第40話「黒鳥の水浴び」
びしょ濡れになった君野は、目隠しをされたまま、きいろに担がれて屋敷の廊下を運ばれていた。
2人の身体から落ちる雫が、床へポタポタと跡を作っていく。
きいろの背中側へだらりと腕を垂らしながら、君野はふと思い出したように口を開いた。
「僕、このワンピースが黄色くなった時ね……なんか、思い出さなきゃって思ったんだ」
「ほお。どんな?」
「う~ん……それが覚えてないんだけど、すごく大事なこと。思い出さなきゃいけないことだった気がする」
「ふん……」
前を向いて歩くきいろの胸に、一瞬だけ火が灯る。
しかし、誰かに息を吹きかけられたように、その期待はすぐに消えた。
君野は目隠しをされたまま、宙に浮いた足を軽くパタパタさせる。
「どうして僕、こんなに何も覚えてないのかな……」
「そんなことも稀にある」
「あるの? 本当に?」
「だから心配すんな。それもお前の個性」
「そっかあ。じゃあ、個性にしておこっか……」
そんな取り留めのない会話を続けていた時だった。
「白黒様!いかがなさいましたか……!?」
たまたま廊下を通りかかった等々元が、珍しく驚きの声を上げた。
その声に君野が反応する。
「等々元さん!?」
担がれたまま必死に上半身を起こし、見えない目で声のする方を向いた。
「僕です! 君野吉郎です!さっき、黄色い絵の具が入ったバケツをひっくり返して被っちゃって……真っ黄色になっちゃったの……」
「それはそれは……お怪我はございませんか、君野様。どうぞご安心くださいませ。直ちにご入浴の支度を整えさせていただきます」
等々元は上品に1つお辞儀をする。
聞き慣れたその声に、君野はほっと息をついた。
しかし、きいろは等々元へ視線だけを向け、低い声で告げる。
「時間がかかる。シャワーだけでいい」
「滅相もございません。白戸家の浴場は常に湯を張り、いかなる折にもご利用いただけるよう整えております。現在はどなたのご予定もございませんので、どうぞご遠慮なくお使いくださいませ」
そう告げると、等々元は深く一礼した。
機械仕掛けの人形のように、一切の無駄を排した動作で「失礼いたします」と再び頭を下げる。
床の清掃担当と、タオルや清潔な衣服を用意する召使いを呼ぶため、そのまま廊下の向こうへ消えていった。
「お前が先に入れ」
「え? きいろくんは入らないの?」
「お前は人に裸を見られたくないタイプ。俺の部屋にもシャワーはある」
「し、知ってるの?なんで?」
「さあな」
君野は思わず赤面する。
きいろはそんな君野を浴場まで送り届けると、自分もびしょ濡れのまま、その場を離れていった。
着替えはきっと、等々元さんが用意してくれるんだろう。
出る頃には、脱衣所に置いてあるはずだ。
なら、それまではゆっくり湯船に浸かってもいいかな……。
そこまで考えた時、君野はハッとした。
「というか……あれ? ここって、僕がいた屋敷だ」
等々元さんがいたんだ。
そりゃそうだよね。
「どういうこと……?」
よくわからない。
僕、ずっとこの屋敷の地下室で誘拐ごっこしてたの?
もしかして、数日がかりのドッキリ?
でも、誕生日なんてまだ先だし……。
浴場は、まるで高級な入浴施設の大浴場をそのまま切り取ってきたように広い。
サウナがあり、その近くには水風呂まである。浴槽の一角には緩やかな傾斜がつけられ、身体を預けて寝そべることもできそうだった。
君野は首を傾げながら、びしょ濡れになったワンピースのボタンへ手をかける。
その時だった。
ガラッ!!!
勢いよく、脱衣所のドアが開いた。
「っ!?」
驚いて振り返る。
そこには、真っ黒なスーツを着た男の子が立っていた。
まるで獲物を見つけたヘビのように首をわずかに低くし、こちらをネズミでも見るかのような目で、ニヤリと笑っている。
「な、なんですか……?あなたは……」
怯える君野へ近づいた少年は、黄色く染まったワンピースを目にした瞬間、わずかに目を見開いた。
そして、その腕を掴む。
「ちょっ……!!」
そのまま君野を連れ、湯気の立ち込める浴場へ踏み込んだ。
「うわああっ!!」
君野も引っ張られるまま浴槽へ足を踏み入れ、段差につまずいた。
ザブンッ!
胸から勢いよく湯へ落ちる。
一瞬、深さがわからず、君野は慌てて手足をばたつかせた。
咄嗟に目の前の少年へ縋りつく。
気づけば浴槽の真ん中で、その身体を強く抱き留められていた。
もう、お互い取り返しがつかないほどずぶ濡れだった。
「白戸貴聞」
「……え?」
「僕の名前だよ。吉郎」
知らないはずの少年が、当然のように自分の名前を呼ぶ。
「僕のこと……知ってるの?」
貴聞は答えず、君野の身体へ視線を落とした。
「ほら、見て。吉郎のスカートから、黄色が抜けていく……」
言われるまま視線を落とす。
水性の絵の具が湯の中へゆらゆらと溶け出し、黄色く染まっていたワンピースから、少しずつ色が抜け始めていた。
完全に落とすには、きちんと洗剤を使って洗う必要がありそうだ。
それでも確かに――黄色の下から、元の白が戻り始めている。
「ほら……ゆらゆら揺れてる。手についた色も、水に溶けてきた」
耳元へ落とされた囁きに、君野の身体がびくりと震えた。
目の前で溶けているのは、ただの絵の具のはずなのに。
自分の中にある何かまで、一緒に水へ溶け出していくような気がした。
「吉郎には、やっぱりこの白が似合う」
「あの……あの……」
うまく言葉が出てこない。
さっきまで地下室で抱いていた、きいろへの想いまで薄れていくようで怖かった。
なのに、目の前の少年を拒絶したいとも思えない。
どうしてこんなにも不安なのか。
どうしてこんなにも、この人を意識してしまうのか。
君野自身にもわからなかった。
「吉郎、こっち向いて」
「!」
貴聞の顔が正面に回り込む。
鼻先と鼻先が触れそうなほど近い。
濡れた前髪から落ちた雫が頬を伝い、その熱までこちらへ移ってきそうだった。
水に濡れた黒いスーツ姿の美少年。
怖い。
なのに、その妖しさから目を逸らせない。
君野は大きく目を見開いたまま、思わずその顔を凝視してしまった。
「見惚れた?」
「い、いえ……なんで、こんなことするんですか……?」
か細い声が、貴聞の心をくすぐる。
貴聞は妖艶な眼差しで君野の唇を見つめると、そこへ長い指をそっと触れさせた。
「っ……」
君野の肩がびくりと跳ねる。
すかさず、その長い指が両頬を挟み込んだ。
逃げ場をなくした君野へ、貴聞はにこりと笑う。
そのまま流れるように身体を寄せ、君野と一緒に肩まで湯へ浸かった。
「洗ってあげる。吉郎についたその黄色い汚れ、全部落としてあげる」
君野の髪へ、貴聞の指が入り込む。
掬い上げた湯をかけられるたび、髪の先から雫がひたひたと零れ落ちた。
その手つきに、また全身がぞわりと粟立つ。
さっきから、この胸の高鳴りが恐怖なのか、それとも別の何かなのか、自分でもわからない。
触れられるたび、地下室で過ごした数日間が、この人の黒い絵の具で上から塗り潰されていくようだった。
「じ、自分でやります……」
「僕にされるの、イヤ?」
「嫌というか……状況があまりにもおかしくて、混乱しちゃうんです……」
「そっか。じゃあ、気持ちを整理しよう」
貴聞は君野から少しだけ離れ、両腕を広げた。
「吉郎。僕の胸においで」
「……」
その瞳は、人間を色香で惑わせる妖怪のように艶やかだった。
君野はごくりと唾を飲み込む。
「僕がいなくて寂しかったよね。地下室に連れて行かれた、可哀想な吉郎を救えるのは僕だけ」
「……」
「だから――さあ、おいで」
首筋を撫でる。
頬を撫でる。
風が通り抜けるような、優しい指先だった。
優しい……。
まるで長い間施設で暮らし、ようやく優しい飼い主に巡り会えた保護犬のような気分だった。
気づけば君野は、その綺麗な手に吸い寄せられるように、頬の重みを手のひらへ預けていた。
そして再び広げられた両腕の中へ、ゆっくりと包まれる。
その瞬間だった。
「……っ」
頭の奥で、何かが弾けた。
真っ黒な背景。
蜘蛛の糸。
その中央に鎮座する、巨大で禍々しい蜘蛛。
何本もの脚が伸びてきて、僕の身体を掴んで離さない。
――あれ?
この人は……信じていい人、だよね……?
ぶるりと身体が震えた。
それでも、冷えた身体はすぐに湯の温かさへ包まれていく。
そうだよね。
きっと、ただの気のせいだ。
頭を撫でる手は、こんなにも優しい。
きいろくんは、大きくて温かい手だった。
でも、この人の手は違う。
優しいのに、どこか際どい。
指の1本1本が肌へ触れるたび、嫌でもその存在を意識してしまう。
「僕のこと、好き?」
「そ、そんなに仲良しでした?」
「今、僕にどうしてほしい?」
「どうしてって……」
「それで、僕たちがどんな関係だったのかわかるよ」
僕が、こんな若い子に……?
貴聞の顔がゆっくりと近づいてくる。
君野は逃げなかった。
このまま唇に触れられてもいい。
いや――。
捕食されても、いい。
そう本能が囁いた瞬間。
唇と唇が、触れ合った。
「貴聞!!!!」
直後――。
バシャッ!!
「っ!?」
大量の水が、2人へ勢いよく浴びせられた。
君野が驚いて振り向く。
そこには、衣服を着たまま浴場へ踏み込んできたきいろが立っていた。
鋭い目をさらに細め、貴聞を睨みつけている。
全身から水を滴らせながら、その表情には隠しようのない殺気が滲んでいた。
しかし貴聞は怯むどころか、見せつけるように君野の身体へ腕を絡ませ、さらに強く抱き寄せた。
「離れろ。お前に触れる権利はない」
「僕は、あの夢の中で起きていることを、勝ち負けだなんて思ってませんよ」
貴聞は君野を抱いたまま、静かに笑った。
「それは、あなたたちが勝手に定義したことです」
「ふん。その割にはルールを遵守してるじゃねえか。まるで俺が怖くて近づけないみたいにな」
「そう思っていればいいじゃないですか」
貴聞の笑みは崩れない。
「所詮、あなたが見て、考えている世界です。……それでいいですよ」
「……」
「君野を返せ」
低い声が響く。
貴聞はそこで初めてきいろから視線を外し、腕の中にいる君野を見た。
「吉郎」
「……なに?」
「どっちがいい?」
「え……」
君野は2人を交互に見る。
突然突きつけられた選択に戸惑いながらも、やがて、おずおずと指を伸ばした。
指差したのは――きいろだった。
「僕……きいろくんのところに行きたい……」
「寄越せ」
きいろが短く言い放つ。
すると貴聞は、あからさまに唇を尖らせた。
しかし抵抗はしなかった。
君野へ絡ませていた腕を、あっさりと解く。
「あ、あのね……!」
解放された君野が、慌てて貴聞へ声をかける。
「でも……悪い人じゃないと思うよ。白戸くん……」
一瞬。
貴聞の目が、君野を捉えた。
「ありがとう、吉郎」
そして、いつもの美しい笑顔を浮かべる。
「怖がらせてごめんね。僕はもう戻るよ」
軽く手を振った。
「またね」
それだけ言い残し、貴聞は濡れた黒いスーツのまま浴槽から上がった。
やがて脱衣所の方から、異変に気づいた等々元の声と、召使いたちが慌ただしく動く気配が聞こえてくる。
しばらくして、ドアの閉まる音がした。
貴聞はいなくなった。
浴場には再び、水滴の落ちる音だけが静かに響いていた。
静かな浴場に、水滴の音だけが響く。
湯の中には、ワンピースから抜け落ちた黄色い絵の具が、まだゆらゆらと漂っていた。
白へ戻っていく。
さっきまで全身を染めていた黄色が、もう取り返せないほど薄くなっていく。
その光景を見つめながら、君野は唇をぎゅっと噛んだ。
「きいろくん……僕……さっき、いけない気持ちになったんだ……」
「……」
「あの子に触れられてる時……」
きいろは何も答えない。
君野は申し訳なさそうに俯いた。
「怖かったけど……惹かれてる自分もいたんだ。すごくドキドキした。でも、それが好きなのかはわからなくて……」
湯の中で、黄色が揺れる。
「きいろくんに感じたものとは、違う気がする……」
「……」
きいろは水面へ浮かぶ黄色を見つめたまま、右手を伸ばした。
掴む。
だが、絵の具の溶けた水は指の隙間からするすると零れ落ちていく。
もう1度掬っても、同じだった。
手のひらには、何も残らない。
「でもね……」
君野の声が、静かな浴場へ落ちる。
「また会ってみたいって、思っちゃったんだ」
きいろの指先が止まった。
「それが怖いの……。あの子は僕にとって、どんな人だったのかなって……」
「……どうしてほしい」
「え?」
「お前は、どうしてほしい」
君野は少しだけ迷った。
それから濡れた身体をきいろへ寄せ、小さな声で答える。
「きいろくんからの愛がほしい……」
「……」
「さっきのこと、なかったことにしてほしい。キスして……」
きいろの心が揺らぐ。
君野は今、自分を求めている。
自分を選んだ。
それなのに――。
あいつの、あの余裕。
君野に拒まれ、自分を選ばれなかったというのに、貴聞はまるで負けた顔をしていなかった。
むしろ、何かを残すことに成功したような。
あの「またね」は、再会を確信している者の言葉だった。
きいろは奥歯を噛み締める。
「……わかった」
これは君野のため。
そして――自分の心のためでもある。
きいろは君野の頬へ手を添えた。
今度こそ、この腕の中から逃がさないように。
あいつが触れた感触ごと、自分で塗り潰してしまうように。
また、あのレースが始まっても――。
俺は勝つ。
そう決意すると、きいろは君野の唇へ熱く口づけた。
「んっ……」
1度では終わらない。
離れては重ね、また離れては重ねる。
先ほど貴聞が残した淡いキスを、なかったことにするように何度も唇を重ねた。
その間にも、2人の周囲では黄色い絵の具が水へ溶け続けている。
やがて君野のワンピースは――
ほとんど元の白へ戻っていた。




