第41話「乱れるラテアート」
貴聞は浴場襲撃の直後、脱衣所でずぶ濡れになったスーツを着替え、濡れた髪をドライヤーで乾かした。
着替えたところで、黒いシャツに黒いパンツ、そして黒いスーツ。
普段とほとんど変わらない格好だ。
寝室の少し先には、広々としたリビングルームがある。
貴聞はそこに置かれた長いソファへ優雅に腰を下ろし、開放的な大窓から見える景色を楽しんでいた。
その隣では、堀田がコーヒーを淹れている。
「美味しいよ、堀田。コーヒー淹れるの上手になったね」
「豆が美味しいんだろ。俺はただマシンにセットして、ガシャガシャってやっただけだ」
「僕にはわかるんだよ。等々元の味に近づいてきたかな。でも、まだまだ彼には及ばないけどね」
貴聞はニコニコと機嫌よく笑った。
今や当たり前のように隣にいる堀田は、白戸家の執事候補筆頭。
それを期待しているのか、貴聞は特別待遇とでもいうように、最近では堀田を連れて歩くことが多くなっていた。
その足元には、黒ボルゾイのレイヴンが丸くなって眠っている。
先ほどから目元をピクピクと動かし、夢の中。
例の部屋の小屋へ入れていたはずだが、今では甘えるように主人の足元へ居着き、離れようとしない。
貴聞はコーヒーの余韻を楽しんだあと、再び堀田へ話しかけた。
「等々元はいかなる時も、ラテアートを絶対に崩さない。堀田、今日はだいぶ崩れていたね」
「いや、お前がハートがいいなんて、めんどくさいこと言うからだろ」
「うん。美味しかったけれど、動揺している味に感じた」
カップを置き、貴聞は穏やかに笑う。
「何をそんなに揺れている?」
「いや、別に……」
空になったミルク用の銀色のカップを持ったまま、堀田は目を伏せた。
動揺がないわけがない。
先ほど等々元さんに声をかけられた時、こいつがスーツのまま風呂場へ特攻して、白黒と吉郎を襲撃したと聞いた時には驚いた。
どういうことだ?
夢の動物レースのあと、吉郎の記憶はまた抜けたのか?
つうか、白黒とは一緒に風呂へ入るような仲になったのか?
どこまで踏み込んだ?
吉郎を奪取しに来たのか?
そんな考えが次々と頭を駆け巡り、注いだミルクはそのままコーヒーの表面を乱した。
「安心してよ、堀田。彼らに体の関係はないとわかったから」
「そ、そうなのか?」
「教えてあげるよ。ハムスターの君に」
貴聞は長い脚を組み、ソファの肘掛けへ頬杖をついた。
そこがまるで玉座であるかのように、傍らに立つ堀田を見上げる。
しかし、その目は目の前に広がる青空さえ掌握するかのように、野望でギラギラと輝いていた。
「……こう推理できる。彼らは地上に上がってきた時、別々の浴場を選んだ。もうその時点で、体の関係がないことは明白だ」
「それだけでわかんのかよ……」
「それに、白黒きいろは意外と優しい人なんじゃないかってわかった。あんなに真っ白な吉郎を、丁重に扱っている」
「確かにな。アイツは優しい。けど、何考えてんのかわからないのも変わってなかったけどな」
「いや、優しい人だよ」
貴聞は迷いなく言い切った。
「吉郎は、たとえ同性同士でも人前で裸になるのが苦手。僕もそれを知っている。白黒きいろがわざわざ離れたのは、吉郎を風呂場でゆっくりさせてあげたかったから」
一瞬、貴聞の口角が上がる。
「……それが、僕という隙を生んだ。それがヤツの弱点でもあるってこと」
「お前、だから浴場を襲撃したのか……?」
「それを確かめられただけでも、十分な収穫だ」
貴聞はカップへ視線を落とした。
「あいつは吉郎を、信仰しているだけなのかもしれない」
「……」
コイツの計り知れない行動力と明晰な頭脳に、寒気がする。
堀田は一瞬身震いしたのを悟られまいと、小さく咳払いをした。
しかし、その咳払いを笑うように、冷徹な声が続く。
「白黒きいろが僕にビビっていたら、今夜、再び動物レースが始まると思わない?」
「……うん?どういう意味だ?」
「さっきの襲撃だよ」
貴聞の瞳が、じっと細められる。
「白黒きいろと数日間、地下室で一緒にいたはずの吉郎は――初めましての僕の虜だった」
「……そうなのか……?」
「まさに僕が白鳥――真実の王子様だって、そんな顔をしていた」
「あいつは何が狙い?堀田」
「いや……わかんねえな。基本、天邪鬼だしな」
その答えを聞いた貴聞は、1度ゆっくりと深呼吸した。
そして再び、野心を滲ませた目で堀田を見つめる。
「だから今夜こそ……絶対に勝つ」
低い声とともに、奥歯がわずかに軋む。
「吉郎を、あの悪魔から救う……」
そう言い切ると、貴聞は何事もなかったように、堀田の淹れた温かなカフェラテへ口をつけた。
一方、地下室に戻ったきいろと君野。
浴場でありったけのキスをしたあと、君野は替えの白いワンピースを着せられ、お手製の段ボールベッドの上でうとうとしていた。
その視線の先には、相変わらず絵を描き続けるきいろの広い背中がある。
熱烈なキスを交わした直後から、僕たちは目も合わせず、会話すらしていない。
けれど、それがかえって安心するのか、まぶたはどんどん重くなっていく。
「……眠い……」
おかしい。
暇すぎて、大して動いてもいないはずなのに……。
なんでこんな尋常じゃないくらい、視界が定まらないんだろう。
君野はその異様な眠気に、病気なんじゃないかと一瞬怖くなった。
カクン、カクンと頭が揺れる。
まるで、まぶたを開けておく機能を失った人形のようだった。
「きいろ君……」
君野は眠気に抗うように身体を起こした。
浴場を出てからというもの、きいろは数時間ずっと絵を描いたまま。
会話がないことが、急に寂しくなったのだ。
それに、ずっと気になっていることがある。
きいろは僕に段ボールベッドを作ってくれたのに、自分のベッドは作っていない。
ここ数日、壁に背中をつけて眠っている。
それがずっと心配だった。
「……う……ん……」
ダメだ。
ここで寝たら……!
いくら譲っても、きいろはこのベッドで寝てくれない。
今日は絶対に、ここを譲るって決めたんだから……!
「あ、そうだ……。僕がもう1個、段ボールベッドを作ればいいのか……」
そうだ。
じゃあ、作り方を教えてもらおう……。
君野は今にも意識ごと落ちそうになりながら、ふらふらと立ち上がった。
霞む視界の中、目の前にいるきいろへ右手を伸ばす。
「きいろ君……」
その時だった。
きいろの背中へ、ドサッと重みがのしかかった。
耳元から、白いワンピースに包まれた君野の腕がだらんと垂れる。
きいろは驚くこともなく、その身体を背中で静かに受け止めた。
スー、スーと浅い息が耳元にかかる。
きいろは思わず筆を止めた。
その小さな寝息だけに、意識を支配されていく。
「僕……段ボールベッド、もう……1個、作ろうと思う……んだ……」
「……」
「そうしたら……きいろ君も……寝られる……でしょ……」
「気持ちだけ受け取る。ありがとな」
だらんと垂れた君野の手を、きいろは優しく握り返した。
すると、首元へ回っていた腕が、縋るようにさらに絡みついてくる。
「まだ寝たく……ない……んだ……。なのに……すごい……眠くて……」
「……」
やっぱりか。
最悪の事態だ。
大広間の食堂で聞いた君野の症状。
きいろは、再び君野が『眠り姫』になるのだと悟った。
すると君野は、残った力を振り絞るように、きいろの耳元で何かを呟いた。
「……また……会えるよね……」
きいろの目が、わずかに揺れる。
「当たり前だ」
迷いなく答えた。
「お前が嫌でも、俺がまたここに連れてくる」
その直後。
肩にかかっていた重みが、ずるりと横へ傾いた。
「……!」
きいろは手にしていた筆を落とし、すぐさま振り返って君野の身体を支えた。
もう意識はない。
力なく垂れた首を、大きな手でそっと支える。
きいろは眠ってしまった君野を抱きかかえ、段ボールベッドへ優しく戻した。
薄い毛布をかける。
額を撫でる。
頬を撫でる。
終始仏頂面だったきいろは、眠る君野をじっと見つめたあと、その唇へ静かにキスを落とした。
「……またな」
名残惜しそうに、額にかかった髪を指で撫でる。
それから、きいろは静かに立ち上がった。
そして、きいろは静かにイーゼルの前へ戻った。
床に落とした筆を拾い上げる。
筆先には、まだ黄色い絵の具が残っていた。
「……」
目の前にあるのは、描きかけの君野の肖像。
きいろはそのキャンバスを、しばらく無言で見つめていた。
やがて――。
黄色い絵の具がついた筆を、ナイフでも突き立てるようにキャンバスへ叩きつけた。
そのまま、殺陣のように大きく十字を切る。
「……くっ……」
ギリッ、と奥歯が鳴った。
もう1度。
さらにもう1度。
先ほどまで繊細に動いていた筆が、今度は感情をぶつける凶器のように、でこぼことしたキャンバスの上を荒々しく走る。
黄色。
白。
その下に描かれていた君野の顔。
何を消したいのか。
何を残したいのか。
自分でも、もうわからない。
ただ、胸の奥に押し込めていたものだけが、筆先から溢れ出していく。
きいろは狂気的に筆を暴れさせた。
自分でも何を塗り潰しているのかわからないまま――。
眠り続ける君野のそばで、ただひたすらに。




