」
「時間ぴったりだろ!」
桜谷の部屋へ入った途端、昨日と同じような理不尽が堀田に飛んできた。
ベッドの端には、腕を組んだ桜谷。
その向かいには、椅子が2脚並べられている。
「おはようございます、桜谷さん」
俺の隣から、貴聞がひょこりと顔を出した。
「あなた、台本は覚えてきた?」
「もちろんです」
「……」
俺は思わず横を見る。
「お前、全部か?」
「昨日いただいた分は」
「嘘だろ……」
「堀田。君も当然、覚えてきたよね?」
「お前はどっちの味方なんだよ!」
貴聞は楽しそうに笑いながら、椅子へ腰掛けた。
なんでこんなに乗り気なんだ……。
どうやら昨日から、完全にこの芝居を気に入ってしまったらしい。
俳優でもないくせに、昨夜遅くまで台本を読んでいたのを俺は知っている。
桜谷が台本を開く。
「今日は3人でやるわ。トワが本格的にミスミへ近づくところから」
「分かりました」
「……嫌な予感しかしねえ」
「始めるわよ」
俺の抗議など聞く気もないらしい。
桜谷は長い黒髪を耳へかける。
それだけで、顔つきが変わった。
「……カンナ」
声まで違う。
さっきまで俺に毒を吐いていた桜谷ではない。
記憶を失い続ける少女――ミスミが、そこに立っていた。
「私、本当にあなたのことが好きだったの?」
「……ああ」
俺はそれに答える。
だが、また声が裏返った。
監督がいたら、メガホンを投げつけられるレベルだろう。
「でも、覚えてない」
「だったら、また――」
「無理に思い出す必要なんてないよ」
貴聞が割って入った。
トワの台詞だ。
椅子から立ち上がり、俺たちの間へ入ってくる。
「昔の君が誰を好きだったかなんて、今の君には関係ない」
そう言って、ミスミへ手を差し出した。
貴聞も、完全に雰囲気を作っている。
芝居は初挑戦だと言っていたのに、恥ずかしさなど微塵も感じさせない。
遊び半分どころか、本気の芝居だ。
思わず2人を交互に見てしまう。
気づけば、俺だけが観客になっていた。
「僕と新しく始めればいい」
桜谷がその手を見つめる。
そして、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「……トワ」
「おい」
思わず声が出た。
しかし、2人は止まらない。
これじゃ、俺だけマナーの悪い客みたいじゃねえか。
――そうだ。
芝居だ。
分かっている。
「ミスミ。そいつから離れろ」
そう思っていたはずなのに、なぜだか腹の底から声が出た。
「どうして?」
「どうしてって……俺は……」
台詞が続かない。
頭には入っているはずなのに、口に出そうとすると、どうしても昔の記憶が邪魔をする。
君野。
桜谷。
俺。
あの頃は、誰かが君野へ手を伸ばすたび、奪われると思っていた。
だから俺も、必死に手を伸ばした。
「カンナ?どうしたの?」
桜谷が俺を見つめる。
そのときだった。
「ねえ、ミスミ」
貴聞が桜谷の手を引いた。
「……は?」
台本にはない。
そのまま桜谷の腰へ腕を回す。
「おい!!」
貴聞は桜谷を抱き寄せ、その顔をじっと見つめた。
桜谷も動じない。
迫ってくる貴聞の顔を、真っ向から受け止めている。
そして貴聞は、桜谷の顎を指先で掴むと、親指でその唇に触れた。
「やめろって言ってるだろ!!!!!!」
俺の叫び声が、2人の間を切り裂いた。
「……ふふ。僕のトワなら、こうするかなって」
「は?」
「好きな人を、目の前で別の男に奪われそうになってるんだから」
貴聞の腕の中で、桜谷は何も言わない。
止める気もないらしい。
「それとも、昔の君はこの程度だったの?」
「……離せよ」
「え?」
「桜谷から離れろ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
貴聞の眉が、わずかに上がる。
「今のはカンナ?」
「知らねえよ」
俺は2人の間へ割って入り、桜谷の腕を掴んだ。
そのまま強引に、自分の方へ引き寄せる。
「……!」
桜谷の身体が、俺の胸へぶつかった。
そこでようやく、ハッとした。
――しまった。
これ、芝居だ。
俺、ただの輩じゃねえか……。
「悪い」
慌てて離そうとした、その瞬間。
「離さないで」
「え?」
桜谷が小さく呟いた。
顔を上げる。
目が合った。
ほんの一瞬だけだった。
桜谷の顔から、ミスミが消えていた。
中学生の頃。
君野を挟んで何度も睨み合った、あの桜谷がそこにいた。
そして――笑った。
「……やればできるじゃない」
「お前……」
「続けて」
「いや、今の台本に――」
「いいから」
桜谷の目が、妙に輝いている。
さっきまでとは明らかに違った。
芝居がうまくいったから喜んでいる。
俺は、そう思った。
けれど――。
「……」
貴聞だけが黙っていた。
「どうした?」
「いや」
すぐに、いつもの笑顔へ戻る。
「面白いなと思って」
「何がだよ」
「お芝居が」
それだけ言うと、貴聞はにこやかに笑った。
「またやりましょう。まだ僕はミスミを諦めてない」
その台詞に、また俺の心が揺れる。
「当たり前でしょう」
桜谷まで即答した。
「私もまだ、どっちか決めかねてる」
「……はあ」
芝居だ。
分かっているのに、さっきからいちいち引っかかる。
ため息をつきながら、俺は台本を閉じた。
ようやく休憩に入ると、喉の渇きを覚え、俺は水を取りに部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下を歩いていく俺の足音が、少しずつ遠ざかっていった。
貴聞は閉ざされた扉をしばらく見つめたあと、ベッドへ腰掛けた桜谷へ視線を戻す。
「桜谷さん、お芝居、楽しかったです」
「あなたも俳優をやってみれば?きっとすぐ人気俳優になれるわよ」
「本物の俳優さんからそんなことを言ってもらえるなんて、とっても嬉しいです。でも、こういう状況だから楽しいんですよ」
「あら、もったいないわ。芝居の筋もいいのに」
「……僕、トワを演じるために、ミスミさんのことを少し知りたくて。一晩、台本を読み込んでみたんです」
貴聞は台本を持ち上げ、目元だけを覗かせながら桜谷へ語りかける。
「桜谷さんが欲しかったのも、ああいうことでしょう?」
桜谷は答えず、手元の台本をめくった。
貴聞は、その横顔をじっと見つめる。
「昨日、僕は少し勘違いしていたみたいです」
ページをめくっていた桜谷の指が止まった。
「何が?」
「あなたが堀田に何か未練を残している。それで、この芝居をやっているんだと思っていました」
「そういう解釈でいいんじゃない? 役者本人の分析までするなんて、新しいアプローチね」
「でも、それだとさっきの顔の説明がつかない」
桜谷がゆっくりと顔を上げた。
「……どんな顔?」
「とても楽しそうでしたよ」
「役者が芝居を楽しんで、何が悪いの?」
「何も」
貴聞は微笑んだ。
「だから、面白いんです」
「……」
「堀田に抱き寄せられたことより――」
一瞬だけ、貴聞の目が細くなる。
「昔の堀田が戻ってきたことの方が、嬉しそうだったから」
沈黙が落ちた。
窓の外で、風が木々を揺らしている。
「……何が言いたいの?」
「まだ分かりません」
貴聞はあっさり答えた。
「分からない?」
「はい」
そして、少しだけ楽しそうに笑った。
「だから、知りたくなりました」
桜谷の眉が、わずかに動く。
「あなたがこの芝居で、本当は何をしようとしているのか」
「……好きに考えれば」
「そうします」
貴聞は立ち上がった。
そして、テーブルに置かれた桜谷の台本へ一瞬だけ視線を落とす。
「桜谷さん」
「何?」
「いつから女優を目指していたんですか?」
桜谷が答えるより先に、廊下から足音が近づいてきた。
「水……お前らの分も」
扉を開けて戻ってきた俺は、2人に水の入ったコップを差し出した。
「堀田、ありがとう」
貴聞が受け取る。
「何の話してたんだ?」
「別に。大した話はしていないわ」
桜谷はそう言って台本を閉じ、俺からコップを受け取った。
なんだ?
さっきまでとは、少し空気が違う気がする。
俺が2人を交互に見ていると、桜谷は鬱陶しそうに眉をひそめた。
「何よ」
「いや……なんでもねえ」
「そう。じゃあ、今日は終わり」
「は?」
ついさっきまで、あれだけ本気でやれとうるさかったくせに。
桜谷は受け取ったばかりのコップを持ったまま、空いている手で俺たちを追い払うように振った。
「ここで飲まないで。出てって」
「水取りに行かせたのお前だろ!」
「続きは明日。時間厳守よ」
「だから今日も時間ぴったりだっただろ!」
「堀田、行こう」
貴聞が俺の腕を引く。
「お前も素直に従うなよ!」
「明日も楽しみだね」
「俺は全然楽しみじゃねえ!」
そのまま貴聞に引っ張られ、俺は部屋の外へ押し出された。
背後で、扉が閉まる。
「ったく……なんなんだよ、あいつ」
文句を言いながら振り返る。
閉ざされた扉の前で、貴聞はまだ楽しそうに笑っていた。
「お前、本当に気に入ったんだな。この芝居」
「うん」
貴聞は即答した。
そして、手にした台本へ視線を落とす。
「とっても面白くなってきた」
「……?」
芝居の話だろう。
そう思った俺は、それ以上気に留めなかった。
部屋の中に残された桜谷が、さっき貴聞に投げかけられた問いに、まだ答えていないことにも。
俺は気づいていなかった。




