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第36話「不可思議」

 その日の夜。


 白戸家の食堂がある大広間では、珍しく大規模なパーティーが開かれていた。


 いつもの長テーブルは撤去され、丸テーブルが並ぶ立食形式の会場へと様変わりしている。


 上質なスーツやフォーマルドレスに身を包んだ来客たちが、数十人規模で屋敷へ集まっていた。


 シャンパンの泡と談笑が広間を満たし、その中心に立つのは白戸家当主・白戸貫聞しろどかんぶん


 誰よりも落ち着き払い、来客1人ひとりへ穏やかに視線を向ける。


 まるで、その場にいる全員の心を掌握しているような余裕だった。


 一見すると、成功者たちが集う華やかな社交パーティー。


 だが実際は、当主が10年以上かけて育ててきた大口商談をまとめるための顔合わせだった。


 見た目こそ華やかだが、その実態は重要なビジネスの場である。


「今夜は部屋から絶対に出るな」


 その命令が屋敷中へ出されていた。


 息子たちも、動物たちも、廊下へ出ることすら許されない。


 表には出ない緊張が、屋敷全体を静かに支配していた。


 一方、その裏側では。


 召使いとなった堀田ほったが、休む間もなく雑務をこなしていた。


 皿洗い。


 飲み物の補充。


 戻ってきた食器の片づけ。


 残飯を袋へまとめ、ゴミ捨て場まで何度も運ぶ。


 大きな袋を背負って歩く姿は、まるでサンタクロースだった。


 もう何往復したかわからない。


 俺は……何をやってるんだ。


「よっと!!」


 少し高く積まれたゴミ置き場へ向かって、腰を使い袋を放り投げる。


 この動作も、もう身体が覚えてしまった。


 こんな時だけは、この人気のない暗い場所に吹く冷たい風へ、ずっと当たっていたかった。


 額の汗を腕で拭い、堀田は深く息を吐く。


「はぁ……いつまで食って喋ってんだよ。あと何時間いるつもりなんだ、ほんと」


 ようやく口を開けば、愚痴しか出てこない。


 1分だけ身体の力を抜き、大きく伸びをする。


 裏口の扉へ背中を預け、夜空を見上げた。


 満天の星。


「あぁ……俺って、あのハウスダストみたいなちっぽけな存在なんだよな……」


 星ですらない。


 小さすぎる塵。


 ……いや、まだ光っているだけマシか。


 自嘲気味に笑い、重い身体を引きずるようにキッチンへ戻ろうとした、その時だった。


君野様きみのさま!今は駄目です!それはお客様のお料理です!」


 騒ぎ声が聞こえる。


 ゴミ捨て場から戻る途中、数人の召使いが白い何かを取り囲んでいた。


 ひらひらと揺れる白いワンピース。


 食事を運ぶ召使いの後ろを、夢遊病のようについて行こうとする君野だった。


「吉郎!」


 堀田は駆け寄る。


 疲れ切っていた身体へ、一瞬で力が戻った。


 そうだ。


 吉郎は昼から眠り続けたままだった。


 てっきり貴聞きぶんと一緒に眠っているものだと思っていたが、腹が減ったまま夢遊病でここまで来てしまったのだろう。


 目を閉じたまま、小さく口を開いている。


「あ、堀田さん!何とかしてください!このままだと君野様が立食パーティーについて行ってしまいます!」


 君野のことなら堀田。


 そんな認識が屋敷中へ浸透しているらしい。


 召使いたちの困った視線が、一斉に堀田へ集まる。


「……チョコケーキだろ?」


 そう答えた瞬間だった。


 君野の鼻がぴくぴくと動く。


 口元からは、よだれが一筋こぼれ落ちた。


 その姿を見て堀田は思い出す。


 昼間、食べられなかったチョコレートケーキを冷蔵庫へしまっておいたことを。


「ほら。あっちで食べような」


 自分のシャツの袖で君野の口元を拭き、頭をくしゃっと撫でる。


 冷蔵庫からケーキを取り出して歩き出すと、不思議なことに君野もその甘い匂いへ吸い寄せられるようについてきた。


 堀田は君野を部屋まで連れて行き、静かに扉を閉める。


 ケーキをベッド脇の棚へ置き、夢遊病のまま立ち尽くす君野を見つめた。


 久しぶりの、2人きり。


 本当なら、それだけで胸が高鳴っていたはずだった。


 だが今は違う。


 貴聞に可愛がられ続けたせいなのか。


 俺がハムスターにされてしまってから


 吉郎は俺を「堀田さん」と呼ぶようになってしまった。


 以前なら衝動のまま抱き締めていた。


 今は、その手さえ伸ばせない。


 これでいい。


 そう思ってしまう自分もいる。


 だが一方で、桜谷に言われた言葉が頭から離れない。


 ――君野くんは助けを求めている。


「愛してるはずなのにな……」


 華やかな社交パーティーの音楽が遠くから聞こえてくる。


 その賑わいとは裏腹に、自分だけが取り残されている気がした。


「俺も……落ちたもんだな」


「ケーキ……」


 蚊の鳴くような声が聞こえ、堀田ほったは顔を上げた。


「ああ、悪かった。食べるか」


 君野きみのは目を閉じたまま、ふらふらとベッドへ腰を下ろす。


 口を小さく開け、餌を待っている姿は燕の雛のようだった。


 堀田はチョコレートケーキの皿を手に取り、その隣へ座る。


「今は俺より、チョコケーキなんだよな……」


 寂しさを紛らわせるように、苦笑した。


「そうだよな。お前、ここのケーキ好きだもんな」


 フォークでスポンジとクリームを小さくすくい、君野の口元へ運ぶ。


 君野は目を閉じたまま口に含み、幸せそうに頬を緩めた。


 その食べ方も。


 甘いものを口にした時の表情も。


 昔と何ひとつ変わっていない。


 それなのに。


 呼び方も。


 記憶も。


 右手で輝く指輪も。


 すべてが、堀田の知らない人生を歩み始めている。


「……」


 眩いダイヤモンドへ、視線を奪われる。


 以前なら、その指には自分が作った歪なリングがあった。


 今、そのリングは貴聞きぶんによって姿を変えられ、堀田自身の首へ掛けられている。


 目の前にいる君野へ、自分が恋人だった証は何ひとつ残っていない。


 堀田は何も言えず、ただ介護でもするようにケーキを食べさせ続けた。


 最後の一口を口元へ運ぶ。


 君野は満足したように、小さく息を吐いた。


「美味かったか?」


「……うん……」


 かすかな返事だった。


 その声を聞いた途端、堀田の張り詰めていた意識が大きく揺らいだ。


 朝から働き続けた疲労。


 パーティーの喧騒。


 君野を失いつつある痛み。


 すべてが一気に身体へ覆い被さってくる。


「ちょっとだけ……休むか……」


 フォークを皿へ置いた。


 ベッド脇の絨毯へ片膝をつく。


 次の瞬間には、重い身体を支えきれず、そのまま床へ横たわっていた。




「……はっ!?」


 意識が戻る。


 堀田は、真っ暗な部屋の中に立っていた。


「ん……? ここは……」


 何も見えない。


 空気は冷たく、音もない。


 だが、この暗さには覚えがあった。


 すぐに直感する。


 ここは、また吉郎の夢の中にある屋敷だ。


「嘘だろ……」


 数秒間、絶望に立ち尽くす。


 やがて自分の身体へ目を落とそうとしたが、暗すぎて何も見えない。


 それでも、床との距離が異様に近い。


 両手を動かすと、指ではなく、小さな前足が何かへ触れた。


「……あ」


 嫌な予感がする。


「俺、またハムスターなのか……?」


 恐る恐る周囲へ手を伸ばす。


 冷たい鉄柵。


 目の前には、やはり白いケージがあるらしい。


 外へ出ることはできない。


「どういうことだよ……」


 現実で倒れるように眠ってしまったのか。


 それとも、ケーキを食べさせていたところから、すべて夢だったのか。


 判断できない。


「また、あのガキに弄ばれるのか……!?」


 貴聞の巨大な顔が、脳裏へ蘇る。


 このまま再び、手のひらへ乗せられ、頬へキスをされるのかもしれない。


 堀田が小さな身体を震わせていた、その時だった。


 バタバタバタ――!


 部屋の外にある廊下を、何かが勢いよく駆け抜けていった。


「なんだ?」


 暗闇の向こうへ耳を澄ます。


 足音は、2本どころではない。


 複数の脚を持つ、大きな生き物。


 続いて、獰猛な唸り声が響いた。


 ガウッ、ガウッ――!


「犬……いや、狼か?」


 何かを追いかけているのか。


 あるいは、屋敷の中を探し回っているのか。


 重い足音が、廊下を何度も往復している。


「何が起きてんだよ……」


 堀田は小さな身体を守るように、ケージ内にある巣箱へ逃げ込んだ。


 暗闇の奥へ身を丸める。


 ギュイイイイイッ――!


「っ!?」


 今度は、甲高い悲鳴が響いた。


 直後に聞こえてきたのは、グワッ、グワッという潰れた鳴き声。


 大型の鳥。


 あるいは、鶏のような生き物だろうか。


 首でも絞められているような歪んだ断末魔が、暗い屋敷へ響き渡る。


「おいおい……何してんだよ……」


 毛に覆われた小さな胸が、激しく上下する。


 状況は何ひとつわからない。


 ただ、暗い。


 冷たい。


 そして、どこかで獣たちが暴れている。


 まるで夜の学校のトイレへ、たった1人で閉じ込められたような絶望感だった。


 ハムスターは汗をかかないはずだ。


 それなのに堀田は、脇や背中へ冷たい汗が張りついているような感覚に襲われた。


「早く目覚めろ、俺……!」


 巣箱の中で、前足を強く握る。


「疲れすぎて気絶してんのか……!?」


 ドドドドド――!


 再び、大型の獣が廊下を駆け抜ける。


 何かを執拗に探し続けているようだった。


 やがて、その足音が遠ざかる。


 一瞬だけ、静寂が戻った。


 ガチャリ。


「ひっ!?」


 今度は、この部屋のドアが開いた。


 堀田は巣箱の奥へ、さらに身体を押し込む。


 貴聞か。


 また何か、自分へ仕掛けるつもりなのか。


 だが、扉が開いてからも足音は聞こえない。


 誰かが入ってきた気配だけがある。


 沈黙が続く。


 パチッ。


 軽い音とともに、部屋の照明がついた。


「あれ……?」


 巣箱の隙間から、恐る恐る顔を出す。


 白いケージ。


 巨大な家具。


 見覚えのある、白戸家の一室。


 ハムスター姿の堀田が右往左往していた、その時だった。


 目の前へ、大きな影が落ちた。


 突然、目の前に大きな影が落ちた。


「うわああっ!?」


 それは猫だった。


 ゲージの置かれた棚へ軽々と飛び乗り、美しいペルシャ猫が青い瞳でこちらをじっと見下ろしている。


 白戸家当主が溺愛している猫、ジュンそのものだった。


 白い毛並みに、耳から鼻筋へかけて黒い模様。


 黒く長い尻尾がゆったりと揺れる。


 宝石のような青い瞳だけが、ゲージの中を興味深そうに覗き込んでいた。


 ハムスターになった堀田から見れば、その前足だけで柱のような大きさだ。


 袋小路へ追い込まれたネズミ。


 まさか、それを自分が体験する日が来るとは思わなかった。


 逃げ場もなく硬直していると――


「ふふ。堀田くんでしょ。ほんと散々ね」


「は……? 誰だ、その声……桜谷?」


 堀田がケージへ近づいた瞬間だった。


 猫は突然、肉球のついた右前足を振り上げた。


 青い瞳が獲物を狙うように細まる。


 次の瞬間。


 鋭い爪が飛び出し、ゲージ越しに堀田の顔面を思い切り引っかいた。


「うわあああああっ!!」


 その悲鳴とともに、堀田は勢いよく上半身を起こした。


「はっ……!」


 心臓が壊れそうなほど激しく鼓動している。


 全身へ電流が走ったように、指先まで痺れていた。


「はぁ……っ、うっ……!」


 息が苦しい。


 肩で何度も呼吸を繰り返し、ようやく視界が落ち着いてくる。


「……あれ」


 周囲を見回す。


 そこは君野の部屋だった。


 夢じゃない。


 現実だ。


「今……何時だ?」


 昨夜は確か、夜8時頃だったはず。


 窓の外へ目を向けると、すでに朝日が差し込んでいた。


 慌てて壁時計を見る。


「朝7時……!?」


 日付まで変わっている。


 どうやら自分は、君野へチョコレートケーキを食べさせたあと、そのまま絨毯の上で倒れるように眠ってしまったらしい。


「君野!」


 反射的にベッドを見る。


「……あれ?」


 さっきまで寝かせていたはずの君野の姿がない。


 部屋にもいない。


「あれ……?」


 堀田は立ち尽くした。


 本当に君野へケーキを食べさせたのか。


 ハムスターになった夢は。


 ジュンは。


 桜谷の声は。


 全部、夢だったのか。


「……わからねえ」


 頭が整理できない。


「桜谷に聞いてみるか……」


 堀田は自分の身に何が起きたのか理解できないまま、静かな部屋をあとにした。



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