第42話「第二次動物レース」
きいろが目を開けると、そこは真っ暗な廊下だった。
だが、まるで暗視ゴーグルでもかけているかのように、視界は良好だった。
パニックにならなかったのは、これが2度目だからだ。
冷たい空気が全身を撫で、またこの世界へ戻ってきてしまったのだと実感する。
「君野……」
名前を呼んだはずが、「ウウウ……」という唸り声が鋭い牙の間から漏れ出た。
視界の先には、自分の長いマズルが伸びている。
振り返れば、淡いクリーム色に輝く金色の身体が、龍のように長く湾曲していた。
試しに尻尾を振ってみる。ウルフカットの襟足のように毛足の長いそれが、ワイパーのように左右へ動いた。
「グルルルル……」
闘争本能が湧き上がり、喉の奥から低い唸り声が響く。
この姿になると、君野がほしいという欲求が、下品なほど全開になる。
きいろは鋭い歯を剥き出しにし、御主人様である白いワンピースの姫を捜して、竹馬のように長い脚で駆け出した。
ハッハッと荒い息を上げながら無限回廊を疾走し、いくつものドアを体当たりで破壊していく。
しかし、以前、君野が眠っていた部屋のドアを蹴破っても、そこには誰もいなかった。
どうやら建物は「口」の字型を保ったまま、部屋の位置や廊下の構造がランダムに変化しているらしい。ただし、部屋に置かれているもの自体は前回と同じだった。
きいろは黒い鼻先をタンスの隙間へ差し入れ、続けて誰もいないベッドへ押しつける。探知犬のように、君野の匂いが残っていないか入念に嗅いでいった。
だが、愛する眠り姫の痕跡は何ひとつ感じられなかった。
――君野……どこだ……!
「アウウウウウウ!!!」
遠吠えが、長い廊下を支配する。
そのとき、近くの部屋からチュイチュイと、小動物の悲鳴のような鳴き声が聞こえた。
音に反応し、きいろのふわふわの耳がピクピクと動く。
部屋を飛び出して隣へ向かうと、そこには白鳥ほどの大きさをした黒鳥がいた。
――貴聞……!
「ワン!!!」
きいろは威嚇するように、ひときわ大きく吠えた。
全身の隅々まで真っ黒な鳥。そのくちばしには、小さなハムスターが咥えられていた。
黒鳥は振り返ると同時に、長い翼を優雅に広げる。
床には、空になったケージが投げ出されていた。
貴聞はハムスターを人質に取ったまま、きいろと対峙する。
「ウウウウ……」
きいろは低く唸り、4本の脚の爪を絨毯へ食い込ませ、腰を高く上げた。
対する貴聞も翼を激しく羽ばたかせ、黒い羽を撒き散らしながら、くちばしに咥えたハムスターを見せつけるように持ち上げる。
――僕を攻撃するのか? こいつも痛い目に遭うぞ。
そう警告しているように見えた。
「ニャアオオオ……!!」
直後、背後の廊下から猫の威嚇するような声が聞こえた。
遠ざかっていく鳴き声。シャムネコの桜谷が、2人の対峙している隙に君野を捜しているらしい。
その声を聞いた瞬間、きいろは躊躇なく床を蹴った。
俊敏な身体で一気に距離を詰め、黒鳥の長い首へ容赦なく噛みつく。
「クエエエエッ……!!!」
警告を無視された黒鳥は、報復するように、くちばしに咥えていたハムスターを飲み込んだ。
優雅で美しい黒鳥も、陸上での機動力はボルゾイに劣る。
そのままきいろに床へ噛み伏せられ、黒い羽を辺りへ撒き散らしながら動かなくなった。
ボルゾイのきいろは気を休めることなく、君野を捜して走り回るシャムネコの桜谷を追った。
廊下へ飛び出して右を見ると、開いたドアの先にベッドがあり、誰かが眠っている。
その胸の上では、桜谷が黒い尻尾をふりふりと揺らしていた。
――君野……!
その瞬間、きいろは競技用ピストルの号砲を合図に飛び出す陸上選手のように、4本の脚で長い廊下を駆け抜けた。
「ワンワン!!!ワン!!!」
バイクのエンジンをふかすような声を上げ、あっという間にベッドへたどり着く。
そして、君野の唇へキスしようとしていた桜谷を、長いマズルで勢いよく振り飛ばした。
「ンニャッ!!!」
シャムネコが短い悲鳴を上げる。
しかし、持ち前の運動神経で身体を翻し、床へ着地した桜谷は、すでに臨戦態勢に入っていた。
「シャーッッ!!!」
鋭い牙を剥き出しにし、きいろを威嚇する。
現実では同じ屋敷で暮らしている仲とは思えないほど、どちらも本能が剥き出しだった。
だが、桜谷より何倍も大きなボルゾイは、眼下で眠る君野を見下ろすと、その唇を長い舌でベロベロと舐め回した。
「フシャーーー!!!!」
全身の毛を逆立てたシャムネコが、嫉妬に駆られて再び襲いかかる。
飛びかかってきた桜谷に、きいろは容赦なく噛みついた。
致命傷を負い、力なく倒れた彼女へ、ボルゾイの長い鼻先が近づいていく。
「……やめろ、桜谷。お前では君野を扱いきれない」
桜谷の意識が遠のくなか、勝利宣言にも似た屈辱的な言葉が、動物レースの終わりを告げる合図のように響いた。
怒りのマグマが沸騰した。
「あああああ!!!クソッッッッ!!!!」
桜谷は絶叫しながら手足をばたつかせ、バネのようにベッドから上半身を起こした。
窓の外では、朝を知らせるように小鳥がチュンチュンと鳴いている。
その声を聞き、ようやく今いる場所が現実なのだと脳が把握した。
だが、あの夢の展開には到底納得できない。
桜谷は頭を掻きむしり、奥歯をギリギリと鳴らす。
「くうううう……」
額には汗が滲み、心臓は突然意思を持った生き物のように激しく波打っていた。吐き気すら覚える。
胸に手を当て、肩を上下させながら、何度も息を吸って吐く。
――水……。
ベッド脇の棚に置かれた水差しを見つけると、震える手でグラスへ注ぎ、一気に口へ含んだ。
カラカラに乾ききった喉を、冷たい水が流れていく。
ようやく生き返った桜谷は、悪夢を振り払うように右手で豪快に口元を拭った。
「誰が扱えないって……?」
頭が回り始めるにつれ、白黒きいろの言葉がじわじわと苛立ちへ変わっていく。
この屋敷へ来るために立てた計画は、すべて潰された。
挙げ句、きいろが即興で作った設定のせいで、屋敷の社交会では『面倒くさいやつの恋人』として腫れ物扱いまでされた。
計画は台なし。
――じゃあ、私、何をしにここへ来たの?
「ノコノコとお泊まりに来たわけではないのよ……」
夢の中のシャムネコと同じように、爪が食い込むほど強くシーツを握り締める。
「君野くんは、私のもの……!!」
怒りはまだ収まらない。
この屋敷に居続けるほど、シャムネコになるたび、自分がおかしくなっていくのがわかる。
白黒きいろへの憎しみも、堀田くんや白戸くんへの苛立ちも、直接この爪で引っ掻いてぶつけてしまいたいほどだった。
怒りの炎を再びたぎらせたその時だった。
コンコンコン――。
「……桜谷?大丈夫か?生きてるよな?」
堀田だ。
彼の優しい声に、胸の内で燃え盛っていた怒りが、ほんの少しだけ弱火になる。
桜谷は鍵を開け、小さく呟いた。
「……入って」
「お?おう……」
ドアノブがゆっくりと下がり、召使い姿の堀田がニョキッと顔を覗かせる。
「大丈夫か?さっき貴聞と白黒と俺で朝飯を食い終わったんだけど……お前、まだ寝てたみたいだったから」
「あんなことがあったのに、なに優雅に仲良くご飯食べてるのよ」
「いや……また食堂で吉郎が寝ててさ。白黒がかっさらっていった。お前がいなくてよかったと思う。食卓、また大荒れだったしな……」
苦笑いを浮かべる堀田を見ていると、無性に腹が立った。
桜谷は彼を一瞬睨みつけると、不意にその背後のドアを閉め、鍵をかけた。
「ん?」
堀田が目を見開いた。
桜谷はベッドへ腰を下ろし、腕を組んでため息をついた。
まだ苛立ちが収まらないのか、右手の人差し指が腕をトントンと叩いている。
「私、いつから気を失ってた?」
「昨日帰ってきてそのままじゃないか?もちろん、中の様子は女子が確認した」
桜谷はキョロキョロと左右を見る。
舞台稽古から帰ってきたときのまま。
髪は結ばれ、服も着替えていない。バッグも腕時計も身につけたままだった。
「どうした?」
堀田の声を無視し、しばらく黙り込む。
荒れ狂う感情を押し殺し、眉間にしわを寄せたまま、桜谷は言った。
「……付き合って」
「は?」
「舞台の練習をしたいの。だから、それに付き合って」
「あ、ああ……。そんくらいなら全然……。それより朝飯は?持ってきてやるか?」
桜谷は聞いていないとでも言うように立ち上がると、肩に掛けていたバッグから1冊の本を取り出し、堀田へ差し出した。
「なんだ、これ?台本?」
ピンク色の表紙には、『タイトル未定(恋愛もの)』と黒いマジックで手書きされている。
「見てもいいのか?」
堀田が受け取ると、桜谷は1つ頷いた。
「ちゃんと演出家には許可を得てるの。信頼関係のある人だから、心配しないで」
「いや、そっちの事情はわからねえけど……」
「カンナ君のところが、あなた。私はミスミちゃん」
堀田が台本をペラペラとめくっていく。
しかし、物語は途中で終わっており、最後のページの右下には『第1稿』と記されていた。
どうやら、高校生同士の恋愛ものらしい。
ミスミちゃんは物語の主役。そしてカンナ君は、彼女に憧れを抱く、どこか頼りない男子だった。
「……これ、どうなるんだ?」
「さあ。これから稽古を重ねながら決まっていくものなの」
「へえ。結構、雑なんだな……」
桜谷は髪ゴムを外し、長い黒髪を解いた。
バッグをベッド脇へ置き、腕時計を外すと、髪を掻き分けてうなじを露わにする。
「ねえ、背中のボタン、外してくれない?」
「……ああ」
堀田の顔が引きつった。
露わになったうなじを前に、彼の喉がひくりと動く。
青春時代の幼い面影を残しながらも、真っ赤なワンピースを着こなすほど大人になった桜谷を、どう見ればいいのかわからないらしい。
その気恥ずかしそうな反応を、桜谷は黙って見つめていた。
覚悟を決めた堀田が、恐る恐る背中のボタンへ手をかける。
ボタンが1つずつ外れていくにつれ、内側の赤い下着が覗いた。
堀田の目が見開かれる。
ベッドに並べてあったものと同じだと気づいたらしい。
ごくりと唾を飲み込む音が、桜谷の耳にも届いた。
「……ふふ。やっぱり、あなたはカンナ君にぴったりね」
「俺をヘタレだって言いたいのか?」
ワンピースの背中が開くと、桜谷は髪を揺らしながら、それを脱ごうとする。
「何見てるのよ、変態。朝食、持ってきて」
「あ、ああ!」
「台本もあなたが持って。全部覚えてくるのよ」
「!」
「早く行きなさいよ」
「女性の召使い、呼ぶか?」
「あら、私は堀田くんでいいわ。……いいえ、カンナ君で」
桜谷はニヤリと笑うと、彼を挑発するように、わざとらしく再びワンピースを脱ごうとした。
その仕草に、堀田は慌てて台本を握り締め、逃げるように部屋を飛び出した。




