第38話「お前の色」
きいろと桜谷が去った直後の食堂。
貴聞と堀田は、まだそこに残っていた。
貴聞は今、食卓で起きた出来事に神妙な顔つきで椅子に座り、その場に留まり続けている。
堀田は荒れたテーブルを直しながら黙々と作業を続け、時折その様子を気にするように目を向けていた。
やがてすべての食器を片付け、派手に汚れてしまったテーブルクロスを回収しようとする。
だが、そのためには貴聞にどいてもらわなければならない。
堀田はその意味も込めて、つい会話を投げかけた。
「……吉郎の夢の中で、動物化がアイツの意思なら、俺がハムスターってどういう意味なんだろうな」
「堀田は勘違いしているよ。ハムスター化は僕の意思でもある。でも、レイヴンやジュンになったのは僕がしたわけじゃない。君がハムスターから変わらなかったのは、吉郎がその君をカワイイと言ったからかもしれないね」
貴聞はテーブルに肘をつき、斜めにした顔を目の前の水が入ったワイングラスへ向ける。
こんな時にも、自分の顔を見てうっとりでもしているのか……?
その光景に、堀田はテーブルクロスを持ったまま手を止め、つい会話に夢中になった。
「じゃあ、お前の黒鳥は?」
「ああ、そうなんだ。堀田はさっきの僕の説明に、納得がいっていないようだね」
相当不本意だったのか、嫌味を含んだ低い声が堀田の心臓を掴む。
「いや……その……なんだ。黒鳥であることがお前そのものだと思ってたから、それを自分で否定するとは思ってなかったんだ」
「僕が黒を着ているのは、美を際立たせるため。だから本質は黒じゃない。あの夢の中で僕は、真っ白な白鳥でないといけなかったはずだ」
すると、グラスへ向けていた目が、すぐ横にいる堀田を舐めるように見つめた。
「僕は、吉郎の白馬の王子様だから」
「お、おう……」
白馬の王子様?
本気で言ってるのか?
堀田は思わず傾けそうになった首を途中で止め、咳払いを1つして誤魔化した。
「僕はあの夢の王国の国王だ。そして、吉郎は眠りのお姫様。あの夢の中を制してキスをしたら、ステキな魔法が効くと思わない?」
「魔法?なんだそりゃ」
「僕が真っ白になるってこと。黒鳥から白鳥に。愛は絶対に伝わっているはず」
「どうなんだろうな……」
「絶対にそうなる。僕が言ったことは絶対だ。堀田はそれを1番よくわかっている」
「……」
本当に、それは想像するようなステキな魔法なのか?
話を聞けば聞くほど、まるで貴聞の欲望が吉郎の夢の中を乗っ取っているようにも思える。
見たこともない黒鳥
そして、吉郎が愛しているボルゾイのレイヴンとシャム猫のジュンに姿を変えた白黒と桜谷。
白黒が言った――「異物」。
それはまるで、1人の人間の体内で戦う免疫細胞と病原菌の関係だ。
その考えが、ついそのまま口から出てしまった。
「けど、今回お前はあの白黒に負けたんだろ。君野が次に目覚めたらどう動くか、わかったもんじゃないしな……」
「“負けた”だって?」
すると、グラスに映る自分の顔を見つめていた貴聞が立ち上がり、聞き捨てならないとばかりに堀田へ詰め寄った。
マズい!
冷たい汗が流れ出るより先に、堀田はいつの間にか窓際まで追いやられていた。
「へえ……堀田はそう思っているんだ。僕が“負けた”だなんて」
「いやいや、実際俺も見てないんだ。話だけ聞いただけだからさ……」
テーブルクロスを持っていなければ、両手を肩の位置まで上げていただろう。
案の定、貴聞は彼をしつけるように、シャツの第2ボタンまでを外す。
そして襟元へ両手を突っ込み、外すことのできない堀田リングのチェーンを、胸ぐらを掴むようにぐっと引っ張った。
自然と端正な顔が近づく。
鼻と鼻が触れてしまいそうな距離だ。
だがもう、この綺麗な顔に見惚れる心の余裕はない。
貴聞は、白鳥になろうとしているとは思えない、あの巻きつくような黒蛇の目を向けた。
「堀田はあの会話の文脈で、本当に僕が負けたと思ったんだ」
「いや…その…」
「もう1度思い出して。僕、なんて言った?」
「なんてって……確か、白黒の野蛮な行為は、吉郎が認めるわけない的なことを言ってたな……」
「どうしてその僕の声が届いていないの?わかるまで言うよ。あれはアイツらが勝手につけた定義だ。あの夢のルールじゃない。だから勝ち負けもない」
「……あそこは“精神力”が物を言う世界だよな……」
「そう。けれど、それで順位がつく出来事じゃない。アイツらは僕に順位をつけて、優位に立ちたかっただけ」
「な、なるほどな……」
「……吉郎が目を覚ましたら、アイツだけを覚えている状態になっているかもしれない……!」
やりきれない思いを吐き出すように、その震える声が床へ落ちる。
その瞬間、堀田リングのチェーンが目の前でクロスされ、首に痕がついてしまいそうなほどキツく締まった。
そして、凍えてしまいそうな低い声が耳元で響く。
「堀田は僕の言うこと聞けるよね?」
「……ああ、聞ける……だからもう許せ」
こいつには敵わない……。
そんな絶望と冷たさが、氷のように背中を撫でる。
「よかった……。堀田のことは好きだよ。ハムスターにして閉じ込めてしまうくらい」
本当に、吉郎が俺をハムスターにしたのか…?
ひい……!
貴聞はそう言うと、首にぴったりとくっついたリングの輪の中、そのダイヤへキスをする。
首筋から心臓にかけて、堀田の身体にビリビリと電気が走った。
「……ん……」
一方、君野が目を覚ますと、コンクリートの天井と、むき出しの木の梁が目に飛び込んできた。
上半身を起こし、あくびをしながら眠い目を擦る。
「ここ、どこだろう……」
相変わらず白いワンピースを着ている。
その上には薄い毛布。
身体の下には、少し薄いマットレスが敷かれていた。
「段ボール……?手作り?」
よく見ると、よれた正方形の段ボールが8つ、ブロックのようにくっつけられ、その上に寝かされていたようだ。
そして横へ目をやると、1人の男がいた。
学校机の天板ほどのキャンバスをイーゼルに立て、その前で絵を描いている。
「……誰……ですか?」
暗い部屋。
心もとない電灯に、窓1つない広い密室。
どこかの倉庫?
地下室?
息の詰まるような空気に、その声は怯えるように震えた。
しかし男は絵に集中しているのか、繊細な筆の作業に夢中で気づいていないようだ。
この絵を描いている人に、僕は誘拐された?
それとも、この人も誘拐されちゃった人?
君野は寝床から立ち上がると、裸足のまま男へ近寄った。
そこで、キャンバスに描かれた絵が目に入る。
「わあ、上手」
美術館に飾ってあるような油絵だった。
ただ、キャンバスの表面はボコボコしている。
破いた色付きの画用紙が無造作に貼られ、その隙間から下地の白いキャンバスがところどころ露出していた。
描かれているのは、胸から上の、正面を向いた人物の顔。
「あの……」
不安そうに声をかけると、男は筆を止め、急に立ち上がった。
……デカい。
180センチはある。
薄暗いこの場所と相反するように清潔感がある。
年齢も自分とそう変わらなそうだ。
それだけが安心材料だった。
「こっちに来い」
男は君野の腕を掴むと、壁際に立てかけられた大きなキャンバスの前まで連れていく。
まだ真っ白で、何も描かれていない。
縦は、167センチの僕が立った高さに、足元から膝までをもう1度足したくらい。
横は、僕が5人並んでもまだ余る。
学校の黒板2枚分が、そのままキャンバスになったみたいだった。
すると男はすかさず絵の具とバケツを持ってきて、君野へ筆を渡した。
「好きなものを描け」
「え、でも僕、絵描けないよ。下手だし……」
「関係ない。……なんでもいい。手のひらのスタンプでも、丸でも三角でも四角でも。好きな色で、好きな形を、好きなところに入れろ」
「……うん」
一体、何を考えている人なんだろう。
男はそれだけ言うと元の位置へ戻り、自分のキャンバスに向き合った。
「……」
1人残された君野は、大きなキャンバスを見上げ、適当に筆を乗せる。
すると、不思議な懐かしさに襲われた。
こんなこと、前にもあったような、なかったような……。
その感覚に背中を押されるように、木のパレットを指にはめ、右手に持った筆で夢中になって好きな絵を描いていく。
園児が描くような動物や花。
今度は左手にくまなく絵の具を塗り、それをキャンバスへスタンプのように押していった。
こんな状況でも、楽しいと感じるものなんだな。
君野はひたすら、白いキャンバスを自分好みの色に染めていった。
すると、いつの間にか真後ろにあの男が立っていた。
君野が振り返ると、彼はなぜか握手を求めてくる。
その大きな手を握り返すと、君野の手についていた青緑の絵の具が、感染するように男の手にも付着した。
「画家をしている。白黒きいろだ」
「それが名前?僕は君野吉郎……よろしく……あ、よろしくしちゃ駄目か」
そのボケた言葉にも、きいろは無表情のまま。
その反応に怖くなった君野は、先ほどまで絵を描いて楽しんでいた気持ちが嘘のように、震える唇で尋ねた。
「お金ですか?僕、広い屋敷に居候してるだけで、お金持ってませんよ……」
「お前はここで、あの絵を完成させない限り、この部屋からは出られない」
「え?」
「それに、俺を好きにならないと出られない」
「それは……どういう種類の誘拐……?」
そのか細い声に、きいろは思わず君野を強く抱きしめた。
「っ……!」
怯えてビクッと強張った華奢な背中。
そこへ、きいろの指についていた青緑の絵の具が付着し、真っ白なワンピースを染める。
「もう、この白でいる必要はない」
「……?」
「お前にはもう、ちゃんと色がある」
きいろはそう言うと、その色を押しつけるように、硬直する君野をさらに強く抱きしめた。
続きが見たいという声があったので、行けるところまで不定期でやります。




