第39話「金の忠犬」
あれから4日が経過し、季節は9月の初旬に入った。
桜谷は女優として活動し、舞台の稽古やその他の仕事で外出する時間が増えた。
貴聞も学生らしく、平日の日中は学校へ通わなければならない。
その間、白いワンピースを絵の具で汚した君野は、「誘拐」という建前のもと、大きなキャンバスへひたすら絵を描く日々を送っていた。
きいろは地下室へ誰も入れず、その独占された時間の中で、ただひたすらに絵を描き続けた。
そしていつの間にか、人懐っこくきいろへ甘えるようになった君野も、夢の中の『君野争奪レース』の勝者を称えるかのように、2人きりの時間を楽しんでいるように見えた。
「あ、これ、もしかして僕?」
君野の顔が途端に明るくなる。
この地下室で目覚めたあの日から、ずっときいろが1人で制作に取りかかっている1枚の絵。
君野は、その制作工程を飽きることなくじっと見つめていた。
適当に破いた白い画用紙をキャンバスへ貼りつけ、その上から絵を描き、さらに塗り重ねる。
かと思えば、また破いた画用紙を上から貼りつけ、それを剥がして、下に隠れていた綺麗な絵を露出させる。
そうして今度は、思うがままに絵の具をぶちまける。
整えるのか、壊すのか。
君野にはよくわからない。
ただ、きいろの手が動くたび、でこぼことした画面の中から、少しずつ1人の人間が浮かび上がっていった。
顔から胸元まで描かれた、油彩の君野だった。
しかし本人からすると、その姿はずいぶん現実離れしている。
きらきらと澄んだ大きな瞳。
透き通るような肌。
まるで綺麗に飾られた、美しいお人形さんのようだった。
「僕、こんなに澄んだ目してる?」
「ああ。俺にはこう見える」
「へへ。そうなんだあ」
君野は嬉しそうに、ニヒヒと笑った。
窓もなく、外の時間すらわからない地下室。
本来なら寂しいはずのその場所も、今の君野には、まるでアダムとイヴしかいない暗い楽園のように思えた。
木箱を椅子代わりにして前かがみに座る、きいろの広い背中。
そこへ君野はぴたっと体をくっつけた。
そして拠り所を探すように、背中へぐりぐりと顔を押しつけながら抱きつく。
「お前は俺が怖くないのか」
「不思議なんだ……僕、誘拐されてるはずなのに、ずっとここにいてもいいって思えるの。まるで僕が、きいろ君を誘拐しちゃったんじゃないかって思うくらい」
「それは極限状態で起こる心理状態だ。ストックホルム症候群。恋ではない」
淡々とした言い草に、君野はむっと頬を膨らませた。
好きにならないと出さないって言ったくせに……。
抗議するように、白いシャツの背中へさらに顔をぐりぐりと埋める。
ふがふがと鼻を鳴らしながら匂いを嗅いでも、きいろは怒りもしない。
筆を止めることすらなく、好きにさせている。
その拒絶しない態度に安心したのか、君野の口から、今まで胸の奥へ押し込めていた心細さがぽろりと漏れた。
「僕ね、よく覚えてないんだ。これまで、どうやって生活してたのか……」
きいろの筆先が、ほんのわずかに鈍る。
「ただね、大きなお屋敷に住んでて、愛してるペットたちがいて……あと、甘えさせてくれる執事さんがいたのは覚えてるの。等々元さん……だったかな。眠れない僕に、絵本を読んでくれてたんだ」
「本当に何も、覚えてないんだな」
「うん……だから、すごく寂しい」
君野は背中へ頬を押しつけたまま、目を伏せる。
「ずっと暗い場所を彷徨ってたんじゃないかって思うくらい。だから今は……一緒にいてくれるなら、きいろ君が悪い人でも、なんでもいい……」
「……」
筆が止まった。
数秒。
地下室に、何の音もしなくなる。
やがて我に返ったように、きいろは再びキャンバスへ筆を走らせた。
「あの……」
君野の口が、もごもごと動く。
――もっと甘えたい。
そう言いたかった。
けれど、絵の制作を邪魔するのは論外だ。
きいろはこの監禁生活の間、ただひたすら絵を描いている。
そして僕は、ずっとその真剣な横顔を見守っているだけ。
時々どこからか美味しい食事を運んできて、僕に与えてくれる。
怖いはずなのに……。
そんなところさえ、今では彼のとてつもない魅力に思えてしまう。
ストッキング症候群だっけ……。
それまでと言われれば、そうなのかもしれないけど……。
とにかく今は、このミステリアスな人が、とても愛おしく感じてしまう。
けれど――。
僕には、それがとってもじれったい。
「……あ!」
考えているうちに、君野の表情がぱっと明るくなった。
「きいろ君は、僕をここから出したくないの? もっともっと、いっぱい絵の題材にしたい?」
「どうだかな」
「ヌード以外ならなんでもするよ。横に立ってる?」
「いや、いい」
「……ねえ。僕、ここから本当に出られるの?」
「さあな」
「……むぅ」
ここまでくると、意図的にはぐらかしているようにさえ思えてくる。
わざとなのか。
不器用なのか。
それとも、意外と紳士なのか。
だったら、どうして僕の絵をこんなにも一心不乱に描き続けているんだろう。
煮え切らないきいろの態度に、君野の胸の奥へ、また小さなもやもやが膨らんでいった。
その煮え切らない態度に、君野はもやもやしたまま、きいろの足元へ視線を落とした。
木箱の周囲には、使い終わった筆やパレット、絵の具の容器が雑然と広がっている。
僕が使っていた安全なアクリル絵の具とは違い、きいろが使っているのは水で扱える油絵の具らしい。
「あ……」
そういえば、僕もやりっぱなしだった。
大きなキャンバスへ絵を描くのにも、今日はもう飽きてしまった。
せめて片づけくらい、自分でやってもいいだろう。
君野は床に置かれていた、大きなバケツへ目を向けた。
中には、まだ何にも使われていない、真っ黄色の液体がなみなみと入っている。
ちなみに、僕は自由に地下室の外へ出ることができない。
トイレや風呂へ行く時でさえ、目隠しをされたまま、きいろに肩へ担がれてどこかへ連れていかれる。
「ねえ、きいろ君。僕、今日はもう描かないから、これ片づけに行くよ。逃げないから、外に出てもいい?」
「そこに置いておけ。あとで俺がやる」
「僕、今すごく暇なんだけど……」
「あとで、お前のスマホを上から持ってくる」
「上……?」
君野は思わず天井を見上げた。
耳を澄ませてみると、確かに時折、人の足音らしきものが聞こえてくる。
もしかして、何人かのチームで僕を誘拐してるのかな?
そんな疑問を残したまま、会話はあっさり終わってしまった。
「……じゃあ、せめてこれだけ」
君野は大きなバケツを両手で抱え上げる。
中の黄色い液体が、ちゃぷん、ちゃぷんと揺れた。
きいろが出入りしている扉の近く。
地下室から上へ続く階段の手前まで、慎重に運んでいく。
その時だった。
「うわあっ!!」
つるり。
スリッパの足裏が、コンクリートの床を滑った。
「っ――!」
バランスを崩した君野は、バケツを抱えたまま背中から倒れ込む。
その先にあったのは、階段脇へ積み上げられた段ボールの山だった。
ドサッ!!
続いて、バケツが床へ叩きつけられる。
ガラン、と派手な音を立てて転がり、中に入っていた黄色い液体が一気にコンクリートへ広がった。
「いてて……」
「大丈夫か?」
異変に気づいたきいろが、すぐに振り返る。
黄色い液体は、まるで何か不穏な事件の痕跡のように、灰色の床をゆっくりと染めていった。
「あう……」
そして、その中心には――。
全身を真っ黄色に染めた君野がいた。
白かったワンピースも、髪も、腕も、あちこち黄色い液体まみれだ。
しかも尻は、潰れかけた段ボールの1つへ、すっぽりとはまり込んでいる。
「助けて……。ハマっちゃって、抜けない……」
情けない声を上げながら、君野は近づいてきたきいろへ両手を伸ばした。
足をばたつかせても、つま先は床へ届かない。
「きいろ君……?」
だが、きいろはすぐには助けなかった。
君野の前に立ったまま、しばらく無言でその姿を見つめている。
「……どうしたの?」
不安になり、君野が小さく尋ねる。
すると、きいろはようやく腰を落とした。
黄色い液体で濡れた頬へ、大きな手がそっと伸びてくる。
「……っ」
一瞬だけ身をすくませた。
けれど、その指先は驚くほど優しかった。
頬を伝う液体を、拭うようになぞっていく。
鋭い目。
無愛想な顔。
それなのに、触れ方だけはひどく丁寧だった。
君野はそのアンバランスさに、また胸を掴まれる。
きいろは、黄色に染まった君野をじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
「……まさに、君の色だな」
「君の色?」
「お前と俺で、君の色。黄色ってことだ」
「……ああ! 僕ときいろ君の名前を取って、『きいろ』ってことかな? 上手だね!」
「……」
その無邪気な返事を聞いた瞬間、きいろの瞬きがゆっくりになる。
何かを考え込むように、奥歯を強く噛み締めた。
そして、段ボールにはまったままの君野の頭を胸元へ引き寄せる。
「え……?」
濡れた前髪をかき分け、額へそっと唇を落とした。
「……お前は絵の中でも俺を狂わせる。そうやって、いつもな」
「今度は何の話?これ、恥ずかしいから早く助けてほしいよ……」
困ったように見上げてくる君野。
その無防備な上目遣いに、きいろの胸の奥で、抑え込んでいたものがふつふつと湧き上がる。
いや。
もう、ずっとそうだった。
絵でも描いていなければ、この小さな体を抱き潰してしまいそうになる。
後ろから細い首筋へ噛みついて、そのまま二度と離したくなくなる。
だから描いている。
目の前にいる君野へ直接ぶつけられないものを、絵の中へ塗り込めるように。
黄色に染まった白いワンピース。
段ボールにはまり、自分ではここから抜け出せない君野。
きいろの目には、それがまるで――二度とこの場所から逃げられない、眠り姫のように映っていた。
自分の中にある欲求が、そのまま形になって目の前へ現れたようだった。
「きいろ君……?」
君野の声で我に返る。
そんな穏やかではない感情とは裏腹に、きいろは寒さで小刻みに震え始めた君野の脇へ腕を差し入れた。
段ボールから軽々と引き抜き、そのまま抱き上げる。
「わっ……」
黄色い液体で濡れた体を、躊躇なく自分の胸へ抱き込んだ。
白いシャツにも黄色が移っていく。
「濡れちゃってるよ……」
「かまわない」
きいろの広い手が、君野の背中をゆっくりと撫でる。
冷えた体へ、まるでホッカイロのようにじんわりと熱が染み込んでくる。
「……お前にとって、俺は守護者だ」
「守護者?」
「いや――金色の大型の守護犬」
きいろは腕の中の君野を見下ろした。
「どこまでも、お前に忠誠を誓う」
「う、うん。ありがとう……」
よくわからない。
けれど、君野にとって大切なのはそこではなかった。
「それって……ずっと一緒にいてくれるってこと? 僕を1人にしない?」
「……」
きいろの腕が、わずかに強くなる。
「心配しなくていい」
そして、君野が求めていた言葉とは少し違う答えが返ってきた。
「もう外には出さない」
「……」
僕、連れ去られてるんだよね……。
なんだか、よくわからない。
ずっと一緒にいてほしいと言ったら、ずっと監禁すると返された気がする。
それなのに――。
このアクシデントで、ようやく彼の温度を思う存分感じられた。
それだけで、君野にとっては大きな成果だった。
とっても温かい。
こんなにも優しい。
誘拐犯なのに。
好きになってはいけない人なのに。
「寒い……。もっと甘えてもいい?」
「……少しなら」
「へへ……」
許可が出た途端、君野は嬉しそうに、きいろの胸へぐりぐりと顔を埋めた。
きいろは止めない。
ただ黙って、黄色に染まった小さな体を腕の中へ収めている。
好きになってはいけない。
そう思えば思うほど、君野はそのミステリアスすぎる胸から離れられなくなっていった。
そしてきいろもまた――。
自分を守護犬と呼びながら、その腕だけは、君野を外の世界へ返すつもりなど微塵もないかのように強く抱いていた。




